悪業の報い、白狐の喰破
板敷きの上に額を押しつけ、涙と鼻水に塗れて命乞いを繰り返す二人の国司を見下ろし、アルスは静かに踵を返した。
奪われた帳簿はすでに手中にあり、悪事の全容は白日の下に晒された。これ以上、この薄汚れた広間に留まる理由はなかった。アルスが大太刀の鍔に手を添え、濡れ縁へ向かって歩みを進めた、その刹那であった。
平伏していた火の国の国司の目が、狂気と憎悪に濁り切った光を放った。
『死ね、山猿が』
火の国の国司が右手の平で床板の節穴を強く押し込むと同時に、日向の国司は袖口から漆黒の毒針を仕込んだ鉄の筒を抜き放ち、アルスの無防備な背中目掛けて引き金を弾いた。
床板が跳ね上がり、油を塗られた無数の鋭利な鉄槍が床下から逆噴射のように突き出される。同時に、空気をも焦がす猛毒を帯びた数十本の暗器が、雨あられとなってアルスの首筋と背骨へと殺到した。
己の失脚と破滅を悟った小悪党が、最後の悪あがきとして放った必殺の罠であった。
だが、それらの凶器がアルスの衣服に触れることはなかった。
銀華が、静かに息を吸い込んだ。
それだけであった。
空間そのものが軋み、目に見えぬ絶対の重圧が広間を満たした。床下から飛び出した鉄槍は、何かに衝突したわけでもないのに、空中で飴細工のようにぐにゃりとへし曲がり、次々とひび割れて鉄屑と化して床へ散った。無数に飛来した毒針は、アルスの背後わずか一寸の虚空で完全に静止し、青白い燐光に包まれて瞬時に黒い灰へと燃え尽きた。
広間の温度が一瞬で氷の底へと落ち込んだ。
『あんたたちのような浅ましい虫螻に、反省の心など最初から期待していなかったけれどね』
銀華の唇から漏れた声は、鈴の音のように澄み渡りながら、この世のあらゆる生者を凍りつかせる冥府の響きを帯びていた。
振り返ったアルスの視線の先で、銀華の全身から吹き上がった純白の神気が、天を衝くほどの奔流となって渦を巻いた。黄金に燃え盛る双眸には、慈悲も哀れみも一欠片すら残されていない。背後に広がる九本の白銀の尾が、広間全体の壁と天井を突き破り、夜明けの薄闇を青白く染め上げていた。
『ひ、あ、ば、化け物』
二人の国司は腰を抜かし、爪が剥がれるほど床を掻きむしりながら後ずさろうとした。しかし、その手足はすでに床板へと見えない氷の楔で縫い付けられ、指一本動かすことすら叶わなかった。
銀華は一歩、また一歩と優雅に歩み寄った。
『何千、何万という無辜の民の涙を啜り、娘たちを売り飛ばして肥え太ったその肉と魂。神仏の裁きなど生ぬるい。この九尾の顎で、輪廻の輪から完全に消し去ってあげるよ』
銀華が細い白皙の指を天へ掲げ、ゆっくりと握りしめた。
ぎしり、と肉と骨が圧縮される凄惨な音が響き渡った。
二人の国司の四肢が、見えない万力で締め上げられるように不自然な方向へとねじ曲がっていった。太ももの骨がへし折れ、関節が外れる鈍い破壊音が連続して鳴り響く。男たちは眼球が飛び出さんばかりに見開き、喉が千切れるほどの絶叫を上げたが、その叫び声すら銀華の神気の結界の中に閉じ込められ、外へ漏れ出ることはなかった。
だが、肉体の損壊など、これから始まる処罰の序幕に過ぎなかった。
銀華の瞳が怪異な光を放つと、二人の国司の胸元から、どす黒く濁った泥水のような光塊が強引に引きずり出された。生きたまま肉体から剥ぎ取られる魂魄であった。強奪と裏切りと好色によって黒く腐り果てた二つの魂が、霊気の糸に絡め取られて宙で激しくのたうち回る。
『あぎゃあああ、熱い、痛い、許してくれ、助けてくれ』
魂そのものが引き裂かれる苦痛は、肉体の死を何万倍も上回る。
