月下の人身御供、怒涛の強襲
満潮の刻限が近づくにつれ、日向の海は底知れぬ黒さを増していった。
ぬるい夜風に乗って、磯の匂いと腐った海藻の混じり合う生々しい潮気が漂ってくる。波止場の突堤に繋留された巨大な偽装船は、押し寄せる黒い波に巨体を揺らし、軋んだ音を夜の闇に響かせていた。官船の旗を掲げながらも、その船腹には民から略奪した米俵や金銀、そして人の尊厳を踏みにじるための暗い牢が仕組まれている。
入江の物陰からその威容を見据えるアルスの双眸は、闇の中で深く澄んでいた。
(あの船を壊さずに、中の人たちを救い出す)
アルスは背中の大太刀の革帯を締め直し、己の掌を静かに見つめた。
七歳の頃、東シナ海で安禄山の呪詛が産み落とした異形の巨体を打ち払った時の記憶が、腕の筋肉を心地よく緊張させる。あの時も、父アルダシールから船を壊すなと命じられ、空中で力を凝縮させて亡者のみを粉砕した。今宵もまた、同じだ。罪なき娘たちを乗せた船体を傷つけることなく、悪党どもだけを的確に叩き潰さねばならない。
『潮が満ちきったよ、アルス。見張りは甲板に四人、船着き場に三人。妖気は感じられないが、人の放つ濁った欲の匂いが充満している』
隣にしゃがみ込む銀華が、白い衣の袖を夜風になびかせながら囁いた。その声は風のざわめきに溶け込み、周囲の誰の耳にも届かない。
『甚作さん、船倉の鍵を外したらすぐに娘さんたちを裏の入り江へ誘導してください。合図を出します』
アルスが背後に控える老船大工へ声をかけると、甚作は固く頷き、使い慣れた手斧を握りしめた。
『分かった。儂の命に代えても、あの子らを逃がしてみせる。無茶はするなよ』
合図とともに、アルスと銀華は音もなく闇の中へ滑り出した。
波止場の桟橋に立つ二人の見張りが、酒瓶を傾けながら下卑た笑い声を上げていた。船底の娘たちを都で売り捌いた分け前について語り合っているその背後へ、アルスは風のように間合いを詰めた。
足音一つ立てず、六尺五寸を超える大男の影が二人の男を覆い尽くす。男たちが異変に気づいて振り返ろうとした瞬間、アルスの太い両腕が伸び、二人の後頭部を素手で軽く打ち合わせた。
ごん、と鈍い音が闇に吸い込まれ、見張りは声も上げずにその場へ崩れ落ちた。
銀華もまた、甲板へ上がる縄梯子の根元にいた見張りの額へ、白い指先で軽く触れていた。妖狐の幻術によって意識を刈り取られた男は、そのまま眠り込むように甲板の隅へと倒れ伏した。
船上の見張りを瞬く間に無力化した二人は、甲板の奥にある重厚な木製扉の前へと進んだ。船底へと続く階段の先からは、黴と汗の混じり合った重苦しい空気が立ち上っている。
狭い通路を降り切ると、頑丈な樫の木で組まれた牢格子が立ち塞がっていた。扉には太い鉄の鎖が三重に巻きつけられ、無骨な錠前がぶら下がっている。格子の隙間からは、十数人の少女たちが身を寄せ合い、寒さと恐怖に震えながら身悶えるかすかな気配が漏れ聞こえていた。
『誰か、いるの』
牢の奥から、掠れた声が聞こえた。
『静かに。助けに来ました』
アルスは低く落ち着いた声で応じると、鉄の鎖へ両手をかけた。
太い指が冷たい鉄の輪を掴み、腕の筋肉が一気に隆起する。古代巨人族の血脈が肉体の奥底で脈打ち、万力をも遥かに凌ぐ圧力が鎖へと加えられた。
ぎりぎり、と鉄が悲鳴を上げるような軋み音が響いた直後、ばきりという乾いた破断音とともに、親指ほどの太さがある鉄鎖が飴細工のように引きちぎられた。錠前ごと千切れた鎖を床に落とし、アルスは重い牢の扉を音もなく押し開けた。
暗闇に蹲っていた少女たちが、息を呑んで見上げる。
