山裾の寒村、焦土の税
阿蘇の裾野を包んでいた乳白色の朝霧は、陽が昇るにつれて薄れ、代わりに行く手を覆ったのは乾ききった黄塵であった。
標高を下げるごとに、高原を吹き抜けていた清冽な風は湿り気を失い、肌にまとわりつく生温かい熱気へと変わっていく。足元を踏みしめる赤土の感触も、豊かな腐葉土の弾力から、焼き固められた瓦のように硬くひび割れたものへと移り変わっていた。
二メートルを超えるアルスの巨躯は、背負った大太刀とともに一定のリズムで大地を踏みしめていた。その歩みは静かでありながら、一歩ごとに地面の奥深くへと確かな重みを伝えている。並んで歩く銀華の白い裾は、塵にまみれることもなく、まるで水面を滑るかのように軽やかであった。
街道筋に時折現れる旅人の姿は、森で暮らしていたアルスにとって異様な光景に映った。人々はみな、薄汚れた麻布で頭を覆い、背を丸めて地面ばかりを見つめて歩いている。アルスの並外れた体躯や銀華の浮世離れした美しさに視線を向ける者はいたが、目が合いそうになると、まるで恐ろしい祟り神にでも遭遇したかのように慌てて視線を逸らし、小走りに逃げ去っていった。
『誰もが怯えている。まるで、歩くことそのものが罪であるかのように』
アルスが低く呟くと、銀華は冷ややかな風に長い黒髪を揺らしながら言った。
『それが人の世の掟というものだよ、アルス。強い者が法を名乗り、弱い者はただ頭を垂れて嵐が過ぎるのを待つしかない。ここでは、目立つことすら命取りになるのさ』
正午を回る頃、二人は山あいの谷筋に開けた小さな集落へと差し掛かった。
だが、そこにかつてあったはずの人の温もりは微塵も残されていなかった。畦道は崩れ落ち、田の底は干上がって亀の甲羅のように無数の亀裂が走っている。立ち並ぶ十数軒の藁葺き小屋のうち、半数以上は屋根が焼け落ち、黒焦げの柱が無惨に天を指して突っ立っていた。風が吹き抜けるたび、焼け焦げた木と乾いた藁の苦い匂いが鼻を突く。
村の中央にある涸れ井戸の傍らに、人影が一つ倒れ伏していた。
アルスが歩み寄ると、それは肋骨が浮き出るほどに痩せ細り、白髪を泥で汚した老人であった。老人は浅い息を繰り返し、乾ききった唇を微かに震わせている。
『大丈夫ですか、気をしっかり持ってください』
アルスは膝をつき、肩から下げた竹筒を老人の口元へ運んだ。阿蘇の湧水を少量ずつ唇に垂らすと、老人は喉を鳴らして水を貪り、やがて濁った目をわずかに見開いてアルスを見上げた。
『あ、ああ、水だ。ありがてえ、ありがてえ。山の神様が遣わしてくださったのか』
老人は震える手でアルスの太い腕にすがりつき、涙を流して地面に額を擦り付けた。アルスは老人の痩せこけた肩をそっと支え起こした。
『俺は神などではありません。通りすがりの旅の者です。この村は一体どうしたのですか。火事でもあったのですか』
老人は甚兵衛と名乗り、かすれた声で途切れ途切れに語り始めた。
『火事などではございません。国司様の手勢が、見せしめに焼き払ったのでございます。新しく都から下向された国司様は、都の権力者へ莫大な贈り物を届けて覚えをめでたくしようと、例年の三倍もの調庸を命じてこられました。長雨で稲が実らなかったといくら訴えても聞き入れられず、種籾から飼い牛に至るまで全て奪い去られました。払えぬ者は縄で縛られて連行され、残った者も夜陰に乗じて山へ逃げ散ってしまったのです』
甚兵衛の乾いた目から、再び涙が溢れ落ちて泥土を濡らした。
『儂のような動けぬ年寄りだけがこうして取り残され、ただ野垂れ死ぬのを待つばかりでございます』
甚兵衛の語る言葉の端々から、人の欲が生み出す底知れぬ暗闇が滲み出ていた。アルスは胸の奥が締め付けられるような激しい痛みを覚えた。父アルダシールが語っていた、人の世を蝕む業の深さが、目の前の老人の骨張った身体を通して生々しく突き刺さってくる。
『あまりにも理不尽だ。民を慈しむべき役人が、なぜ自らの民を飢えさせ、焼き払うのか』
アルスの拳が固く握りしめられ、指の関節が白く浮き上がった。その時、街道の奥から地響きのような馬の蹄の音が響いてきた。
乾いた土煙を巻き上げながら、十数人の武者の一隊が姿を現した。
