潮路の果て、黄泉路の影
日向の湊を離れた船は、紺碧の海原を滑るように北上し、無数の緑の島々が波間に浮かぶ穏やかな内海へと分け入っていった。
鏡のように凪いだ瀬戸内の水面を、朝夕の清冽な風が渡っていく。甚作の熟練の操舵は実に見事なものであった。複雑に入り組んだ潮流の変わり目や、隠れ岩が潜む狭い瀬戸を巧みに見極め、船は一度も座礁することなく西の狭門をすり抜けた。
だが、長門の沖を回り込み、船首を日本海側へと向けた瞬間、海の色は一変した。
穏やかな群青の水面は姿を消し、底知れぬ深淵を思わせる重苦しい鉛色の怒濤が、荒々しく船腹を叩き始めた。見渡す限りの灰色の空と、激しく泡立つ白波。日向のぬるい潮風とは異なる、肌を刺すような冷たい北風が甲板を吹き抜けていく。
舳先に立つアルスは、冷気を深く吸い込み、細めた目で北東の水平線を見つめた。
『塩の匂いの中に、別のものが混ざっています。冷たい土と、焼けた鉱石のような匂いだ』
アルスが呟くと、隣に寄り添う銀華が白き衣の襟元を合わせながら頷いた。
『鼻が利くね、アルス。あの風の向こうにあるのが、神々の集う出雲の国だよ。あの大地は古来より、山を削り、砂鉄を集め、火を焚いて鉄を打つ蹈鞴製鉄の聖地さ。草木を焼き、大地の腸を抉り出して鉄を生み出す営みが、何百年も繰り返されてきた場所だよ』
『大地の腸を抉る』
アルスは大太刀の柄に触れながら、言葉を反芻した。
『そうさ。人は鉄を手に入れて豊かになったが、同時に山を殺し、川を汚し、多くの血を流した。何より出雲は、天つ神と国つ神が国を巡って争った神話の舞台であり、現世と死者の国が重なり合う黄泉比良坂を抱える特異な境界の地でもある。生と死、神と人、光と闇の境目が、日ノ本で最も曖昧な場所なのさ』
銀華の言葉通り、船が進むにつれて海上の空気は異様な重さを帯びていった。
日御碕の切り立った断崖が遠くに見え始めた刻限、突如として海面から乳白色の濃い霧が立ち昇り始めた。真夏とは思えぬ凍えるような冷気が甲板を這い回り、瞬く間に四方の視界を白一色に塗り潰していく。
『おい、若いの。潮の様子がおかしいぞ』
舵を握る甚作が、苦渋に満ちた声を張り上げた。
『風は北から吹いているはずなのに、船が勝手に引き潮に引っ張られとる。波の下に何か別の巨大な渦があるようだ。これ以上進むと、暗礁に叩きつけられるぞ』
船体がきしむような鈍い音を立てて激しく揺れ、舵が言うことを聞かなくなっていた。
霧の奥から、風の音に混ざって無数の呻き声が響いてきた。
それは太古の昔より、製鉄の過酷な労働に倒れた者たちや、国譲りの戦火に散った古の兵たちの怨嗟が、冷たい海霧と同化して渦巻いている気配であった。濃霧の中から伸びてくる無数の黒い影が、船体を海中へと引きずり込もうと水面下で蠢いている。
『迷い人を黄泉の底へ引きずり込もうとする、古き亡者どもの仕業かい』
銀華が袖を掲げて狐火を灯そうとしたが、アルスが一歩前に出た。
『銀華姉ちゃん、ここは俺に任せてください』
アルスは腰を深く落とし、大地を踏みしめるように甲板の板敷きへ重心を沈めた。
大太刀は抜かない。ただ、胸の奥深くに眠る西の果ての血脈、万物を統べる古代巨人族の気迫を一気に練り上げ、全身の毛穴から解き放った。
『我が道を通せ』
アルスが短く一喝した瞬間、目に見えぬ強大な覇気が同心円状に爆発した。
轟音とともに甲板を覆っていた氷の冷気が吹き飛ばされ、船を捉えていた海中の黒い影が悲鳴を上げて四散する。アルスの放った純粋な生命の圧力が、船の周囲を取り囲んでいた濃霧を真っ二つに押し広げ、前方の海上に一筋の光の道を作り出した。
『今だ、甚作さん。舵を真っ直ぐに』
『おうよ』
甚作が渾身の力で舵を切り、巨船は割れた霧の間を矢のように駆け抜けた。
濃霧を抜けた先には、夕暮れの茜色に染まる壮大な海岸線が広がっていた。
白砂がどこまでも続く美しい浜辺の奥に、太古の神威を湛えた巨大な岩がそびえ立っている。神話の時代に神々が降り立ち、国の行く末を談判した聖地、稲佐の浜であった。
ざざんと穏やかな波が打ち寄せる浅瀬に船が乗り上げ、錨が下ろされた。
『辿り着いたぞ。ここが出雲の国の玄関口、稲佐の浜だ』
甚作が汗を拭いながら安堵の息を漏らした。
アルスと銀華は砂浜へと降り立った。足元から伝わる砂の感触は、火の国や日向の土とも異なる、どこか底知れぬ霊気と、大地深くに眠る鉄の重みを含んでいた。
浜辺の向こうには、鬱蒼とした原生林に覆われた山並みが連なり、その奥深くには出雲の大社と、死者の国へと通じる暗い黄泉の気配が静かに横たわっている。
『いよいよ足を踏み入れたね、アルス。この出雲の地で、あんたの運命を左右する本当の試練が始まるよ』
銀華が夕闇迫る山並みを見据えながら言った。
アルスは大太刀を背負い直し、神話と製鉄の息づく出雲の大地へ向けて、確かな一歩を踏み出した。




