鬼棲む嶺、丹波路の霧
丹後の由良湊に船を着けると、甚作は手慣れた手つきで太い麻縄を頑丈な係留杭へと巻きつけた。
『ここから先は山道だ。丹波の山を二つ越えれば山背の盆地に出る。だが若旦那、大江の山越えは昼間でも陽が差さねえ深い森だ。足元にはくれぐれも気ィつけな』
甚作が腰の竹筒から強めの濁酒を一口煽り、アルスへ差し出してきた。
『ありがとうございます、甚作さん。船の守り、頼みます』
アルスが笑って受け取ろうと手を伸ばすと、横から白く細い手が音もなく割り込み、竹筒を器用に奪い去った。
『ちょいと景気づけに私がもらうよ。若い子に強い酒はまだ早いからねえ』
銀華は滑らかに喉を鳴らして酒を飲み干すと、ふうと甘い息を吐き、老船頭に悪戯っぽく微笑んでみせた。
『爺さん、船を磨いて待っておいで。大和の都でひと暴れして、すぐに戻ってくるからさ』
『へっ、頼もしいこって。化かされねえように気を引き締めて待ってるぜ』
老船頭に見送られ、二人は由良の湊を背にして南へ伸びる山道へと足を踏み入れた。
海風が遮られ、深い杉木立に囲まれた途端、周囲の空気が急速に湿り気を帯びてくる。踏みしめる腐葉土の感触は柔らかく、湿った黒土と苔の匂いが鼻腔を突いた。
『ねえアルス。さっきから無駄に肩へ力が入っているよ。大和に入る前からそんなに強張っていて、いざというときに太刀が振れるのかい』
前を歩く銀華が、白き衣の裾を軽やかに翻しながら振り返った。険しい山道だというのに、彼女の足元は泥一つ跳ね上げていない。
『力なんて入っていませんよ。ただ、空気が変わった気がして』
アルスは大太刀の背負い紐を締め直しながら、両側に迫る深い森を見渡した。
強がりではなかった。丹波の山道へ足を踏み入れた瞬間から、胸の奥底がドクン、ドクンと重く脈打っていた。恐怖ではない。まるで、遠い昔に生き別れた肉親の気配を遠くから嗅ぎ取ったかのような、切なくも熱い疼きが全身の血を駆け巡っている。
この感覚は何なのだろう。
アルスは心の中で静かに自問した。
父アルダシールと共に西の果てから流れてきた自分が、なぜ一度も訪れたことのない日ノ本の山林でこれほど胸を締め付けられるのか。
出雲の玄室で目にした神代文字の光景が脳裏をよぎる。
東の果てで鉄を打ち、山を拓き、やがて大和の勢力によって鬼と蔑まれて山奥へ追いやられた古代の民。彼らが流した血の記憶が、アルスの中に眠る異国の剛毅な命脈と、見えない糸で呼び合っているかのようだった。
標高が上がるにつれ、周囲を包む山霧が急速に濃さを増していった。
ただの白い霧ではない。光を吸い込むような薄紫色の靄が、木々の隙間から煙のように湧き出し、足元から膝、そして胸の高さへと這い上がってくる。
風が止まり、鳥の鳴き声すら完全に途絶えた。
ざわざわと擦れ合う葉の音の合間に、何重にも重なる低い呟きのような音が混ざり始める。
恨めしい。悔しい。鉄を返せ。山を返せ。
『聞こえるかい、アルス』
銀華の足が止まった。
その声音からは先ほどまでの軽口が完全に消え、氷のような鋭利さが宿っていた。
『ええ。誰かの声が、風に乗って耳の奥へ直接へばりついてきます』
『大江の山に沈められた、古の鬼たちの嘆きさ。だがね、この霧を操っているのは死者たち自身じゃない。この気配、陰湿で鼻持ちならない術の匂いがプンプンするよ』
銀華が指先を宙にかざすと、紫の霧の奥から、木々の幹にびっしりと貼り付けられた黄色い呪符の群れが浮かび上がった。
朱砂で描かれた複雑な八卦の図形と、縛の文字。
木肌に深く食い込んだ紙片から、黒い煙のような瘴気が糸を引いて霧へと溶け込んでいる。
『都の陰陽寮の仕業だね。藤原の息がかかった阿倍の一族が、この山に眠る鬼どもの怨念を呪符で縛り上げ、外へ漏れぬように、そして近づく者を狂わせる毒霧として利用しているのさ』
『死してなお、その魂を利用して閉じ込めているというのですか』
アルスの奥歯がギリと音を立てた。
父の故郷を蹂躙した西方の影喰のやり口と、何一つ変わりがない。弱者の尊厳を踏みにじり、都合の良い道具として縛り付ける者たちの傲慢。
胸の奥の疼きが、純粋な怒りの炎となって燃え上がった。
『絶対に許せないな』
アルスは大太刀の柄へ右手を掛け、親指で鯉口を静かに切った。
カチリと澄んだ金属音が山林に響き渡った瞬間、アルスの全身から黄金の気が陽炎のように立ち上り、足元の紫霧を一気に吹き飛ばした。
『いい気合いだね、アルス。その怒り、忘れちゃいけないよ』
銀華が両手を広げると、背後から九筋の白い霊光が扇状に立ち昇った。
『道をあけなさい、都の小役人どもの呪い人形め。千年の神気を前に、その程度の紙切れが通用すると思うんじゃないよ』
銀華の放った白銀の神火が、街道沿いの木々に張り巡らされていた無数の呪符を瞬時に包み込んだ。
ジュウと肉を焼くような異音が響き、呪符が灰となって霧散していく。同時に、大江山を覆っていた紫の毒霧が真っ二つに切り裂かれ、前方の視界が一気に開けた。
霧の向こう側、眼下に広大な盆地が広がっていた。
幾筋もの川が銀色に光りながら平野を潤し、その中央には整然と区画された都の街並みが、小さく霞んで見えている。山背の国であった。
そして、その盆地の遥か南端。
青黒く雄大な稜線を天へ突き上げる巨大な巨峰が、異様な重圧を放ちながら聳え立っていた。
第一の神剣が封じられた地、大和の葛城山。
『見えたね、アルス。あの都を抜け、葛城の嶺へ向かうよ』
『はい。俺たちの手で、あの山にかけられたすべての鎖を断ち切りましょう』
アルスは大太刀を背負い直し、広大な山背の地を見据えて駆け出した。古き鬼たちの魂を解放し、偽りの正史を打ち砕くための戦いが、いよいよ都の懐深くで始まろうとしていた。




