↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アルダシールと銀華~千年の時空を駆ける鬼と狐の恋物語  作者: 秋津ネオ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
118/132

踏み躙られし種籾、荒野の鉄拳


 粉々に砕け散った樫の柄と鉄の破片が、乾いた地面を激しく叩いて跳ねた。


 武者頭の猪熊は、折れた槍の根元を握りしめたまま、眼前にそそり立つ二メートルを超える巨躯を仰ぎ見て言葉を失っていた。常人の膂力を遥かに超えた怪力。何より、鋼の穂先を素手で受け止めて微動だにしなかったその鋼鉄のような肉体に、本能的な恐怖が背筋を駆け上がった。


 だが、長年この地で暴虐の限りを尽くし、民の血肉を貪ってきた悪党の傲慢さが、その恐怖を塗り潰した。猪熊は顔の筋を醜く歪め、後方に控えていた十数人の雑兵たちに向けて狂ったように叫び声を上げた。


 『何をしている、突っ立ておらんで掛かれ。山から下りてきた大猿一匹に何を怯えている。手斧で脚を払え。竹槍で腹を突き破れ。首を取った者には米一石をくれてやるぞ』


 米という言葉に目の色を変えた雑兵たちが、卑屈な欲望を剥き出しにして一斉に飛び出してきた。


 手斧を振りかざした二人の男が、左右からアルスの太ももを狙って滑り込むように肉薄する。背後からは竹槍を構えた三人が、喉元と脇腹を同時に刺し貫こうと殺到した。


 アルスは背中の大太刀を抜こうとはしなかった。父アルダシールから教え込まれた戦の極意は、むやみに刃を抜いて血を流すことではない。己の肉体を練り上げ、大地と一体となって敵の勢いを呑み込むことであった。


 アルスは息を静かに吐き出しながら、腰を深く落とした。


 踏み込んだ右足が地表を陥没させ、もうもうとした砂煙が舞い上がる。左右から迫る手斧の鋭い刃先に対し、アルスは両腕を薙ぎ払うように交差させた。


 分厚い前腕が手斧の柄を真っ向から迎え撃つ。木と骨がぶつかり合う鈍い衝撃音が響いたが、軋んだのは雑兵の側であった。アルスの腕に触れた瞬間、雑兵二人の手首は逆方向へ無理やり跳ね上げられ、手斧は虚空へと吹き飛んだ。


 『ぐああっ』


 悲鳴を上げる雑兵の襟首を、アルスの太い指が鷲掴みにした。大人の男の身体が、まるで枯れ枝のように軽々と持ち上げられる。アルスはそのまま旋回し、背後から突き出された三本の竹槍に向けて雑兵の身体を放り投げた。


 人車となった雑兵が槍襖へ激突し、竹槍は音を立ててへし折れ、四人の男が泥水の中へ折り重なるように倒れ伏した。


 残る雑兵たちが恐慌をきたして足を止めたが、アルスはすでに踏み込んでいた。


 大地を蹴る一歩は地響きを伴い、風を切り裂く巨躯の影が雑兵たちの頭上を覆い尽くす。アルスは父譲りの体術で、繰り出される棍棒や刀を掌底一つで弾き返した。胸板を打たれた男は呼吸を奪われて膝から崩れ落ち、足を払われた男は背中から地面に叩きつけられて悶絶した。


 刃を一切使わず、拳と掌の衝撃だけで、十数人の凶悪な無頼漢たちが瞬く間に泥土の中へ転がされていく。


 立ち竦む甚兵衛と娘は、信じられないものを見るかのようにその光景を見つめていた。幼子だけが泣き止み、大きな瞳を輝かせてアルスの大きな背中を見上げている。


 街道の傍らに佇む銀華は、白い袖の中に手を滑り込ませ、静かに頷いていた。その瞳には、かつて幾多の戦場を駆け抜けた父の面影と、決して無益な殺生を好まぬ母の祈りを受け継いだ息子の姿が、頼もしく映っていた。


 『化け物めが』


 手下をすべて無力化された猪熊が、腰の大刀を狂乱の態で引き抜いた。銀色に鈍く光る抜き身の刀身が、陽光を照り返してギラリと輝く。猪熊は馬の腹を激しく蹴り立て、アルスの眉間を目掛けて馬上から全力の一刀を振り下ろした。


 風を断つ鋭い斬撃。


 だが、アルスはその太刀筋を完全に見切っていた。


 刀が額の寸前に迫った瞬間、アルスは首をわずかに傾けて刃の軌道を逸らした。空を切った刀身の風圧がアルスの頬を撫でる。その刹那、アルスの左手が電光のように伸び、猪熊の右手首を万力のように締め上げた。


