神代の砂鉄、黄泉路の禁域
夕闇が稲佐の浜を茜色から濃い藍色へと塗り替えていく中、寄せては返す波の音だけが砂浜に響いていた。
波打ち際にしっかりと繋ぎ止められた船の甲板で、甚作は太い麻縄を巻き取りながら、険しい山並みを指差した。その皺深い顔には、日向の海を渡り切った安堵ではなく、この土地特有の重圧に対する深い警戒が刻まれていた。
『若いの、出雲の山へ入るなら一つだけ肝に銘じておいてくれ。儂が昔、宮大工の棟梁から聞いた話だがね。大社のさらに奥、斐伊川を遡った山深い谷間には、古代の民が神代の砂鉄を掘り尽くしたという巨大な地下坑道が眠っているそうだ。土地の者はそこを鉄の穴と呼んで決して近づかん。掘り進めすぎた穴の最奥が、生者と死者の境目、黄泉比良坂の暗がりと繋がっちまったからだとさ』
甚作は腰の手斧を軽く叩き、低く続けた。
『そこへ足を踏み入れて戻ってきた者は一人もおらん。神の鉄を求め、欲に狂った鉱夫たちが、いまも暗闇の中で鉄を打ち続けているという噂だ。行くなら気をつけろよ』
『甚作さん、貴重な教えをありがとうございます。必ず無事に戻ります』
アルスが深々と礼を述べると、甚作は力強く頷き、船倉の見回りへと戻っていった。
アルスと銀華は砂浜を離れ、月光に照らし出された斐伊川の河原へと足を踏み入れた。
川辺の砂利は白くなく、月明かりを浴びて黒光りしていた。足裏に伝わる砂の粒は細かく、ずっしりとした重みを持っている。アルスが屈み込んで砂を一握りすくい上げると、指の間からこぼれ落ちる砂粒の中に、無数の黒鉄の輝きが混ざり合っていた。
『これが、出雲の砂鉄か』
『そうだよ。この川が山から運んでくる砂鉄こそが、神話の昔からこの国を支え、同時に数多の争いを生んできた根源さ』
銀華が白き衣の裾を夜露で濡らしながら、川上を見つめて言った。
川を遡るにつれ、湿った夜風に混ざる匂いが変化していった。冷たい川水の匂いの中に、かすかな硫黄の刺激臭と、幾重にも重なり合った古い鉄錆の臭気が濃くなっていく。
アルスは歩みを止めず、己の胸元に手を当てた。
大地の底から、皮膚を震わせるような微細な振動が伝わってきていた。それは川の流れの響きでも、風のざわめきでもない。まるで巨大な心臓が地底深くで脈打っているかのような、重く鈍い地鳴りであった。その鼓動に呼応するように、アルスの全身を巡る血が静かに熱を帯び始めていた。
『銀華姉ちゃん、何か聞こえます。足の裏から、胸の奥へ響いてくる』
『大地の底に眠る神代の鉱脈と、黄泉の門が放つ波動だよ。あんたの身体に流れる古代の血が、この地の底知れぬ霊気と共鳴しているのさ』
二人はやがて川原を離れ、鬱蒼と生い茂る原生林の尾根へと分け入っていった。
杉や檜の巨木が頭上を覆い尽くし、月光すら届かぬ暗黒の森。獣道すら途絶えた険しい岩肌を登り切った先、突然、木々が円形に切り払われた開けた空間が現れた。
その中央に、苔むした巨大な磐座が三つ、互いを支え合うようにそびえ立っていた。
磐座の胴回りには、幾重にも太い注連縄が巻きつけられ、風化した岩肌には複雑な神代文字が深く刻まれている。岩の周囲の草木はことごとく枯れ果てており、土は黒く変色していた。
アルスが目を凝らして岩肌の文字を見つめた。
『人を寄せ付けないための結界のようですが、文字の並びがどこか奇妙です。外からの魔を払うというより』
『内側の怪異を、外へ逃がさないための檻だね』
銀華が冷ややかに言い添えた。
銀華は静かに歩み寄り、磐座の中央に刻まれた文字へ白皙の指先を触れさせた。
その瞬間、指先から淡い青白い霊光が走り、磐座全体を包み込んだ。注連縄が微かに震え、岩肌の文字が光を帯びて浮かび上がる。数千年の年月をかけて編まれた神聖な結界の構造を、銀華は瞬時に読み解いていった。
『古代の巫女たちが命を賭して張った強固な封印だよ。だが、長い年月で岩の継ぎ目が緩み、地下の穢れがわずかに漏れ出している。アルス、退いていなさい』
銀華が印を結び、息を吹きかけると、三つの磐座が地響きを立てて左右へとわずかにずれた。
巨石の背後から、ぽっかりと口を開けた巨大な漆黒の洞窟が現れた。
人が十人並んで歩けるほどの巨大な穴の奥から、肌を刺すような冷気と、耐え難い鉄の錆びた匂いが吹き上がってきた。
その暗闇の深奥から、かすかな音が風に乗って届いた。
かん、かん、かん。
規則正しく、重く響く金属を打つ音。
そして、その音の合間に混ざる、人ならざる巨大な何者かの、低く湿った呼吸の気配であった。
アルスは背中の大太刀の柄を固く握りしめ、漆黒の洞窟の奥を見据えた。
『行こう、アルス。神の鉄と死者の闇が交わる場所へ』
銀華の言葉とともに、二人は足元を照らす狐火の灯りを頼りに、地底へと続く暗黒の穴の中へ歩みを進めていった。




