第二章 完 旅立ちの門出と白き九尾
十六歳を迎えたアルスは、土間に腰を下ろし、草鞋の紐を締め上げていた。立ち上がると、土間の梁に届かんばかりの二メートルを超える巨躯が、薄暗い室内に大きな影を落とす。肩幅は岩のように広く、粗末な麻の着物の上からでも、鋼のように引き締まった筋肉の隆起がうかがえた。腰には、父アルダシールから受け継いだ大太刀が佩かれている。革巻きの柄は長年の鍛錬によって手の脂が染み込み、独特の光沢を放っていた。
土間の奥の板間から、静かな足音が近づいてきた。
母のメイファである。彼女の手には、竹の皮で丁寧に包まれた握り飯があった。
『アルス、これを持っていきなさい。塩を強めにしておいたから、二日は持つはずです』
メイファの声は澄んでおり、慈愛に満ちていた。その碧がかった深い瞳には、旅立つ我が子への憂いと、それを押し包む母としての覚悟が宿っている。
アルスは膝を折り、母の目線に合わせて両手で包みを受け取った。竹皮越しに伝わる温もりが、冷えた手のひらにじんわりと染み渡る。
『母さん、ありがとうございます。大切にいただきます』
『外の世界は、この森のように優しくはありません。人の欲と欺瞞が渦巻き、理不尽に命を落とす者も数知れません。けれど、あなたの中に宿る光を決して手放してはなりませんよ。困っている者がいればその巨躯で風を遮り、弱き者がいればその大きな手で抱きしめておやりなさい』
『はい。父さんと母さんが教えてくれた生き方を、決して違えません』
アルスが力強く頷くと、メイファの口元に柔らかな笑みが浮かんだ。
その背後から、小さな足音が幾つも重なって響いてきた。
六歳になる妹のアナが、小さな両手に木彫りの細工を握りしめ、転げるように駆け寄ってきた。
『お兄ちゃん、これ。アナが彫ったの。山で拾った朴の木で、お山の神様を作ったの』
差し出された手のひらには、いびつながらも丁寧に刃物を入れられた小さな神像があった。幼い指には、木を削ったときの小さな切り傷が幾つか残っている。
アルスは大きな手でその小さな宝物を受け取り、懐の奥深くへと収めた。
『ありがとう、アナ。どこへ行くときも、肌身離さず持っているよ』
アナの大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。兄の太い腕にしがみつき、着物の裾に顔を埋める。
『行っちゃうの。ずっと帰ってこないの』
『帰ってくるさ。外の悪いものを全部片付けて、もっと強くなって、この森に戻ってくる』
アルスは幼い妹の頭を優しく撫でた。傍らには、まだ三歳の弟カルスが、母の着物に縋り付きながら不思議そうに大きな兄を見上げている。メイファの腕の中には、生まれたばかりの赤子が静かな寝息を立てていた。
そして、土間の入り口に、一人の少年が仁王立ちになっていた。
八歳になる次男のバルスである。
年の割に骨太で、すでに並の大人を投げ飛ばすほどの怪力を秘めた少年は、唇を真一文字に結び、兄の前に立ちはだかるように拳を握りしめていた。
『兄ちゃん』
バルスの声は低く、震えていた。泣くまいと必死に堪えているのが、その強張った肩から痛いほど伝わってくる。
『兄ちゃんが外へ行って、困っている奴らを助けるんだろ。だったら、この家と母さん、アナやカルス、そしてこの森のことは、全部俺に任せろ』
小さな胸をドンと叩き、バルスは兄の顔を真っ直ぐに見据えた。
『俺が命懸けで守る。誰一匹、この森の結界を破らせやしない。だから兄ちゃんは、後ろを振り向かずに前だけ見て戦ってこい』
アルスは息を呑み、そして深く相好を崩した。
片膝をつき、弟の小さな拳に向けて、己の巨大な拳を突き出した。二つの拳が、ごつりと鈍い音を立てて合わさる。
『頼んだぞ、バルス。お前はこの家の、そしてこの森の守護神だ』
『ああ。男の約束だ』
バルスはそう言うと、ぐっと奥歯を噛み締め、涙を袖で乱暴に拭った。
家族に見守られながら、アルスは草庵を出た。
朝霧の立ち込める庭の先、幣立の森の奥へと続く小道の入り口に、父アルダシールが立っていた。
