月下の断罪、白狐の神罰
切り立った断崖の細い獣道を、二つの影が音もなく駆け上がっていた。
足元では砕けた岩塊が夜の海原へと滑り落ち、遥か下方の波打ち際で鈍い水音を立てている。六尺五寸を超える大柄な体躯でありながら、アルスの足取りは山鹿のように軽やかであった。背負った大太刀を片手で押さえ、懐に入れた革袋の感触を確かめる。
『銀華姉ちゃん、少し聞いていいかい』
先を行く白い衣の背中に、アルスは息を乱すことなく声をかけた。
『なんだい、アルス』
『さっきの船で見つけた帳簿のことだ。大昔の石碑に刻まれた神代文字なら、形を見ただけで頭の中に意味が染み込んでくる。でも、あの帳簿に並んでいた役人のくずし字や、米や砂金の目方に添えられた細かな割符の意味は、俺にはさっぱり分からなかった。森の中で父上から教わった文字とも、まるで違っていたんだ』
銀華は足を緩めることなく、くすりと微かに笑った。
『無理もないさ。古代の文字は万物の理や魂の形をそのまま写し取ったものだが、人の世の役人が書く文字は違う。あれはね、どれだけ巧妙に民の目を欺き、己の懐を肥やすかという欲の迷路なのさ。米一石と書きながら裏では二升を引く。公の租税と偽りながら私腹を肥やすための符丁を散りばめる。文字を知らぬ民を縛り、抗えなくするための鎖だよ。あんたのような清らかな魂が、一目で理解できなくて当然さ』
『文字を使って人を騙し、苦しめるのか。そんなことのために知恵を使うなんて、ひどすぎる』
『だからこそ、力だけでなく世の仕組みを知らねばならないのさ。悪党の小細工を見破り、奪われたものを正しく大地へ返すためにね』
銀華の言葉が胸に染み入る中、二人は断崖の頂へと至った。
視界が開けた先には、巨木を惜しげもなく組んだ豪壮な館が夜闇に浮かび上がっていた。周囲を取り囲む頑丈な板塀の上には赤々と篝火が焚かれ、巡回する私兵たちの槍先が鈍い光を放っている。屋敷の中央に位置する大広間からは、笛や鼓の甲高い調べとともに、女たちの嬌声と男たちの卑しい笑い声が風に乗って流れてきた。
『宴もたけなわのようだね』
銀華の細い目が、冷ややかに細められた。その瞳の奥で、普段の柔らかな光が消え失せ、底知れぬ神威が静かに揺らめき始めた。
二人は警固の兵が詰める冠木門を素通りし、一跳びで十尺を超える板塀を音もなく飛び越えた。庭の玉砂利を踏む音すら立てず、広間を囲む濡れ縁の正面へと舞い降りる。
豪奢な絹の簾を、夜風が乱暴にめくり上げた。
広間の中央には、火の国の国司と日向の国司が並んで座し、漆塗りの大杯に注がれた美酒を煽っていた。傍らには美しく着飾った芸妓が侍り、盆の上には山海の珍味がうずたかく盛られている。周囲の広縁には、金で雇われた手練れの私兵団、三十人余りが抜き身の長刀や弓を手に控え、酒の余禄に預かっていた。
その爛れた熱気の中に、突如として氷点下の冷気が吹き込んだ。
『何事だ』
火の国の国司が盃を止め、不快そうに額の脂汗を拭った。
濡れ縁の暗がりから、二人の姿が音もなく進み出た。見上げるような巨躯に大太刀を佩いた若者と、月光を浴びて白く輝く衣を纏った絶世の美女。
『何者だ。下賤な者が入ってよい場所ではないぞ。門番は何をしている』
日向の国司が喚き散らすと、広縁に控えていた私兵頭が腰の大刀を引き抜いた。
『曲者か。出会え、出会え。八つ裂きにして崖から投げ落とせ』
三十人を超える私兵が一斉に抜刀し、殺気を剥き出しにして雪崩れ込んできた。白刃のきらめきが広間を埋め尽くし、逃げ惑う芸妓たちの悲鳴が響き渡る。
