エピソード ランドセル
朝は雲一つなかったのに、午後になると途端に雲が空を埋めてきた。
直が学童をやめ、夕方はAZITOに行くようになって半年。今日は初めてAZITOまで迎えに行く。
今日はあの子に傘を持たせていない。
ただ、あの場所は入りにくい。暗い階段もそうだけど、三階にはメイド喫茶。その店へ続く階段の途中にAZITOがある。
女性の私には、とても……。
きっかけは、一枚のチラシと一通の手紙だった。
チラシには、漫画喫茶? ゲーム喫茶? よく分からない店の案内が載っていた。
手紙のほうは、店長らしき人からのものだった。
直はそれらを私に渡すなり、
「学童やめて、ここに行きたい。店長が夕方いてもいいよって。しかもタダで」
と言ってきた。手紙を読んでみると、店長は息子とネットゲームで知り合ったらしい。
お宅の息子さんには才能があるだの、戦術? 瞬発力? だの。怪しいことこの上ない。
ただ、直があまりにもしつこく、二週間以上も毎日言ってくるので、お店に電話を入れ、近くの喫茶店で話を聞くことにした。
もし話に違和感があれば、警察に突き出してやろうと思っていた。
喫茶店で待ち合わせた店長は、髪こそ整えていないが、身なりにはそれなりに気を遣っているようだった。
ブルーのジャケットに、折り目のついたズボン。それでもって口調が柔らかい。
「初めまして。店長の……」
その後、将棋やカードゲームで直に散々打ち負かされたことや、ネット上では“ランドセル”という名前で遊んでいたことなど、私の知らない息子の一面を聞かされた。
「直君はもっと遊んでいいんです。むしろ、才能を磨くには今遊んでおかないと」
普通は逆だ。今勉強しておかないと、今鍛えておかないと、と言うものだろう。
この店長は、今遊ばせないといけないと言っている。
その代わり、お店へ出入りした際には私にメールが届く。来店時には必ず宿題をさせ、AIを使った学習も三十分入れる。
そして、直君には小学生ならぬ奨学生として、費用は取らないとのことだった。
その夜、旦那にそのことを話した。一緒になって否定すると思っていたのに、意外にも、
「直が毎日言うんだったら、行かせてもいいんじゃないか? 俺にも毎日毎日言ってくるぞ。俺がお店に行って直接話す」
との返事だった。
次の日曜日、AZITOへ向かった旦那は、帰ってくるなり、
「行かせていいと思うよ。あの男は悪い感じはしない。女の子の店員も……あれは娘か? いい子だった」
と言った。見事に陥落されたようだった。
息子は喜ぶ。先生から苦情のあった宿題忘れも、なくなるかもしれない。
ついには私まで陥落させられた。
思えば最近、朝の送り出しのときには「行ってきます、母さん」と、大人っぽく話すようになった。
昔は猫背で、学校へ行くのがだるいと言わんばかりに「いってきまーす」と語尾を下げていたのに。
最近の直は、明らかによくなった。しかし、あのテナントビルに毎日通っていると思うと、親としてはなんとも複雑な気分だ。
一昨日、どうしてもあの場所への不安を拭えず、「もう学童に戻ったら?」と直に尋ねた。
すると直は、おもむろにランドセルの中から、最近のテストをまとめたファイルを取り出してきた。答案用紙は、点数別に分けられているようだ。
その中から取り出したのは、百点の答案の束。半数以上が百点だ。
そして恐らく、これは私が「やめたら?」と言い出すことを想定しての事前準備。
ぐうの音も出ない。結果がすべてを伝えてくる。
ただ、あの場所はお迎えに行きづらい。
夕方五時半。テナントビルの下にたどり着いた。
ここで立って待つのも目立ちそうなので、やむなくお店の入口へ向かう。
その先には、メイドインヘヴンなるメイド喫茶。階段を上る一歩一歩が重く感じる。
二階の入口に立つと、女の子の店員が察したのか、店の外まで出迎えてくれた。
「ごめんなさい。私はお客さんじゃないので……」
そう恐縮していると、
「分かってますよ。直君のお母さまですよね? 傘を二本持っていますし。似てるから!」
満面の笑顔で接してくれた。旦那が落ちるのも分かる。
カウンター近くの席に座って待つように言われたので、しばらく直の様子を見てみることにした。
「モブさん、ありがたくいただきます!」
突然叫んだかと思ったら、そのまま椅子の上でガッツポーズ。
「直君は、いつも反応が早いね」
あまりにも場違いなほど整った、スーツ姿の男が褒めている。
「だけど、まだ半分も削っていないから、慎重に距離を取ってね」
スーツ姿の男が指示を出すと、息子はおとなしく従った。
数分後、直が満面の笑みで大人たちに話しかける。
「こっちの負傷者八名。プレイキャラは生存。熊相手に三部隊で。上手くなってるんじゃない?」
あんなやり切った笑顔は、家では見せない。
「あ、母さん。どうしたの?」
私は慌てて答えた。
「傘を持ってきたのよ。雨が降りそうだったから」
「ありがとう。ちょっと待っててね。今、締めるから」
そう言って、片づけに入った。奥では、影の薄そうな男がコクリと頭を下げている。
「初めまして。いつもお世話になっております。榊と申します」
いつの間にか、スーツ姿の男が横に来て、名刺を差し出していた。
○×商事……って、超大手じゃない?
震える手で名刺を受け取る。
「こ、こちらこそ、お世話になっております」
椅子に座りながらも、九十度に頭を下げる勢いで返事をする。
目の前のエリートが息子を褒め始めた。あまりの光景に、話が頭に入ってこない。
「それでは。これからも息子さんを頼りにしています」
息子の将来が、いっぺんに安泰な方向へひっくり返った気分になる。
何なのだろう、この景色。今まで感じたことのない感覚だ。
「母さん、準備できたよ。恥ずかしいからさ、早く帰ろう」
そのとき、奥から男の声が飛んできた。
「宿題はやったのか?」
息子は「やったよ」と軽く返す。
続いて、男が尋ねた。
「明日の武器は?」
武器?
「推古天皇に聖徳太子。冠位十二階、帽子の色は紫が一番偉い! それと、小野妹子は女じゃない!」
息子がそう答えると、奥から「上出来だ」と返ってきた。
そうか……明日は社会で、そのあたりを勉強するんだろう。
最近の成績の上がり方にも納得できた。
「ありがとうございました」
女の子が愛らしく挨拶する。
「またね、たまき姉ちゃん」
「お世話になりました」
そのとき、メールの通知音が鳴った。直の退出を知らせるメールだった。
降りる階段が、なんとなく優しい階段に見えてくる。
下まで降りると、さっきまで空を覆っていた雲が、少し晴れてきた気がした。
ランドセルエピソードでした。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
次回、因縁の対決が幕を開ける予定です(笑)




