温かい粥と十六歳の決意
『熱くないかい、ゆっくり息を吹きかけてから食べるんだよ』
十六歳になったアルスは、土間の上がり框に腰掛け、抱きかかえた幼子の口元へ木匙をそっと運んだ。
匙の上には、細かく刻んだ山菜と粟が優しく煮込まれた温かい粥が湯気を立てている。
幼子は怯えたように大きな瞳を瞬かせながらも、差し出された粥の香りに小さく喉を鳴らし、恐る恐る口を開いて一口呑み込んだ。その瞬間、強張っていた小さな顔がほころび、夢中になって匙を口に含んだ。
その隣では、六歳になった長女のアナが、清潔な白布を濡らして母親のすりむいた足首を丁寧に拭っていた。
『痛いところ、飛んでいけ。もう鬼さんも怖い兵隊さんも来ないから、安心してくださいね』
アナの透き通るような幼い声に、傷だらけの母親は溢れ出る涙を止めることができず、震える手で顔を覆った。
『ありがとうございます、本当にありがとうございます。山で鬼に喰われるのだとばかり思っておりましたのに、これほど温かく迎えていただけるなんて』
居間の奥から、八歳のバルスが重い木樽を両手で軽々と抱えて現れ、ドスンと床に置いた。
『喉が渇いたなら、この湧き水も飲んでいいよ。僕が裏の泉から汲んできたばかりだから、すごく冷たくて美味しいんだ』
三歳になった三男のカルスも、バルスの後ろからひょっこりと顔を出し、母親の足元へそっと野花を差し出した。
『お花、あげる』
メイファはカルスの頭を優しく撫で、乳児の五番目の子をあやしながら、母親の肩に柔らかな羽織を掛けた。
『ええ、ここは安全な場所です。外の恐ろしいことは一度すべて忘れて、まずはお腹を満たして身体を休めてくださいね』
一家総出の温かいもてなしに、逃げてきた母子は幾度も畳に額を擦り付け、生き延びた実感を噛み締めるように嗚咽を漏らした。
粥を食べ終え、幼子がアルスの胸の中で安らかに寝息を立て始めた頃、母親は重い口を開いた。
その瞳には、今なお焼き付いて離れない炎と絶望の色が濃く残っていた。
『私たちの集落は、東の谷間にありました。先祖代々、大地の恵みと山の神を静かに祀って暮らしていただけの貧しい村でした。それなのに、ヤマトの軍勢が突然押し寄せてきたのです』
アルスは幼子をそっと寝床へ運んだ後、母親の正面に座り直し、静かに耳を傾けた。
『逆らう者は容赦なく切り捨てられ、従う者には過酷な税と労役が課されました。古き神を捨てるよう迫られ、拒んだ長老たちは見せしめのために広場で処刑されたのです。村は焼き払われ、逃げ惑う民は狩りのように追い立てられました。私の夫も、私たちを逃がすために盾となって切り伏せられ、もう』
母親の絞り出すような告白に、土間の一角で腕を組んでいたアルダシールの眉が鋭く寄った。
アルスは膝の上で両拳を硬く握り締めた。爪が手のひらに深く食い込み、微かに震える。
(力なき人々が、ただ平穏に生きたいと願うだけの民が、どうしてそんな理不尽に焼き尽くされなければならないんだ)
アルスの胸の奥底で、煮えたぎるような熱い怒りと、耐え難い悲しみが渦を巻いた。
自分がこの美しい聖域で家族と共に笑い合っている間にも、外の世界のあちこちで、同じような惨劇が幾度となく繰り返されているのだ。
外の世界へ出て、この暴虐を止めたい。弱き者を救うために、この命と力を捧げたい。
その意志はもはや、誰にも止められない強固な柱となって、十六歳の若武者の芯を貫いていた。
夜が深く静まり返り、傷ついた母子も幼い弟妹たちも寝静まった頃、庭先に涼やかな夜風が吹き抜けた。
縁側には、満月を背にして静かに佇むアルダシールの姿があった。
背後から、板張りを軋ませることもなく、静寂をまとった足音が近づいてくる。