そこに現れたのは、見上げるような長身と広い肩幅を持ちながら、どこまでも温かな光を宿した瞳で見つめてくる若者の姿であった。
『さあ、立ってください。外に案内人が待っています。音を立てずに、一人ずつ続いてください』
アルスが優しく手を差し伸べると、先頭の娘が涙をこぼしながらその大きな手を取った。甚作が階段の上から顔を出し、手際よく少女たちを甲板へと導いていく。
だが、最後の娘が牢を出ようとしたその時、甲板の上からけたたましい銅鑼の音が鳴り響いた。
『曲者だ。荷揚げ場に倒れている見張りがいるぞ。船倉を調べろ』
波止場から駆け戻ってきた男たちの怒号が、夜の湊に響き渡る。
船倉の階段から甲板へ出た甚作と娘たちの前に、抜刀した二十人近い無頼漢たちが立ち塞がった。その中央には、錦の小袖を着流し、脂ぎった顔に獰猛な笑みを浮かべた廻船問屋の頭領が立っていた。
『甚作の爺い、貴様、国司様の大事な荷に手を出したな。娘どもは皆殺しにして海へ捨てろ。爺いは生きたまま皮を剥いでやる』
頭領の合図で、水軍崩れの凶悪な男たちが刀を振り上げ、怯える娘たちへ襲いかかろうとした。
その瞬間、船底から一筋の突風が吹き抜けた。
階段を飛び上がったアルスが、娘たちの前に割って入った。踏み込んだ足元から甲板の板がかすかに鳴ったが、船体を割るような過剰な衝撃は一切伝わらない。自らの質量と剛力を完全に制御した、完璧な着地であった。
『この船の誰一人として、お前たちの好きにはさせない』
アルスの低く轟く声が、甲板の夜気を震わせた。
『何だこの大男は。構わん、手足を切り落として海へ叩き落とせ』
頭領の叫び声に呼応し、先頭の三人が左右と正面から同時に刃を突き出してきた。波打ち際で鍛えられた実戦の斬撃が、アルスの喉、脇腹、太ももを正確に狙う。
アルスは大太刀を抜くことすらしなかった。
繰り出された正面の刃に対し、アルスは左の掌底で刀の峰を鋭く弾いた。金属が激突する甲高い音とともに刀身が跳ね上がり、体勢を崩した男の胸元へ、アルスの右の肘打ちが吸い込まれるように叩き込まれた。
どすん、と鈍い衝撃が走り、男は呼吸を失って甲板を転がった。
左右から迫る二本の刀に対しては、アルスは身を低く沈めながら両腕を左右へ払った。丸太のような太い前腕が男たちの手首を内側から打ち据え、刀は宙へと弾き飛ばされる。隙だらけとなった二人の襟首を掴み上げると、アルスはそのまま力任せに二人の身体を正面へ向けて投げ飛ばした。
飛来した人間の盾に激突し、後方にいた四人の雑兵が将棋倒しとなって甲板へ倒れ伏す。
『化け物か、こいつは』
残る男たちが後ずさり、恐怖に顔を引きつらせた。
アルスは立ち止まることなく、大股で一歩を踏み出した。その足取りは重厚でありながら、船板一枚すら軋ませない絶妙な体重移動を保っている。繰り出される槍や刀を素手で捌き、関節を外し、掌底と足払いで次々と男たちを戦闘不能へと追い込んでいく。
銀華は娘たちの周囲に目に見えぬ結界を張り巡らせ、飛んでくる矢や投石を白い袖の一振りでことごとく海へと叩き落としていた。
『甚作さん、今のうちに娘さんたちを舟小屋へ』
アルスが叫ぶと、甚作は娘たちを連れて縄梯子を駆け下り、闇の中へと消えていった。
甲板の上に残されたのは、呻き声を上げて倒れ伏す無頼漢たちの群れと、腰を抜かして震え上がる廻船問屋の頭領だけであった。
アルスはゆっくりと歩み寄り、冷徹な光を宿した眼差しで頭領を見下ろした。
『お前たちの悪徳の宴は、これで終わりだ』
アルスの太い手が頭領の胸元を掴み上げ、逃げ場のない夜の海原の上へと軽々と差し出した。