 『しまっ』


 猪熊が叫ぶ間もなく、アルスは手首を軽く捻り上げた。ぎしりと骨が軋む音とともに大刀が手から滑り落ち、アルスの右手が猪熊の革鎧の胸当てを掴み取った。


 アルスは巨腕に力を込め、馬上から百キロを超える大男を力任せに引きずり下ろした。


 どしん、と凄まじい音を立てて猪熊の身体が地面に叩きつけられた。巻き上がった土煙の中で、猪熊は肺の中の空気をすべて吐き出し、喉を鳴らして苦悶の声を上げた。


 アルスは猪熊の胸元を太い片足で踏みつけ、見下ろした。その深紅の光を帯びた瞳には、怒りと峻厳な威厳が満ちていた。


 『これ以上、力のない民を苦しめるなら、その命はないものと思え』


 アルスの低く重い声が、猪熊の胸骨を直に震わせる。猪熊はもはや傲慢さをかなぐり捨て、恐怖に青ざめた顔で両手を振って命乞いを始めた。


 『た、助けてくれ。儂はただ、国司様の命令に従っていただけだ。逆らえば儂の首が飛ぶのだ』


 『国司だと。あの男は何のためにこれほど過酷な取り立てを命じている。すべてを吐け』


 アルスが踏みしめる足にわずかに力を込めると、猪熊は悲鳴を上げて白状し始めた。


 『み、都の有力な貴族に賄賂として送るためだ。火の国の国司は、自らの位階を上げるため、民から米や絹、砂金を根こそぎ奪い取っている。奪った財宝は、この街道の先にある日向の港へと運ばれ、そこから瀬戸内の海路を通って都へと密輸される手はずになっているのだ。近々、莫大な量の貢ぎ物が日向の港から船で運び出されることになっている』


 猪熊の言葉に、アルスは背後で控える銀華へ視線を送った。銀華は冷ややかな笑みを浮かべ、ゆっくりと歩み寄ってきた。


 『なるほどね。日向の港から瀬戸内を経て都へか。私たちの行く手とぴったり重なるじゃないか。民の血と汗を吸い上げて肥え太る豚どもに、ちょうどいい引導を渡せそうだね』


 アルスは猪熊から足を退け、転がっていた刀を遠くの藪の中へ蹴り飛ばした。


 『この村から奪ったものをすべて荷車から降ろせ。そして手下を連れて、二度とこの村へ足を踏み入れるな。もし再び民を脅かすようなことがあれば、その時は容赦しない』


 『は、はい、すぐに立ち去ります』


 猪熊は泥まみれになりながら手下どもを蹴飛ばして起こし、村から略奪した種籾や干し肉を積んだ荷車を残して、命からがら街道の奥へと逃げ去っていった。


 静寂が戻った寒村に、乾いた風が吹き抜けた。


 甚兵衛と娘は、荷車に残された米袋の前に駆け寄り、泣き崩れた。


 『おお、種籾だ。これで、これで来年も田を耕せる。飢えて死なずに済む』


 甚兵衛はアルスの前に這い寄り、その泥に汚れた草鞋に額を押し当てて何度も感謝の言葉を繰り返した。


 『旅のお方、なんとお礼を申し上げたらよいか。貴方様は本当に、火の国の神様のお使いに違いありません』


 アルスは膝を折り、老人の震える肩を優しく抱き起こした。


 『甚兵衛さん、俺は神などではありません。ただ、父と母から受け継いだ力で、目の前の理不尽を許せなかっただけです。山へ逃げた村の人たちを呼び戻してください。そして、この種籾で必ず村を立て直してください』


 アルスの温かな言葉に、娘も幼子を抱きしめながら涙を流して頭を下げた。幼子が差し出してきた小さな手を、アルスは大きな掌でそっと包み込んだ。その手の温もりが、アルスの胸に確かな手応えを残していた。


 村人たちに別れを告げ、アルスと銀華は再び東へと続く街道へと歩み出した。


 背後からは、甚兵衛たちが遠く山へ向かって村の仲間を呼び戻す笛の音が、静かに響き渡っていた。


 『良い初陣だったね、アルス。だが、末端の犬を追い払ったところで、悪徳の根を断たねば同じことの繰り返しだよ』


 銀華が前を見据えながら言った。その声には、これから向かう戦いへの覚悟が滲んでいた。


 『分かっています、銀華姉ちゃん。日向の港へ急ぎましょう。民の未来を奪う船を止め、悪の根源を叩き潰します』


 アルスは大太刀の柄を握り直し、力強い足取りで黄塵の舞う街道を一歩一歩踏みしめて進んだ。火の国の山並みの向こうに、次なる戦いの気配が立ち込めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。