潮風の暗雲、日向の湊
火の国の険しい東の峠を登り詰めたとき、生い茂る原生林の切れ間から、目も眩むような青き大海原が一気に視界を埋め尽くした。
山肌を駆け抜けてきた冷涼な風が途切れ、湿り気を帯びたぬるい潮風が吹き上げてくる。白く砕ける波頭がどこまでも連なる日向灘の光景を目にした瞬間、アルスの胸の奥で、幼き日の記憶が鮮烈に蘇った。
(あの時と同じ匂いだ)
アルスは立ち止まり、吹き付ける潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。
幼い頃、父アルダシールと母メイファと共に大陸の広州の港から乗り込んだ、同郷のペルシャ商人たちの巨大な木造船。夜ごと激しく揺れる船板の軋み、異国の水夫たちが交わす懐かしい言葉の響き、そして荒れ狂う東シナ海の波を越えて薩摩の地に辿り着いたあの航海の記憶が、潮の香気とともに皮膚の奥へと呼び覚まされていた。背中に負った大太刀の鉄の肌が、湿った塩気に触れてかすかに冷たさを増す。
『覚えているかい、アルス。広州の港からペルシャ商人たちの船に揺られて薩摩へ渡った、あの海だよ』
銀華は白い衣の裾を風になびかせ、細い目を細めて水平線を見つめた。その妖艶な横顔には、幾百年もの昔から大陸とこの島国を行き交う人の営みを見守ってきた深遠な光が宿っていた。
『ええ、忘れるはずがありません。広州の港を出た夜の星空や、父上と同郷の商人たちが語り合っていた声、そして薩摩の土を踏んだ時の感触は、今も身体の奥に残っています。この日向の海も、あの薩摩の海、そして遥かな大陸の岸辺へと一つに繋がっているのですね』
アルスが拳を握りしめると、銀華は優しく微笑んで頷いた。
しかし、二人が視線を眼下の湾内へと落とした途端、その場の空気は一変した。
天然の良港を抱く日向の湊町は、一見すると活気に満ちているように見えた。頑丈な丸太で組まれた波止場には、米や木材を満載した大型の船が何隻も横付けされ、白煙を吐き出す塩田や立ち並ぶ土蔵が威容を誇っている。だが、その町を包む空気は、山あいの寒村で感じたものと同じ、どす黒く淀んだ人の欲望の匂いに満ちていた。
坂道を下り、二人は湊町の木戸をくぐった。
通りの両脇には、肥え太った体躯を豪奢な絹織物で包んだ商人や、腰に太刀を佩いた役人たちが大股で闊歩している。一方で、波止場へと続くぬかるんだ小道では、肋骨が浮き出るほどに痩せこけた男たちが、重い俵を背負わされて喘ぎながら列をなしていた。
『もたもた歩くな、この野良犬どもが』
革の胸当てを着けた水軍崩れの無頼漢が、手にした縄の鞭を容赦なく人夫の背中へ振り下ろす。鈍い音とともに男の薄い皮膚が裂け、鮮血が泥水の上へと散った。荷を担いだ男は呻き声を上げながらも、倒れれば命がないことを知っているため、必死に足を踏ん張って歩き続ける。
アルスの太い腕が怒りに震えたが、銀華がそっと白い指先でアルスの腕を制した。
『焦るんじゃないよ、アルス。まずはこの湊の仕組みと、根を張る悪の全容を見極めるのが先決だ』
二人が荷揚げ場の片隅へと足を進めると、波止場の突堤近くで激しい怒号と人だかりが生じていた。
『待ってください、この若者は三日も飯を食わずに働かされているのです。これ以上担がせたら命を落としてしまう』
白髪交じりの頭に手ぬぐいを巻き、日に焼けた筋骨たくましい腕を持つ老人が、地面に倒れ伏した若い人夫を庇うように立ち塞がっていた。老人の足元には、使い古された墨壺や手斧といった船大工の道具が散らばっている。
その老人を見下ろすのは、筋骨隆々とした用心棒の頭であった。顎髭を蓄えた凶悪な相貌の男は、手にした鉄棒で老人の肩を乱暴に突いた。
『甚作、落ちぶれた船大工の分際で偉そうな口を利くな。国司様に納める極上の檜材を船に積み込む刻限はとっくに過ぎているのだ。代わりにお前が担ぐというなら話は別だがな』
『儂は船を造る大工であって、お前たちの奴隷ではない。理不尽な命令で人を殺すような真似はやめろ』
老船大工の甚作が気骨を見せて睨み返すと、用心棒の顔が怒りで赤黒く染まった。
『口答えする年寄りは海へ放り込んで魚の餌にしてやる』
