潮鳴りの尋問、闇の帳簿
舷側から突き出された鮫蔵の足元で、黒々とした海水が渦を巻き、激しい水音を立てて砕け散っていた。
海面までの高さは二丈あまり。落ちれば暗夜の急流に呑まれ、波止場の丸太杭に叩きつけられて骨も残らない。鮫蔵の襟首を掴むアルスの指先は、岩肌に食い込む古木の根のように微動だにしなかった。その腕からは荒々しい息遣いも、殺気立った力みも感じられない。ただ静かに、絶対的な質量として男の命を吊り下げていた。
鮫蔵の脂ぎった顔から血の気が完全に引いていた。さっきまで下卑た嘲笑を浮かべていた口唇は小刻みに震え、何かを喚き散らそうとするものの、喉が引き攣ってヒュウヒュウと風の抜けるような音しか出ない。己を支えている若者の双眸を見上げた瞬間、底知れぬ深淵を覗き込んだかのような寒気が胸を貫いたからであった。そこには怒り狂う獣の荒々しさではなく、人の業を冷徹に見据える神仏のような峻厳さが宿っていた。
『この海は、命を運ぶためのものだ。人を売り買いし、私腹を肥やすための泥溝ではない』
アルスの声は低く、押し寄せる波の轟音の下をくぐり抜けて鮫蔵の耳の奥に直接響いた。
『言え。この船の荷はどこへ運ばれ、誰の手に入る予定だったのか。岬の館におる国司は何を企んでいる』
アルスが腕の角度をわずかに傾けると、鮫蔵の足先が白波の飛沫を浴びた。冷たい海水が草鞋を濡らした刹那、男の矜持は完全に崩壊した。
『言います、すべて喋ります。落とさないでくれ。頼む、助けてくれ』
鮫蔵は両手を宙にかざし、必死に懇願した。
『この船の米と金は、瀬戸内を通って難波の津へ運ぶ手はずでした。都の右大臣家に連なる大夫様へ届け、火の国と日向の国司様がさらに高い位階を得るための賄賂です。娘たちも、都の豪商や貴族の屋敷へ下女として売り飛ばす密約が交わされていました』
『岬の館の警護はどうなっている』
『館には国司様が私費で雇い入れた百人余りの手勢が詰めています。日向の津を見下ろす断崖の上に建ち、唯一の登り道には頑丈な冠木門と弓狭間が設けられている。だが、今夜は積み荷の無事な出航を祝って、館の広間で酒宴が開かれているはずです。見張りも酒に酔って気が緩んでいるに違いありません』
アルスは男の言葉に嘘がないことをその瞳の揺らぎから見定めると、腕を大きく引き戻し、鮫蔵の身体を甲板の板敷きの上へと放り投げた。
どさりと背中から落ちた鮫蔵は、甲板の木肌にへばりつき、激しく咳き込みながら荒い息を繰り返した。もはや立ち上がる気力すら残っていなかった。
その時、船尾の船長室から、音もなく銀華が姿を現した。
白い衣の裾を潮風にはためかせた銀華の右手には、幾重にも封印が施された頑丈な桐の木箱と、分厚い羊皮紙の巻物が握られていた。
『アルス、奥の床板の下に面白いものが隠されていたよ。これをごらん』
銀華が木箱を開けると、中には墨黒々と文字が書き連ねられた数冊の帳簿が収められていた。火の国と日向、双方の国司の鮮やかな朱印と花押が押されている。
アルスは帳簿を受け取り、月明かりの下で頁をめくった。そこには、近隣の村々から強奪した米の数量、砂金の目方、さらには徴税に抗った百姓の処刑記録や、口減らしの名目で連行された娘たちの出身村と年齢に至るまで、克明に記されていた。それだけではない。奪った富の半分を都への工作資金とし、残る半分で密かに鉄の武器と甲冑を買い集め、私兵を組織して九州一円に覇を唱えようとする陰謀の全容が露わになっていた。
『民の命を紙切れの数字のように扱い、己の野心のために大地を枯らす。どこまでも浅ましい連中だ』
アルスの胸の中で、静かな怒りが燃え盛った。父アルダシールがかつて戦った長安の腐敗と、この日ノ本の辺境で起きている現実は、根底において何一つ変わっていなかった。
そこへ、波止場の方角から幾重もの足音が近づいてきた。
甚作を先頭に、棍棒や手斧を手にした数十人の逞しい男たちが甲板へと駆け上がってきた。娘たちの避難を無事に終えた湊の人夫たちであった。長年、悪徳商人や武者たちに虐げられ、屈辱に耐え続けてきた男たちの目には、いまや怯えの色はなく、自らの手で未来を取り戻そうとする気迫が満ちていた。
『若いの、娘たちは皆、裏山の安全な洞穴へ隠した。怪我人は一人もおらん』
甚作が肩で息をしながら告げると、甲板に倒れ伏す無頼漢たちと、平伏する鮫蔵の姿を見て驚きに目を見張った。
『本当に、たった二人でこの船を制圧したのか』
『甚作さん、船倉には民から奪われた米俵と塩、干し肉が満載されています。これらを今すぐ湊の民や、山へ逃げ散った村人たちへ分け与えてください。飢えをしのぎ、田畑を立て直すための糧にするのです』
アルスの言葉に、人夫たちの間から歓声が上がった。男たちは互いの肩を抱き合い、積年の苦しみが報われたことに涙を流した。
『ありがてえ。これで村の者たちも冬を越せる。だが若いの、この巨大な船はどうするのだ。国司の手勢が気づけば、焼き払いに来るかもしれんぞ』
甚作が問うと、アルスは振り返り、頑丈な船体を見上げた。
『この船は、俺たちが預かります。俺と銀華姉ちゃんは、瀬戸内を抜けて出雲へ向かわねばならない。この船を海を渡るための足として使いたいのです。甚作さん、この船から悪徳の偽装を取り払い、外海を渡れるよう手を入れてはもらえないでしょうか』
甚作は使い慣れた手斧を握り直し、深く頷いた。
『任せておけ。儂はこれでも日向一の船大工だ。仲間総出で夜を徹して改修すれば、明日の日没までにはどんな荒波にも耐えうる本物の船に仕立て直してみせる。悪党どもの泥舟を、世直しの名船に生まれ変わらせてやるさ』
人夫たちが一斉に船倉へと降り立ち、米俵の運び出しと船の整備に取り掛かり始めた。活気に満ちた掛け声と木槌の音が、夜の湊に力強く響き渡る。
アルスと銀華は波止場へ降り立ち、湊の北端に突き出た断崖を見上げた。
黒々とそそり立つ絶壁の頂には、篝火を赤々と焚いた巨大な屋敷がそびえ立っていた。火の国と日向の富を吸い尽くし、民の嘆きの上に胡座をかく悪徳国司の居城である。屋敷の奥からは、風に乗ってかすかに雅楽の調べと嬌声が漂ってきていた。
『さて、アルス。船の準備が整う前に、あの崖の上の元凶を片付けに行かねばならないね』
銀華が妖艶な微笑を浮かべ、白い指先で断崖の影を指し示した。
『はい。力なき者を虐げて得た富で酒を酌み交わす宴など、今宵限りで終わらせます』
アルスは背中の大太刀を確かめ、夜明け前の冷たい闇の中へ歩み出した。二人の影は音もなく、険しい岩肌を縫うように断崖の頂へと吸い込まれていった。