かつてササン朝ペルシャの宮廷を守り、幾多の戦場を生き抜いてきた偉丈夫である。その深い彫りの顔立ちと鋭い眼光は、今なお衰えを知らない。傍らには、杉の枝の上から見下ろす大天狗の影と、足元の草叢で静かに身をくねらせる巨大な白蛇の気配があった。森のあやかしたちもまた、この特異な血を引く若武者の旅立ちを見届けようと集まっていた。
アルスは父の前に進み出ると、深々と頭を下げた。
『父さん、行ってきます』
アルダシールは無言のまま、息子の肩に分厚い掌を置いた。その手から伝わる熱と重みは、父が歩んできた果てしない流転の旅路そのものであった。
『アルスよ。技を誇るな。力を驕るな。お前が持つその巨躯と剣は、すべて他者を生かすために天から授けられたものだ。己の血の宿命に怯むことなく、信じる道を切り拓け』
『胸に刻みます』
『行け。わが息子よ』
アルダシールが手を離すと同時に、大天狗の羽団扇が一陣の清冽な突風を巻き起こした。木々がざわめき、濃密な朝霧が一気に吹き払われて、森の境界を示す結界の巨石へと続く道が陽光の中にくっきりと浮かび上がった。
アルスは一度だけ振り返り、家族と森に深く一礼した。
そして踵を返し、大股で歩き始めた。一歩踏み出すごとに、大地の感触が草鞋を通じて足裏に力強く伝わってくる。結界の注連縄が張られた巨石を越えた瞬間、七歳でこの地に辿り着いてから九年間自身を包み込んでいた聖域の温かな霊気が背後に引いてゆき、肌を刺すような外の世の冷たい風が吹き抜けた。
(ここからが、俺の戦いだ)
峠へと続く山道を登りきり、視界が開けた尾根に出たときのことである。
前方の岩の上に、一匹の狐が座していた。
その毛並みは雪のように白く、朝日に照らされて銀色の燐光を放っている。そしてその背後には、ゆらゆらと揺らめく九本の美しい尾が広がっていた。
狐はアルスをじっと見つめると、ふわりと光の粒子となって立ち上った。
光が収まったあと、そこには純白の狩衣を身に纏い、腰に長剣を佩いた絶世の美女が立っていた。艶やかな黒髪を風になびかせ、切れ長の瞳を細めて悪戯っぽく微笑んでいる。
銀華であった。かつてアルダシールの最初の妻アリアの魂を守り、幼いアルスをその背に乗せて可愛がり続けてきた九尾の妖狐である。
『ようやく来たかい、坊や』
銀華の声は、澄んだ鈴の音のように尾根に響いた。
『待たせたね、銀華姉ちゃん』
アルスが足を緩めて破顔すると、銀華は軽やかな足取りで近づき、二メートルを超える巨躯を嬉しそうに見上げた。その細い指先で、アルスのたくましい腕をつんと突く。
『雲南で産声を上げた赤ん坊が、この森で九年揉まれて、まあ見違えるほど立派な器になったものだね。その体つき、その気迫、まさに太古の巨人族そのものだよ。アルダシールの頑固さと、メイファの清らかさを綺麗に受け継いでいる』
『姉ちゃんにそう言ってもらえると心強いよ。だけど、俺はまだ外の世を何も知らないんだ』
『それでいいのさ。これから一緒に知っていけばいい。世の中にはね、理不尽に虐げられ、泣き叫ぶことすら許されない民が溢れている。ヤマトの官人どもは肥え太り、古き神を祀る民を容赦なく踏み躙っているのさ』
銀華の瞳の奥に、かつて大陸でアリアを奪われたときの痛切な怒りと、それを晴らさんとする強い光が揺らめいた。
『さあ、行こうか、アルス。ここからは私が、お前の目となり耳となってやる。日の本の歪みを正し、出雲へアリアの魂を還し、そして海を渡って、あの忌まわしき影喰の息の根を止めにいくよ』
『うん。頼りにしてるよ、銀華姉ちゃん』
アルスが太刀の柄に手を添えて笑顔で頷くと、銀華は満足そうに微笑み、くるりと身を翻して軽やかに先を歩き始めた。
赤鬼の如き巨躯の若武者と、白き九尾の妖狐。
朝日に照らされた二人の影が、西の空へ向かって長く伸びてゆく。
家族の祈りと太古の血脈を背負い、巨人の遺伝子を持つ少年の、壮大な世直しと因縁清算の大陸親征の旅が、今ここに幕を開けた。
第二章 完




