水龍破砕、葛城への道
桂川の水面を突き破って現れた巨龍は、飛沫を散らしながら夜の帳を切り裂くように咆哮した。
水流で編まれた巨躯は黒く澱み、都の暗渠から吸い上げた無数の怨嗟を孕んで不気味にうねっている。広高が掲げた白木の扇から放たれる青黒い光の糸が、龍の脳天へと何重にも絡みつき、狂暴な水塊を意のままに操っていた。
『喰らい尽くせ、相生の黒水』
広高の冷え切った唇から紡がれた言霊とともに、巨龍が大きく顎門を開き、銀華の頭上から一気に落達した。激流の風圧だけで川岸の柳が根元からへし折れ、閉鎖空間の境界に亀裂が走る。
銀華は逃げる素振り配すら見せず、ふわりと宙へ身を浮かべた。
『相生だか何だか知らないけれど、澱んだ川水で私の毛並みを濡らそうなんて、百年早いんだよ』
銀華の白い袖口から放たれたのは、熱を持つ火炎ではなかった。
絶対零度の静寂を纏った、白銀の神火。
それは水面に触れた瞬間、爆発的な冷気を撒き散らしながら奔流そのものを逆流していった。凄まじい勢いで落ちてきた水龍が、頭部から胴、尾に至るまで、瞬き一つの間に透き通った蒼氷の彫像へと変貌する。
川風が止まり、カチカチと氷結の軋む音だけが静まり返った渡し場に響いた。
『凍りついた置物は、粉々にするに限るね』
銀華が空中で小さく身を翻し、研ぎ澄まされた純白の尾で氷の龍の額を払った。
甲高い破砕音が鳴り響き、数百斤の氷塊が一瞬で無数の氷粉となって四散した。美しく舞い散る銀の粉の向こうで、広高の冷徹な仮面のような顔が、初めて驚愕に歪んだ。
『陰陽の理を無視して水を凍結させただと。あり得ん、神代の狐風情がこれほどの霊力を』
一方、川岸に足を踏ん張るアルスの周囲では、十数体の紙式神が不気味な円陣を組んで包囲を狭めていた。
一度は胸を突き抜いて紙屑にしたはずの武者たちが、千切れた紙片を寄せ集め、より奇怪な多腕の異形へと形を変えて槍の穂先を突き出してくる。都の地下を巡る龍脈から、黒い呪力の糸が絶え間なく彼らの背中へと注ぎ込まれていた。
いくら斬っても無駄だ。
アルスは大太刀を八相に構え、息を整えながら敵の動きを凝視した。
刃で紙を切り裂くだけでは、都の結界が続く限り何度でも蘇る。父アルダシールがかつて語った言葉が、鮮烈に蘇る。形あるものに惑わされるな、その形を成さしめている根元の息吹を断て。
アルスは目を閉じ、視界を遮断した。
五感を研ぎ澄ますと、川のせせらぎも、式神が足元を踏みしめる泥の音も消え失せた。見えてきたのは、夜空を横切って式神たちの首根っこへと繋がる、何十本もの細い紫黒の糸。そしてその糸の束が、土手の上に立つ広高の指先へと収束している光景だった。
『見えた』
目を見開いたアルスの瞳に、黄金の炎が宿った。
大太刀の刀身へ、丹田から湧き上がる剛毅な生命気を惜しみなく注ぎ込む。青白く澄んだ刃が黄金の閃光を放ち、周囲の闇を昼間のように照らし出した。
『無駄足だと言ったはずだ、野蛮な異国の力など』
広高が扇を振り下ろすと同時に、四方の式神が一斉に跳躍し、鋭利な刃の雨を降らせてきた。
アルスは退かなかった。
右足を力強く踏み込み、大地の反発力をそのまま腰の捻りへと伝達させる。大太刀が描く弧は、式神の肉体ではなく、頭上の空間を薙ぎ払うように真横へと奔った。
黄金の斬閃が宙を切り裂いた瞬間、空間に張り巡らされていた無数の呪力の糸が一斉に焼き切れた。
プツン、プツンと何かが弾け飛ぶ音が連続して響く。
力を供給されていた管を断たれた式神たちは、アルスの身体に刃が届く直前でピタリと動きを止めた。彼らの身体を巡っていた青黒い瘴気は黄金の気に呑み込まれ、紙の武者たちは一粒の灰も残さず、さらさらとした白い塵となって夜風の中へ消え去った。
『なっ、私の式神の縛りを根こそぎ焼き払ったというのか』
広高が後ずさりし、手にした白木の扇を取り落としそうになった。
アルスは大太刀を正眼に構えたまま、泥を踏みしめて一歩前へ進み出た。ただの一歩であったが、その歩みから放たれる圧倒的な気迫に、広高の喉がヒュッと鳴った。
『お前たちの術は、奪った命を縛り付けて動かしているだけの死んだ力だ。そんな薄っぺらなもので、この大地に生きた者たちの誇りを永遠に封じ込められると思うな』
アルスの声は低く、しかし川向こうの土手を揺るがすほどの重みを持って響いた。
『小賢しいわ。だが、葛城の封印に触れることは誰にも許されぬ』
広高は忌々しそうに懐から黒い呪符を何枚も取り出し、自らの足元へ叩きつけた。黒煙がもうもうと立ち上り、広高の身体を呑み込んでいく。
『追うかい、アルス』
銀華が軽やかにアルスの隣へ舞い降りた。
『いいえ。逃げる術者を追うより、先を急ぎましょう。都詰めの陰陽頭自らが迎撃に出てきたということは、それだけ葛城の神剣が揺らいでいる証拠です』
アルスが大太刀を鞘へ納めると、カチリと澄んだ金属音が鳴り響いた。
その音を合図にするかのように、周囲を覆っていた閉鎖空間の結界がガラスのように砕け散った。止まっていた川の流れが一気に戻り、夜空には本来の星々が煌めき始めた。
二人は足を止めることなく、夜の山背平野を南へ向けて駆け出した。
街道を疾走するアルスの視線の先、南の地平線にそびえる葛城山が、紫黒の雲を突き破って巨大な威容を現していた。山頂から立ち上る神代の波動が、アルスの中に流れるペルシャの血脈を激しく揺さぶり始めている。
第一の神剣が待つ霊峰の懐へ、二人は一気に踏み込んでいった。




