第三章 アルスと銀華の世直し冒険譚 旅立ちの山河、阿蘇の風
益城の深い緑を抜けた尾根道で立ち止まり、アルスは背後を振り返った。
幾重にも重なる杉や楠の樹冠が、朝霧を纏って青く煙っている。あの森の奥深くには、昨日まで暮らしていた我が家がある。たくましい腕で鍛錬をつけてくれた父アルダシール、いつでも穏やかな微笑みで包み込んでくれた母メイファ、そして森の守護神となると誓い合った弟バルスの顔が、胸の奥に鮮やかに浮かんでは消えた。アナやカルス、まだ母の腕の中にいる幼子の泣き声さえ、遠い山彦のように耳の底に残っている。
(もう、甘えることはできない)
アルスは胸元に手をやり、着物の下に潜らせた革紐の感触を確かめた。母メイファから手渡された、古代の祈りが込められた小さな石の首飾りである。指先に伝わる鉱石の冷たさは、どこか母の温もりを宿しているかのように優しかった。そして背中には、父から託されたあの長大な鉄の大太刀がある。ずっしりとした重みが背骨を押し、自らが背負うべき運命の重さを一歩ごとに教えていた。
『名残惜しいかい、アルス』
前を歩いていた銀華が、ふわりと足を止めて振り返った。陽光を浴びて透き通るような白い衣を揺らし、その絶世の美貌に穏やかな微笑を浮かべている。風になびく黒髪の奥で、人ならざる妖狐の気品と、幾千の年月を生きてきた深遠な光が静かに揺れていた。
『名残惜しくないと言えば嘘になります、銀華姉ちゃん。だけど、寂しさよりも、胸の奥が熱くなるような不思議な感覚がある。父上が歩んできた道、母上が祈りを捧げてきた場所、そして俺が解き明かさなければならないことが、この山の向こうに広がっているんだと思うと』
アルスが拳を握りしめると、銀華は満足そうに目を細めて頷いた。
『あんたは赤ん坊の頃からそうだったよ。森の木々が嵐に揺れると、他の子供なら怯えて泣くところを、大きな目を見開いて風の音をじっと聴いていた。アルダシールの強靭な魂と、メイファの清らかな祈りを、どちらも余すところなく受け継いでいるのさ』
銀華は軽やかに岩場を飛び越え、東の空を指差した。
二人の視線の先には、見渡す限りの大自然が広がっていた。緑深き森を抜けると、草千里を思わせる広大な草原が波打ち、その遥か彼方には、天を衝く阿蘇の山々が雄大な稜線を描いている。噴火口から立ち上る白い煙が、どこまでも青い天空へと真っ直ぐに吸い込まれていた。
『私たちはまず、この火の国の山裾を東へ越えて日向を目指す。そこから船を求め、瀬戸内の海路を通って出雲の地へ向かうのだよ。出雲には、かつて大陸から渡ってきた古代の巨人族が残した神代文字の封印と、邪悪な術によって囚われたままのアリアの魂が待っている』
銀華の声音が、アリアの名を口にしたときだけわずかに低く、哀切な響きを帯びた。
『アリアさんの魂を、必ず安らかな地へ還します。父上が果たせなかった約束を、俺が果たす』
アルスが力強く応えると、銀華は優しく微笑み、アルスの肩にそっと手を置いた。
『頼もしいよ。だけどね、アルス。これから進む人の世は、益城の森のように澄んだ場所ばかりじゃない。人は己の欲のために同胞を裏切り、力なき者を虐げ、大地を汚す。森のあやかしたちよりも、はるかに複雑で醜い業を抱えて生きている。その醜さに心を曇らせてはならないし、かといって全てを力でねじ伏せてもいけない。あんたが持つ巨人の力と神代文字の叡智は、人の世の闇を照らす灯火でなければならないんだよ』