『パパ』
アルダシールは振り返らず、夜の闇に沈む深い森の稜線を見つめたまま応じた。
『アルスか。あの母子はよく眠っているか』
『うん。アナとママが添い寝をして、呼吸も落ち着いたよ』
アルスは父の隣まで歩みを進め、背筋を真っ直ぐに伸ばして立った。十六歳にして父の背丈を優に超え、二メートルを超えるその巨躯は、満月の青白い光を浴びて神々しいまでの威容を放っている。
『パパ、僕に話があるんだ』
『言ってみなさい』
アルダシールの声は低く、どこまでも静かだった。
アルスは迷いのない琥珀色の瞳で父の横顔を真正面から見つめ、胸の奥底から言葉を紡ぎ出した。
『僕は、外の世界へ行きたい。この益城の森を出て、ヤマトの理不尽な力に怯えている人々を、古き神々を、虐げられているすべての民を救いたいんだ』
夜風がふたりの間を吹き抜け、庭の笹の葉をサワサワと揺らした。
アルダシールはゆっくりと息を吐き出し、ようやく息子の方へと視線を向けた。その眼光は、昼間の優しい父親のものから、百戦錬磨の武芸者のそれへと完全に切り替わっていた。
『外の世界へ出て、ヤマトの巨大な軍勢と対峙する。それがどれほど過酷な道か、分かって言っているのか』
『分かっているつもりです』
『いや、まだ本当の泥を知らぬ』
アルダシールの言葉は冷徹なまでに重く、夜の空気を切り裂いた。
『外の世界は、お前が思うほど美しくも正しくもない。悪を挫けば、その裏で新たな憎しみが生まれる。人を助けようとして裏切られ、毒を盛られ、背後から刺されることすらある。信じた正義の重さに押し潰され、心を鬼に染めてしまう者も大勢見てきた』
アルダシールは一歩前へ踏み出し、アルスの胸元を真っ直ぐに見据えた。
『ただ腕っ節が強いだけの若造など、外の修羅場では数日と持たぬ。お前が背負おうとしているのは、この国の数千、数万の民の命と怨嗟だ。己の命を捨てる覚悟ではなく、どれほど泥に塗れても人を信じ抜き、守り抜く覚悟が、本当にお前にあるのか』
父の放つ圧倒的な威圧感が、肌をチリチリと焼くように迫ってきた。
だが、アルスの瞳は微動だにしなかった。怯むことも、目を逸らすこともなく、力強く両足で大地を踏みしめた。
『僕のこの体も、この力も、パパとママから授かった大切な命です。そして、あやかしたちやこの森の神々から教わった優しさがある。たとえどんな泥を被ろうと、どんな裏切りに遭おうと、僕は絶対に絶望しません。力なき人が泣いているなら、僕がその涙を拭う盾になります』
アルスの声には、一点の曇りもなかった。
アルダシールはその瞳の奥に燃える炎をじっと見つめ、やがてふっと、口元にわずかな笑みを浮かべた。
(この眼差しだ。誰かのために命を燃やすことを恐れぬ、真っ直ぐで汚れなき魂。もはや引き留める言葉など、何一つあるまい)
アルダシールは腕を解き、静かに告げた。
『ならば明日、夜明けとともに庭へ出ろ。木剣ではなく、真剣を持て』
『真剣を』
アルスが目を見張ると、アルダシールは厳かに頷いた。
『私のすべてを賭けて、お前を試す。お前が背負おうとする覚悟が本物であるか、私の刃でお前の命の重さを確かめさせてもらう。私を打ち破ることができねば、森の外へ一歩たりとも出すわけにはいかん』
『はい、パパ。全力で向き合います』
父と息子の間に、確固たる誓いが結ばれた。
頭上の大杉の天辺では、気配を消した銀華が、九つの白い尾を夜露に濡らしながらふたりの姿を見下ろしていた。
(いよいよだね、アルス。お前が大地を蹴り、大空へと翼を広げる刻が来たんだ)
銀華の黄金色の瞳に、決意の光が宿る。
明日の夜明け、ひとつの時代を越える父と子の真剣勝負が始まろうとしていた。