先頭に立つのは、黒革の鎧に身を包み、大柄な鹿毛の馬に跨がった武者頭であった。筋骨隆々とした体躯に獰猛な相貌を浮かべ、腰には大振りの太刀、手には血吸いと呼ばれるような鋭利な穂先を持つ長槍を握っている。その後ろには、手斧や竹槍を手にした凶暴そうな雑兵たちが下品な笑い声を上げながら従っていた。
『おい、まだ息のある年寄りが残っていたか。隠し田の場所を吐かせる手間が省けたというものだ』
馬を止めた武者頭が、馬上から見下ろすように嘲笑った。その男の名は猪熊といい、国司の手足となって近隣の村落を容赦なく締め上げている悪名高い男であった。
雑兵の二人が粗末な小屋の奥へ踏み込み、中から悲鳴とともに一人の若い女と幼子を引きずり出してきた。逃げ遅れて小屋の床下に隠れていた、甚兵衛の娘とその子供であった。
『離して、お願いたすけて』
女が泥にまみれながら必死に叫び、幼子を腕の中に抱え込む。雑兵の一人は女の髪を乱暴に掴み上げ、その着物の胸元を引き裂いた。
『ほう、なかなかの器量ではないか。都の官人どもへ差し出す上袪にはならんが、手下どもの慰みものには丁度いい。子供は川へでも投げ込んでおけ』
猪熊が冷酷に言い放ち、雑兵が幼子の襟首を掴んで引き剥がそうとする。幼子の泣き叫ぶ声が、荒れ果てた村の空を引き裂いた。
『やめてくだせえ、その子だけは、後生ですから』
甚兵衛が這いつくばって猪熊の馬の脚に縋り付こうとしたが、猪熊は鬱陶しそうに槍の柄で老人の背中を容赦なく打ち据えた。鈍い音とともに甚兵衛が砂煙の中に倒れ伏す。
その光景を目の当たりにした瞬間、アルスの内に流れる古代巨人族の血が、轟音を立てて沸騰した。
頭蓋の奥で、母から受け継いだ祈りの首飾りが熱を帯び、父から授かった武人の本能が肉体を突き動かす。
(理不尽を許すな、力なき者の涙を踏み躙る者を許すな)
アルスは一歩を踏み出した。
どしり、と大地が鳴った。ただの一歩でありながら、その足音はまるで巨岩が山から転がり落ちたかのような重厚な響きを伴っていた。
銀華は静かに佇み、止めようとはしなかった。その双眸には、若き鬼が初めて己の力を人の世の悪徳へぶつけようとする姿が、はっきりと映し出されていた。
二メートルを超える巨躯が、陽光を遮るように雑兵たちの前に立ちはだかる。山のような影に覆われた雑兵は、思わず幼子から手を離し、仰天して後退った。
『な、なんだこの大男は。どこから湧いて出た』
雑兵たちの間に動揺が走る。アルスは背中の大太刀には手を触れず、ただ両腕を自然に垂らし、燃えるような眼光で猪熊を射抜いた。
『人の皮を被った獣ども。今すぐその薄汚れた手を引き、この村から立ち去れ』
アルスの声は、低く地を這う雷鳴のように響き渡り、武者たちの馬が一斉に狂乱していななき、前足を上げて暴れ始めた。動物の本能が、目の前にいる存在がただの人間ではないことを察知していた。
猪熊は馬を懸命に抑え込みながら、顔を怒怒らせて怒鳴り散らした。
『田舎の山猿が生意気な口を利くな。国司様の徴税を妨げる者は、誰であろうと極刑ぞ。死ね』
猪熊は馬を蹴立て、手にした長槍を渾身の力で突き出した。鋭利な鉄の穂先が、風を切り裂いてアルスの喉元を正確に狙って飛来する。
常人であれば反応すらできずに貫かれるであろう必殺の一突きであった。
しかし、アルスにとっては止まっているに等しかった。
アルスは避けることすらしなかった。太い右腕が電光石火の速さで繰り出され、突き出された長槍の穂先の直下を、素手で真っ向から鷲掴みにした。
凄まじい衝撃音が響き、周囲の砂埃が一気に吹き飛んだ。
槍の突進力は、アルスの鋼のような肉体に触れた瞬間、完全に静止した。アルスの身体は微動だにせず、大地に深く根を張った大樹のように揺るぎない。
『な、素手で受け止めただと』
猪熊の目が驚愕に見開かれた。力任せに槍を引き抜こうとするが、万力で締め上げられたかのようにびくともしない。
『人の痛みが分からぬ者に、武器を持つ資格などない』
アルスは低く吐き捨てると、槍を握った右手に一気に力を込めた。
古代の巨人の剛力が発動し、鉄の穂先と樫の柄が軋みを上げた次の瞬間、ばきりという凄まじい破壊音とともに、長槍の柄は粉々に圧し折られ、木片が四方へ弾け飛んだ。
折れた槍の破片を地面に投げ捨て、アルスはさらに一歩、猪熊の馬へと間合いを詰めた。その眼差しは、火の国の灼熱の炎を宿して赤く輝いていた。