銀華の言葉を、アルスは一つ一つ噛みしめるように深く胸に刻んだ。父もまた、かつて長安の都で渦巻く人の欲望と、それに付け込む影喰の恐ろしさを語っていた。力を誇示するのではなく、守るべきもののために振るうこと。それが父の教えであった。
二人は阿蘇の外輪山に沿って歩みを進めた。風は次第に冷たさを増し、草の葉が擦れ合う乾いた音が耳をくすぐる。二メートルを超えるアルスの巨躯は、険しい岩肌や急な傾斜をも苦にせず、力強く大地を踏み砕くように進んでいく。時折、空を舞う一羽の鷹がアルスの頭上を旋回し、森の守り手たちが遠くから見送っているかのような気配を漂わせていた。
日が傾き、西の空が燃えるような茜色に染まる頃、二人は阿蘇の噴煙を間近に望む小高い岩棚に辿り着いた。
『今夜はここで夜を明かそう。見晴らしもいいし、風も防げる』
アルスは背負い袋を下ろし、枯れ枝を手早く集めて火を起こした。火打ち石を打ち合わせると、小さな火花が乾いた苔に移り、やがてパチパチと心地よい音を立てて橙色の炎が立ち上がった。森で鍛えられた野営の技は、十六歳とは思えぬほど手慣れていた。
竹筒から清水を注ぎ、干し肉と道中で摘んだ野草を素焼きの小鍋で煮込む。立ち上る湯気の中に肉の脂と野草の苦い香りが広がり、冷えた山風の中で心地よい温もりをもたらした。
『はい、銀華姉ちゃん。まずは温まってください』
差し出された木椀を受け取り、銀華はふうふうと息を吹きかけて汁を啜った。
『うん、美味いよ。アルダシールが作った野営の飯とそっくりな味がする。あの男も、不器用な手つきでこうして美味いものを作ってくれたものさ』
銀華は遠い昔を懐かしむように目を細めた。長安から逃れ、苦難の旅を経て日本へ辿り着くまでの記憶。そこにはいつも、過酷な運命に抗い続けたアルダシールの姿があった。
『銀華姉ちゃん、父上と母上が出会った大陸は、どんな場所なのですか』
アルスが焚き火を見つめながら尋ねた。炎の光が、若き鬼の引き締まった横顔を照らしている。
『広大で、美しく、そして底知れぬ闇を抱えた大地だよ。山東の蓬莱、霊峰泰山、そして黄河の流れ。神代の遺産が今も眠る一方で、安禄山の乱のように人の怨嗟が渦巻いている。そしてその闇の底には、アリアを奪い、今も大陸を蝕み続ける影喰が潜んでいる。あんたがいずれ対峙する相手は、この世のあらゆる絶望を糧にする怪物だよ』
『恐れはありません。この身体に流れる血が、ただ静かにその時を待っているような気がするのです』
アルスは自らの大きな掌を見つめた。皮膚の奥に脈打つ古代の血が、焚き火の熱に呼応するように微かに熱を帯びている。
夜の帳が完全に下りると、天空には息を呑むほどの満天の星が広がった。阿蘇の火口から上がる煙が、夜空の星々を時折覆い隠しては流れていく。
銀華が静かに立ち上がり、白い衣の袖を払った。その背後から、淡く光る九本の狐尾が幻影のように現れ、二人の周囲を包み込むように柔らかな光の結界を形作った。夜の冷気と野生の獣を遮る、優しくも強大な守りの術であった。
アルスは岩棚の端に立ち、遠く山裾の暗闇を見下ろした。遥か遠く、点々と灯る人の里の明かりが見える。その灯火を見つめていると、夜風に乗って、かすかな人々の話し声や生活の匂い、そしてどこか張り詰めた、仄暗い気配が混じり合って届いてくるようであった。
(明日からは、人の世の中へ入っていく)
アルスは大太刀の柄を一度強く握りしめ、それから静かに焚き火の傍らへ腰を下ろした。火の国の夜気は冷たく澄み渡り、若き鬼の胸には、明日への静かな覚悟が満ちていた。