銀華の背後に立つ九本の巨大な尾が、獰猛な白蛇のようにしなり、黒い魂魄へと襲いかかった。鋭利な神気の刃が魂を八つ裂きに引き刻み、裂かれた魂の破片は青白い狐火によってじわじわと焼き焦がされていく。
逃げ場のない虚空で、悪徳国司たちの魂は千々に引き裂かれ、断末魔の悲鳴を上げ続けながら、銀華の放つ霊威の渦の中へと吸い込まれていった。
現世の肉体は完全に生命の輝きを失い、干からびた木屑のように床の上へ崩れ落ちた。魂魄は完全に喰らい尽くされ、黄泉の国へ行くことすら、未来永劫に生まれ変わることすら許されない完全なる消滅であった。
広間に立ち込めていた血と欲の悪臭が、清冽な神気によって一瞬で浄化され、後には完全な静寂だけが残された。
銀華はふうと息を吐き、黄金の瞳を元の柔らかな光へと戻した。九本の尾も夜風に溶けるように消え去り、白き衣を整えながらアルスの方へ振り返った。
『少しやりすぎたかい、アルス』
アルスは大太刀をしっかりと背負い直し、静かに首を横に振った。
『いいえ。あの者たちが生きていれば、また同じように力なき民を虐げ、血を流させ続けたはずです。銀華姉ちゃんが下した処罰は、この大地と民を守るための確かな天罰です』
若き瞳には、過酷な現実を受け止め、前へ進む覚悟が宿っていた。
二人は屋敷の奥へと進み、隠されていた頑丈な土蔵の扉を破壊した。中には、近隣の村々から奪い取られた莫大な量の砂金、銀の延べ棒、絹織物、そして山積みにされた米俵が眠っていた。
アルスは逃げ惑っていた屋敷の下男や女中たちを集め、怯える彼らに優しく語りかけた。
『恐れることはない。国司の悪政は今宵で終わった。この蔵にある富は、すべて火の国と日向の民から奪われたものだ。日向の湊におる甚作という船大工にこれを引き渡し、すべての村へ正しく分け与えるよう手筈を整えよ』
下男たちは涙を流して床に平伏し、若者の言葉に従うことを誓った。
夜が完全に明け、東の海原から昇った黄金の陽光が、日向の湊をまばゆく照らし出していた。
波止場へ戻ったアルスと銀華の前に、見違えるような姿となった巨船が佇んでいた。悪徳の偽装や人身売買のための暗い牢は全て取り払われ、甚作と人夫たちの手によって、頑丈な樫の木材で補強された見事な船体が潮風を受けて誇らしげに揺れていた。
船着き場には、救い出された十数人の娘たちやその家族、そして湊で働く大勢の民が集まっていた。
『若いの、約束通り船を仕立て直したぞ。これなら瀬戸内の難所も、山陰の荒波も難なく乗り越えられるはずだ』
甚作が額の汗を拭いながら、誇らしげに船腹を叩いた。
『甚作さん、本当にありがとうございます。この船を大切に使わせてもらいます』
アルスが頭を下げると、助けられた娘たちが駆け寄り、手作りの握り飯や干し魚の包みをアルスと銀華の手に持たせた。
『お兄ちゃん、お姉ちゃん、命を助けてくれて本当にありがとう』
娘たちの澄んだ笑顔を見つめ、アルスは大きな手でその頭を優しく撫でた。かつて幼い頃に母メイファから受けた温もりと同じ光が、いま目の前の人々へと受け継がれていた。
船に乗り込んだアルスが太い綱を解き、大判の帆が朝の追い風を孕んで大きく膨らんだ。
甚作が舵を握り、船は白い波飛沫を上げてゆっくりと日向の湊を離れていく。岸辺からは、いつまでも手を振り続ける民たちの感謝の声が、潮騒に乗って響き渡っていた。
舳先に立つアルスは、背中の大太刀の感触を確かめながら、青く広がる瀬戸内への海路を見据えた。
『いよいよ、出雲ですね』
隣に並び立つ銀華が、朝日に髪をなびかせながら力強く微笑んだ。
『ああ、そうだ。神々が集い、古代の因縁が渦巻く約束の地へ向かうのさ』
火の国と日向の悪徳を滅ぼした若き鬼と白狐の乗る船は、次なる運命の待つ出雲へ向けて、果てしない大海原を真っ直ぐに突き進んでいった。




