夜明けの白刃と鉄の匂い
夜明け前の冷気が、草木に溜まった重い朝露を震わせていた。
益城の庭に立ち込める薄青い靄の奥で、二つの影が十歩の間合いを取って対峙している。
土の湿った匂いと、冷え切った大気の中に、かすかな鉄の匂いが混じり始めた。
チャリ、と硬質な鞘走りの音が響く。
アルダシールが腰の太刀を静かに抜いた。刃渡り三尺に迫る抜き身の鋼が、黎明のわずかな明かりを吸って鈍く青白い光を放つ。その立ち姿からは、子を慈しむ父親のぬくもりが完全に削ぎ落とされていた。
幾多の戦場を血と泥に塗れて生き抜いてきた男の、鋭い眼光が息子を射抜く。
対するアルスもまた、背の長剣に手をかけた。
柄を握る太い指に力が込められ、ゆっくりと刃が引き抜かれる。
十六歳にして二メートルを超える巨躯をわずかに沈め、切っ先を父の喉元へと一直線に据えた。
縁側には、生まれたばかりの五番目の赤ん坊を抱いたメイファが立っていた。その隣で、八歳になったバルスが縁側の角柱を軋むほど強く握りしめ、六歳のアナは三歳のカルスの肩を抱きながら息を呑んでいた。
誰も声を出さない。口を開けば、張り詰めた空気が爆発してしまいそうなほどの緊張が庭を満たしていた。
『命を惜しむな。立ち止まった瞬間に、お前の首は飛ぶぞ』
アルダシールの低い声が落ちた瞬間、爆ぜるような踏み込みの音が鳴った。
一瞬だった。
アルダシールの姿が靄を裂いてかき消え、次の刹那にはアルスの眼前に切っ先が迫っていた。
狙いは喉仏。迷いも躊躇もない、必殺の突きだった。
キィン、と耳朶を劈く金属音が炸裂し、火花が朝露の草むらに散った。
アルスは首を半寸傾けると同時に、太刀の腹で父の切っ先を僅かに弾いていた。
だが、アルダシールの連撃は止まらない。
弾かれた勢いをそのまま回転の力に変え、下段からアルスの脇腹を両断せんと薙ぎ払う。
ガガガッ、と互いの刃が削れ合い、凄まじい衝撃が両者の腕の骨を揺らした。
足元の泥土が深く抉れ、濡れた土塊が四方へ飛び散る。
『甘いぞ、アルス! 剣に迷いがある!』
アルダシールが怒号を放ちながら、柄頭をアルスの顎下へ突き上げた。
実戦の泥臭い打撃。刃だけでなく、拳も肘も足技もすべてを使って相手の息の根を止める、戦場の殺法だった。
アルスは巨体を滑らかに反らし、柄頭の直撃をかわすと同時に、右足の裏で父の脛を払いにいく。
アルダシールはそれを跳躍していなし、空中で太刀を振り下ろした。
大地が裂けるかのような剛撃がアルスの頭上へ降り注ぐ。
アルスは両手で太刀を斜めに支え、頭上で受け止めた。
ズシン、と重い衝撃が膝に伝わり、アルスの足元の地面が数寸沈み込んだ。
二人の呼吸が荒く重なり合い、吐き出された白い息が靄の中に溶けていく。
アルダシールの刃から伝わってくるのは、圧倒的な質量と、一片の情けも容赦もない冷徹な力だった。
(強い。これが、何百もの死線をくぐり抜けてきた戦士の刃か)
アルスの腕の筋肉が軋み、額から冷たい汗が流れ落ちて目に入った。
視界が滲む。だが、アルスの琥珀色の瞳は決して曇らなかった。
恐怖はなかった。
目の前の父を倒すための憎しみも、己の力を誇る驕りも、アルスの心には欠片も存在しなかった。
あるのはただ一つ、この過酷な刃を受け止め、制し、誰も傷つけずに収めるという純粋な意志だった。
『お前は何のために剣を振るう! 目の前の敵を殺せねば、お前が死ぬのだぞ!』
アルダシールがさらに体重を乗せ、アルスの刃を押し潰そうと力を込める。
