稲佐の船出、丹後への海路
白砂が広がる稲佐の浜に、早朝の澄んだ日差しが斜めに差し込んでいた。
打ち寄せる波が穏やかな音を立て、地底の暗闘がまるで幻であったかのように、大社の海は青く澄み渡っている。砂浜の波打ち際では、甚作が太い麻縄を巻き取りながら、修繕を終えた小船の周囲を入念に見回っていた。
洞窟の岩肌を抜け出してきたアルスと銀華の足音に気づくと、老人は顔を上げ、手にした道具を置いて二人の姿をじっと見つめた。
『戻ったか、若旦那。無傷とはいかねえまでも、その眼つきを見りゃあ、地底の化け物に一本取ってきたってツラだな』
甚作の顔に刻まれた深い皺が、安堵の色とともに緩んだ。
『甚作さん、待たせてすみませんでした。おかげさまで、出雲の奥底に眠っていた真実を確かめることができました』
アルスが深く一礼すると、甚作は照れくさそうに頭を掻き、白髪交じりのあご髭を撫でた。
『礼なんざいい。それより、これからどこへ船を向ける。西へ戻るのか、それとも別の当てがあるのかい』
『東へ向かいます。目指すは大和の国、葛城山です』
アルスの迷いのない返答を聞いた瞬間、甚作の表情がわずかに引き締まった。
『大和か。ならばわざわざ遠回りの関門を抜けて瀬戸内へ回る必要はねえな。このまま日本海を東へ船を走らせて、丹後の港へ着けるのが筋だ。あそこから陸へ上がって山陰街道を南下し、丹波と山背を抜ければ大和へ入れる。日本海の荒波なら、この爺さんの腕と、このお嬢さんの力があれば何てこたあねえ』
銀華がふふと喉を鳴らし、白き衣の裾を揺らして船縁に足をかけた。
『頼もしい船頭だね。潮と風の機嫌なら、私がいくらでも取ってあげるよ。さあアルス、荷を積んで船を出しなさい。大和の連中が築いた虚飾の宮居へ、本当の歴史を教えに行ってやろうじゃないか』
三人を乗せた船は、朝風をいっぱいに孕んだ帆を広げ、稲佐の浜を静かに離れた。
船首が白波を切り裂き、日御碕の切り立った岩壁が次第に遠ざかっていく。船が日本海のうねりに乗って東へと舳先を向けると、右手の視界には広大な砂の丘が果てしなく広がり始めた。
アルスは船首に立ち、大太刀の柄に手を添えながら、黄金色に輝く砂丘を眺めていた。
その隣へ、銀華が音もなく歩み寄る。
『アルス、あの広大な砂浜が見えるかい。因幡の砂丘さ。世の人間どもは風が運んだ砂粒の山だと呑気に眺めているが、あれこそが古代出雲の産鉄の民が残した巨大な痕跡なんだよ』
『あれが、製鉄の跡なのですか』
『そうさ。神代の昔、この一帯の山々から大量の土砂を削り取り、水路に流して比重の重い砂金や砂鉄だけを徹底的に浚い取った。鉄と金を抜かれ、残された無数の土砂が海へと流れ込み、潮風に吹き寄せられて積み上がったのがあの砂丘さ。因幡から吉備の山越えへ続く道が、今も蹈鞴街道と呼ばれる所以だよ』
銀華の言葉は、海風を切り裂くように鋭く響いた。
『山を崩して鉄を産み、強靭な刃と豊かな富を築いた吉備の国も、かつては大和に比肩する強大な勢力だった。だが、大和の中枢に陣取った藤原の連中は、自らの権力を絶対のものとするために、吉備の製鉄集団を温羅という悪鬼に仕立て上げ、武力で討ち滅ぼして鉄の利権を奪い去ったのさ。国譲りの神話も同じだよ。平和裏に国を譲り渡したなどという美談の裏には、山野で鉄を守り続けた誇り高き民を鬼や土蜘蛛と蔑み、歴史から抹殺した血塗られた略奪がある』
アルスは拳を固く握りしめた。
故郷を追われ、海を渡ってこの列島へ辿り着いた父アルダシールの背中が思い出された。力を持つ者が持たざる者を騙し、歴史を自らに都合よく書き換えて支配する構造は、遠い西方の大陸でも、この日ノ本の島々でも何一つ変わっていなかった。
『俺の内に眠るササン朝の血も、出雲から西へ渡った鉄の民の記憶も、同じ痛みを共有しているのかもしれません』
『だからこそ、あんたが大和へ行く意味があるのさ。葛城山に封じられた第一の神剣は、奪われた土着の民の魂そのものだ。藤原の呪術師どもが張り巡らせた結界を破り、あの剣を解き放つことが、真の調和への第一歩になる』
船は若狭湾を臨む丹後の海へと差し掛かっていた。
日本海の荒波が牙を剥くが、甚作の巧みな舵捌きと、銀華が指先から放つ微かな霊風が海面を撫でると、激しい潮流がまるで道を譲るように穏やかな一本の筋を描いた。船は何の動揺もなく波間を滑り抜け、丹後の由良湊へと滑り込んだ。
港の背後には、青黒い威容を誇る大江山の連峰がそびえ立っている。かつて朝廷に抗い、鬼と呼ばれた同胞たちの無念が今なお漂う霊峰であった。
アルスは船を降り、南の空を見据えた。
大江山の先、丹波を越えて広がる大和の空には、常人には見えぬ異様な紫黒の結界が渦を巻いていた。
『見え見えの結界を張っているね。よほど葛城の力を恐れていると見える』
銀華が鼻を鳴らし、白き衣の襟を正した。
『行きましょう。まずは大江山を抜け、大和の葛城へ』
アルスは大太刀を背負い直し、力強い足取りで丹後の大地を踏みしめた。大和の深奥に眠る第一の神剣を巡る、新たな戦いの幕が上がろうとしていた。