アルスが一歩前へ出ようとしたその時、白い袖が静かにアルスの胸元を制した。
『下がりなさい、アルス。ここからは、神を忘れ、人を獣以下に貶めた外道どもへの処罰の時間だよ』
銀華の声は低く、静寂そのものであった。だが、その一言が発せられた瞬間、大広間の空気が一変した。
ごう、と耳鳴りのような重圧が空間を押し潰した。
銀華の背後に、白銀の光を放つ巨大な九本の尾が、幻影のようにゆらめきながら天へと立ち昇った。黒髪は風もないのに逆立ち、その双眸は冷徹な黄金の輝きを放っている。千年を生きる大妖にして神獣たる九尾の狐が、その真の霊威を露わにした。
『ひ、化け物』
先頭の私兵が恐怖に顔を歪め、震える手で長刀を振り下ろそうとした。
銀華は瞬き一つしなかった。
ただ、白き衣の袖を前へと一閃させた。
それだけであった。
青白い狐火の嵐が、爆発的な勢いで広間を吹き抜けた。熱を帯びぬその炎は、触れたものすべての熱量と運動を一瞬で奪い去る絶対の凍気であった。
私兵たちの振り上げた長刀が、根元から白銀の氷へと変わり、パキパキと音を立てて砕け散った。鉄の破片が床へ落ちるよりも早く、凍てつく霊力の衝撃波が三十人の男たちの肉体をまとめて薙ぎ払った。
誰一人として声すら上げられなかった。
ある者は吹き飛ばされて漆喰の壁を突き破り、ある者は床板に叩きつけられて意識を絶たれた。骨が折れる鈍い音と、武器が砕け散る乾いた音だけが広間に響き渡る。繰り出された刃も、構えられた弓も、銀華の纏う神気の結界に指一本触れることすら叶わなかった。
慈悲も、躊躇も、問答すら存在しない。
圧倒的な力の隔絶。人の身でどれほど武器を揃え、私兵を囲おうとも、人外の絶対的正義の御前においては、舞い散る木の葉にも等しかった。
瞬く間に、広間を埋め尽くしていた私兵たちは完全に沈黙し、氷の張った床の上に折り重なって倒れ伏した。
血の一滴すら流れていない。ただ、外道どもが誇った暴力の全てが、無残なまでに無力化されていた。
『ひい、あああ』
座敷の奥で、二人の国司が腰を抜かし、互いに抱き合いながら後ずさっていた。豪奢な絹の着物は自らの失禁で汚れ、顔は土気色に染まり、歯の根が合わずにガチガチと音を立てている。
銀華は静かに九つの尾の光を収め、冷酷な眼差しで見下ろしながら一歩踏み出した。
『人の血を吸い、民の娘を売り飛ばして啜る酒の味はどうだい。あんたたちが紙切れの上で弄んだ命の重みを、その身に刻むがいい』
銀華の細い指先が、二人の額へ向けて伸ばされた。その指先から放たれる微かな神気に触れただけで、両国司は激しい頭痛と精神の圧壊に苛まれ、額を床に擦り付けて泣き叫んだ。
『お許しを、お許しを。奪ったものは全て返します。金も米も、全て村へ戻しますから、命だけは』
アルスは大太刀の柄から手を離し、平伏する二人の前に立った。懐から取り出した裏帳簿を、国司たちの目の前の床へ投げ落とす。
『明日の夜明けとともに、湊の船とこの屋敷にある全ての富を民へ返還しろ。そして、二度と火の国と日向の民を苦しめるな。もし背けば、今度こそこの白狐の神罰が、お前たちの魂ごと焼き尽くすことになる』
アルスの低く力強い宣告が、凍りついた広間に響き渡った。
東の空が白み始め、夜明けの清らかな光が断崖の館へと差し込み始めていた。日向の湊に巣食う闇は完全に払われ、若き鬼と白狐の歩みは、次なる地、瀬戸内を抜けた先の出雲へと向けられようとしていた。




