山背の結界、陰陽頭の影
大江山の尾根を駆け下りると、湿った杉木立の空気が途切れ、眼前に広大な山背の盆地がその全貌を現した。
遠く霞む平野の中央には、碁盤の目のように区画された都の街並みが広がり、朱塗りの大門や甍を連ねた貴族の邸宅が、西に傾き始めた陽光を浴びて鈍く照り返している。豊かな水脈を抱く川が銀色の筋となって平野を縫い、一見すれば長閑な都の情景を形作っていた。
しかし、アルスの瞳にはその風景の裏に張り巡らされた異様な歪みがありありと映し出されていた。
都を取り囲む四方の山々から、目に見えぬ細い呪力の糸が幾重にも伸び、盆地全体を巨大な蜘蛛の巣のように覆い尽くしている。その中心へ向けて、大地の自然な神気が強引に吸い上げられ、どす黒く澱んだ力となって渦を巻いていた。
『綺麗な街並みに見えるけれど、中身は腐りかけの果実と同じだね』
アルスの隣へ並んだ銀華が、白き衣の袖を風になびかせながら吐き捨てるように言った。
『大地の龍脈を無理やり捻じ曲げて、自分たちの宮居へ富と運気を集める結界です。父さんが昔話してくれた、西方の都を蝕んでいた悪しき術の匂いとそっくりだ』
アルスは大太刀の柄を確かめながら、街道の先へ視線を据えた。
胸の奥底で脈打つ熱い疼きは、大江山を抜けてなお収まるどころか、むしろ都に近づくほどに鋭さを増していた。かつてこの山背の地を拓き、川を治め、豊かな鉄と土をもたらした先住の豪族たちが、都の建設とともに土地を追われ、歴史の闇へと押し込められていった無念の記憶。それがアルスの中に眠る血と激しく共鳴していた。
二人が街道を南下し、都の西端を流れる桂川の渡し場へ差し掛かったときであった。
夕暮れの茜色に染まり始めた川面が、不意に鏡のようにピタリと波紋を止めた。
風が止み、渡し舟を待つ旅人や人足たちの姿が、まるで時を止められた木彫りの人形のように動きを止める。空を飛んでいた一羽の鷺すら、羽を広げた形のまま宙に静止していた。
『時間が止まったのか』
アルスが息を呑み、即座に大太刀の鯉口を切った。
『時間の流れを遮断したんじゃないよ。この渡し場一帯を、外界から切り離した閉鎖空間へ引きずり込んだのさ。ずいぶんと手の込んだお出迎えじゃないかい』
銀華が冷笑を浮かべ、九本の白い尾の幻影を背後に揺らめかせた。
川向こうの土手の上に、一人の男が音もなく姿を現した。
狩衣に身を包み、烏帽子を深く被ったその男は、手にした白木の扇で口元を隠している。年の頃は三十半ば。切れ長の双眸には感情の起伏が一切感じられず、まるで冷たい井戸の底を覗き込んでいるかのような底知れぬ静けさを湛えていた。
男の背後には、等身大の白紙で切り抜かれた十数体の式神が、風もないのに不気味に揺らめきながら浮かんでいる。
『大江の山結界を焼き払った不届き者がいると聞いて足を運んでみれば、随分と珍しい組み合わせだな。異国の血を引く大男と、野良の妖狐か』
男の声は抑揚がなく、直接頭蓋の骨を震わせるように冷たく響いた。
『都の陰陽寮の長といったところかい。名くらい名乗りなさいな、藤原の飼い犬さん』
銀華がからかうように小首を傾げると、男は眉一つ動かさずに扇を静かに下ろした。
『阿倍の氏族が長、阿倍宿禰広高。陰陽頭の職を預かる者だ。大和の安寧を乱す異形の輩を、これ以上南へ通すわけにはいかん』
『安寧だと』
アルスの口から、自然と低い声が漏れ出た。
『山を奪い、鉄を奪い、誇りある民を鬼と呼んで縛り上げるのが、お前たちの言う安寧なのか。大江山に張り巡らされた呪符を見たぞ。死者の魂まで利用して結界の糧にする外道が、どの口で安寧を語るんだ』
広高の冷徹な瞳が、初めてわずかに細められた。
『言葉を慎め、東夷の雑種が。大業を成すためには、土着のまつろわぬ者どもを礎とせねばならぬのは理の当然。彼らの怨嗟など、この国の正しき秩序を築くための薪に過ぎん。葛城に眠る神剣の封印に近づこうとする者は、誰であろうとここで魂魄を砕く』
広高が白木の扇を翻した瞬間、背後に浮かんでいた十数体の紙式神が一斉に青黒い炎を吹き上げた。
紙の面が瞬時に異形の武者へと姿を変え、手にした長槍や鋭利な刀身をギラつかせながら、川面を滑るような異常な速度でアルスと銀華へ襲いかかってきた。
『理屈を並べるだけの小役人に、大地の重みは背負えないよ。アルス、前のはあんたが片付けな。後ろの術者は私が引き裂いてやる』
『了解です、銀華姉ちゃん』
アルスは大太刀を一気に抜き放った。
白刃が夕暮れの残光を切り裂き、黄金の闘気が全身から噴き上がる。
突進してくる先頭の式神武者が振り下ろした長槍を、アルスは大太刀の峰で軽々と跳ね上げた。硬質な衝撃音が響き、体勢を崩した式神の胸元へ、踏み込んだ右足の全体重を乗せた鋭い突きを繰り出す。
黄金の気が刀身を通じて炸裂し、式神武者の身体は一瞬で無数の紙屑となって四散した。
しかし、砕け散った紙片はすぐさま青黒い煙となって宙を舞い、再び新たな形を結ぼうと蠢き始める。
『ただの紙人形じゃないな。倒しても都の結界から無尽蔵に力を吸い上げて再生してくるのか』
アルスは素早く横へ飛び退き、左右から挟み撃ちにしてきた二体の式神の斬撃を刀身で受け止めた。重い金属音が響き、腕に確かな手応えが伝わる。
『ふん、浅知恵の五行結界が。根元の縛りを焼き切れば一塊の灰だよ』
銀華が地を蹴り、純白の閃光となって広高の眼前へ肉薄した。研ぎ澄まされた爪が空を裂き、冷たい神火が広高の喉元へと迫る。
だが、広高は微動だにせず、懐から取り出した黒塗りの呪符を川面へ投げ落とした。
ジュッと水が沸騰する音が響き、桂川の水が巨大な龍の形を取って跳ね上がり、銀華の神火を真っ向から迎え撃った。
山背の渡し場で繰り広げられる、古代陰陽道の秘術と、神代の力を宿す二人との激突。大和の入り口を巡る戦いは、一瞬の油断も許されぬ死闘の幕を開けていた。




