玄室の神代文字、西へ渡りし鉄の民
耳をつんざくような激震が収まり、崩れ落ちた怪物の残骸が黒い砂となって水底へ沈んでいくと、地下空洞には再び張り詰めた静寂が戻った。
吹き飛ばされた巨大な石扉の向こう側、玄室の最奥に鎮座する黒曜石の板は、地底のわずかな燐光を吸い込んで鈍く光を放っている。四方を囲む黒漆の火床からは、数千年前に神の鉄を鍛え上げた残り香のように、微かな鉱石の熱気が漂っていた。
アルスは濡れた足場を一歩ずつ踏みしめ、黒曜石の板の前へと進み出た。
板の表面には、人間の爪の先ほどもある無数の神代文字が、狂いなく刻み込まれている。文字の彫りは深く、まるで昨日刻まれたかのように鋭利な輪郭を保っていた。
『銀華姉ちゃん、この文字は触れずとも読めます。頭の奥に、言葉ではない情景が直接流れ込んでくるようだ』
『あんたの血脈が、この石に宿る古代の意志と完全に響き合っている証拠さ。恐れずに手をかざしておやり』
アルスが右の掌を黒曜石の表面へゆっくりとかざした。
肌が触れる直前、若者の掌から黄金の微光が立ち上り、石板に刻まれた溝へと一気に染み渡っていった。文字の線が金色に発光し、やがて石板の表面全体に、光の線で描かれた巨大な地図が浮かび上がった。
それは、日ノ本の島々だけを描いたものではなかった。
日御碕の沖から北の海を越え、広大な大陸の北方を貫いて、遥か西の果て、青く広がる別の内海へと一本の光の道が伸びていた。
『これは、ユーラシア大陸の全図だね』
銀華が白き衣の袖を払い、黄金の双眸を細めて光の線を見つめた。
『出雲の昔話では、国譲りの神話ばかりが語り継がれているけれど、現実はもっと泥臭く、壮大なものだったのさ。神代の昔、この出雲で神の鉄と呼ばれる極めて硬度の高い製鉄技術を完成させた一族がいた。彼らは並外れた体躯と剛力を誇り、大地の鉱脈を読み解く術に長けていた。だが、その強大すぎる力を恐れた他の勢力との争いを避けるため、一族の主力は船を連ねて日本海を北上したんだよ』
『北の海を渡って、大陸へ行ったのですか』
『そうさ。シベリアの荒野を抜け、馬を駆る遊牧の民と交わり、やがて西の果てまで疾風のように駆け抜けて世界を震撼させた。西方の歴史では、彼らをフンと呼んだ。分厚い鉄の鎧を貫く複合弓と、神代の鍛冶技術で打たれた強靭な鉄剣。その技術の原初の火は、他でもない、この出雲の地底で熾されたものだったのさ』
アルスは息を呑み、自らの両の手のひらを見つめた。
父アルダシールから受け継いだ西アジアの記憶、ササン朝ペルシャの命脈、そしてこの出雲の大地に刻まれた古代の足跡。遠く離れた東西の歴史が、見えない一本の鎖となって自らの身体の中で繋がっていく感覚があった。
『俺の内に流れる血と、この出雲の鉄は、最初から同じ源流を持っていたということですか』
『円環を描いているのさ、アルス。東の果てから西へ渡った鉄の民と、西の果てから東へ逃れてきたあんたの祖先。世界は最初から一つの巨大な流れの中にあり、それを人間たちが都合よく切り刻んで、己の領土だの正史だのと騒ぎ立てているに過ぎないのさ』
銀華の言葉は冷徹でありながら、世界の真実を射抜く重みを持っていた。
アルスがさらに視線を下へ移すと、石板の下部に別の神代文字の配列が浮かび上がった。それは、出雲の地に残された三振りの神剣に関する記録であった。
『神剣の行方が記されています。出雲を出立する際、大陸へ渡らず列島に残った一族の長たちが、大地の結界を護るために三振りの神剣を各地へ運んだとあります。一つは大和の葛城山、一つは東海の霊峰富士の裾野、そして最後の一つは、北の果て、津軽の津軽海峡を臨む山中へ』
『大和、富士、そして北の大地かい。どれも大地の龍脈が噴き出す要所ばかりだね』
銀華が頷き、表情を引き締めた。
『だがね、アルス。大和へ向かうなら、覚悟を決めなければならないよ。あそこは今、中央集権の美名の下に、古代の神々や土着の民をことごとく悪鬼として塗り潰した連中が牛耳っている場所だ』
『大和を支配する者たちですか』
『そうさ。自らを神の末裔と称するヤマトの王権だが、その根源を辿れば、天山山脈の麓、キルギスの地に栄えた古の都市国家ヤウマトの民が東へ移動してきた名残に過ぎない。さらに厄介なのは、その王権の中枢に寄生し、すべての歴史を己の都合の良い神話に書き換えた藤原の氏族だよ。奴らは大陸の政争に敗れ、海を渡って日本人の顔をして入り込んだ謀略の徒さ。出雲や葛城で自然と共に生きてきた誇り高き民を鬼や土蜘蛛と蔑み、鉄と土地を奪い尽くした張本人たちだ』
銀華の言葉に、アルスの胸の奥で熱い炎が静かに灯った。
悪政に苦しむ火の国や日向の民の姿が脳裏をよぎる。力なき者を欺き、己の私腹を肥やすために言葉と歴史を歪める者たち。それは、故郷の西の果てで安禄山を操り、父の国を滅ぼした影喰のやり口と寸分違わぬものであった。
『俺が探すべきものは、単なる神剣の力だけではないのですね』
『その通りだよ。朝廷の正史から消し去られた、誇り高き同胞たちの真実を取り戻すこと。そして、この列島を護る結界を正しく結び直すことさ。それが出来て初めて、あんたはユーラシア全土を覆う影喰の本体と対峙する資格を得る』
黒曜石の板から放たれていた金色の光が静かに収まり、文字は再び冷たい岩肌の奥へと沈んでいった。
すべての神代の記憶を胸に刻み込んだアルスは、大太刀の柄を固く握り直し、玄室の天井を見上げた。
『行きましょう、銀華姉ちゃん。まずは大和の国、葛城山へ』
『ああ、行こうかい。古き神々と、鬼と呼ばれた者たちの待つ場所へね』
二人は地下水脈を飛び越え、崩れた竪穴を駆け上がって、神話の記憶が眠る地底の禁域を後にした。
地上へ戻ると、稲佐の浜には清冽な朝の光が降り注いでいた。白砂の浜辺で待つ甚作の船が、次なる海路へ向けて朝風に帆をはためかせていた。