用心棒が鉄棒を振り上げ、甚作の頭上目掛けて容赦なく叩き下ろそうとした。周囲の人夫たちが悲鳴を上げて目を背ける。
だが、振り下ろされた鉄棒が老人の頭を割ることはなかった。
横合いから踏み込んだアルスの太い腕が、空中で鉄棒を素手でがっしりと受け止めていた。
硬質な鉄と分厚い掌が激突し、乾いた打撃音が響き渡る。だが、受け止めた手は微動だにせず、鉄棒の勢いは完全に殺されていた。
用心棒がぎょっとして視線を上げると、そこには自分よりも頭二つ分高くそそり立つ、六尺五寸を超える大男の姿があった。アルスの鋭い眼光が、冷徹な光を帯びて男の顔を射抜いている。
『力なき老人や飢えた者に暴力を振るうしか能がないのか』
アルスが静かに言葉を吐き捨てると同時に、鉄棒を握る手に力を込めた。ぎりぎりと鉄が歪むような異様な圧力が加わり、用心棒の手首が耐えきれずに跳ね上がった。
『な、なんだこの大男は』
用心棒が後ずさり、背後の仲間たちを手招きしようとしたが、アルスはそれ以上手を出さず、ただ立ち尽くしたまま全身から圧倒的な威圧感を放った。見上げるような背丈と太い肩幅、背負われた長大な太刀の威容に呑まれ、無頼漢たちは舌打ちをしながら倒れた人夫を置いて後退していった。
『おい、覚えとけよ。湊の掟に逆らった奴がどうなるか、後で教えてやる』
捨て台詞を残して無頼漢たちが去った後、アルスは倒れていた若い人夫を軽々と抱き起こし、散らばっていた大工道具を拾い集めて甚作に手渡した。
甚作は驚きと感謝の入り混じった目で、アルスの並外れた背丈とたくましい腕を見上げた。
『若いの、危ないところを助けてもらったな。だが、奴らに目をつけられたらこの町では生きていけん。早く儂の舟小屋へ身を隠すがいい』
甚作の先導で、二人は湊の喧騒から離れた外れの入江へと案内された。そこには、波打ち際に建てられた粗末な板張りの舟小屋があった。潮の匂いと乾いた木屑の香りが混ざり合う小屋の中で、甚作は二人にお茶を差し出し、深いため息をついた。
『見ての通り、この日向の湊はすでに腐りきっている。昔は海の神を祀り、豊かな恵みを分かち合う清らかな港だったのだがね』
甚作の語る言葉から、湊の暗部が次々と明かされていった。
火の国の国司と日向の国司は裏で深く結託し、近隣の村々から奪い取った大量の米、砂金、極上の木材をこの湊に集積していた。さらに許しがたいことに、重税で田畑を失い、飢えに耐えかねて口減らしに出された百姓の若い娘たちを安値で買い叩き、都の悪徳貴族や豪商たちへ売り飛ばすための人身売買の拠点としていたのである。
『奴らは、公の官船に見せかけた巨大な偽装船を仕立てている。民から絞り取った血と汗の結晶を、その船に満載して瀬戸内へ運び、都で私腹を肥やすのだ。儂はその船の建造を強要されたが、人買いの船など造れるかと断ったために道具を奪われ、干されてしまったのさ』
甚作は悔しさに拳を震わせ、板壁を強く叩いた。
『その偽装船は、いつ出航するのですか』
アルスが低く問うと、甚作は険しい表情で夜の海を指差した。
『明日の晩、潮が満ちる刻限だ。すでに積み荷の積載は九割方終わっている。山のように積まれた米や砂金、そして奥の船倉に閉じ込められた十数人の娘たちを乗せ、闇に紛れて日向を出る手はずになっている。あの船が一度海へ出てしまえば、奪われた者たちの行方は二度と知れなくなる』
その言葉を聞いた瞬間、アルスの胸の奥で、炎のような熱い怒りが滾り始めた。かつて自分たちが海を渡ったのは希望と家族の安寧のためであった。その同じ海を、人を売り買いし、私腹を肥やすための道具に使うことなど、決して許すことはできない。
アルスは立ち上がり、背中の大太刀の柄を強く握りしめた。
『甚作さん、その船を止めます。奪われた米も、囚われた娘たちも、必ず救い出します』
銀華もまた、妖しく目を細めて立ち上がった。
『悪徳に塗れた船なら、奪い取って正しい道へ使うのが道理というものさ。アルス、明晩の満潮、あの船を舞台に思い切り暴れてやろうじゃないか』
かつて渡った海の記憶を胸に、若き鬼の瞳には、悪を滅ぼし無辜の民を救い出すための確かな闘志が宿っていた。