アルスは歯を食いしばり、低く太い声で吠えた。
『僕は、誰も殺さない! 奪うための刃ではなく、守るための刃で、すべての理不尽を断ち切る!』
アルスの腕の太い血管が浮き上がり、二メートルを超える巨躯の全身から、凄まじい熱量が噴き上がった。
アルスは受けていた刃の角度をわずかに傾けた。
鋼と鋼が滑り、アルダシールの太刀が空を切るように横へ滑り落ちる。
その瞬間、アルスは一歩前へ踏み込んだ。
懐へ飛び込み、左の手のひらで父の右前腕を外側から巻き込むように押さえつける。
同時に、自らの太刀の鍔を父の柄に絡め、梃子の原理で一気にねじり上げた。
カァン、と高い音が響き渡り、アルダシールの手から離れた太刀が朝空高く舞い上がった。
弧を描いた白刃が、庭の隅にある古木の切り株へ深々と突き刺さる。
勝負は決した。
アルスの刃の切っ先は、アルダシールの首筋からわずか数分の位置で、ぴたりと静止していた。
一切のブレもなく、風すら切り裂く静寂の中で、若武者の刃が父の喉元を制していた。
アルスは肩で荒い息をつきながら、切っ先を静かに下げた。
そして深々と腰を折り、太刀を両手で捧げるように構え直した。
『ありがとうございました、パパ』
庭を支配していた濃い霧が、昇り始めた朝日の光によってゆっくりと黄金色に染まっていく。
アルダシールは痺れた右手を何度か握り開き、切り株に刺さった自らの太刀を見つめた後、ゆっくりと息を吐き出した。
その顔から戦士の険しさが消え、深い情愛と誇らしさに満ちた笑みがこぼれた。
『見事だ、アルス』
アルダシールは歩み寄り、巨木のように逞しくなった息子の広い肩に、両手を力強く置いた。
『技に溺れず、力に酔わず、ただ守るためだけに研ぎ澄まされた刃。お前はすでに、私を越えている』
縁側から、張り詰めた空気を破るように小さな足音が響いた。
『お兄ちゃん!』
アナが駆け寄り、アルスの腰に抱きついた。バルスも駆け出し、アルスの逞しい腕を両手で掴んで誇らしそうに笑った。
『すごいや、お兄ちゃん! パパの太刀を弾き飛ばすなんて!』
メイファも赤ん坊を抱いたまま歩み寄り、静かに涙を浮かべながらアルスの顔を見つめていた。
『アルス、本当によく頑張りましたね』
『ママ、心配かけてごめんね』
アルスは妹と弟の頭を優しく撫で、母に穏やかな笑みを向けた。
アルダシールは切り株へ歩み寄り、突き刺さっていた太刀を静かに引き抜いた。
そして、自らの腰から外した黒漆塗りの頑丈な鞘とともに、両手でアルスの前に差し出した。
『この太刀を持っていけ』
『パパの大切な刀を、僕が受け取るわけにはいきません』
アルスが戸惑って辞退しようとすると、アルダシールは首を横に振った。
『これはかつて私が西の地から携え、幾重の修羅場を共にしてきた命の器だ。いまのお前になら、この刃も正しき主として応えてくれるだろう。外の世界へ行き、苦しむ者たちの盾となれ。そして、必ず生きてこの益城へ戻ってこい』
アルスは居住まいを正し、父から太刀を押し戴くようにして受け取った。
ずしりと掌に伝わる重みは、父が生きてきた歴史そのものであり、託された未来の重みだった。
(この太刀に誓う。僕は決して己の心を曲げず、弱き者を守り抜く)
屋根の上から、静かに見守っていた天狗が羽団扇をひと振りし、白蛇が草むらを撫でるように滑り抜けて祝福の気を放った。
昇り切った朝日の眩しい光が、益城の山々を黄金に染め上げていく。
十六歳の若き英雄の旅立ちが、いま、確固たる誓いとともに刻まれたのだった。




