引き裂かれた静寂と鬼の目覚め
ガキィン、と硬質な樫の木剣が激突し、乾いた衝撃音が庭の空気を切り裂いた。
『いい踏み込みだ、バルス。だが重心がまだ右に流れているぞ』
十六歳を迎えたアルスは、見上げるような二メートルを超える巨躯を軽やかに沈め、下段から跳ね上がってきた弟の一撃を木剣の鍔元で正確に受け止めた。
対するバルスは八歳にして、並の大人の背丈に迫るほど頑強な体躯へと急成長していた。丸太のように太い腕で握られた木剣から、大岩を叩き割るような凄まじい膂力が放たれる。
『まだまだ! ぼくの力、全部受け止めてみてよ、お兄ちゃん!』
バルスが吠え、大地を蹴り崩すようにしてさらに踏み込んだ。二撃、三撃と繰り出される豪腕の連撃は、空気を唸らせて突風を巻き起こす。
だが、アルスは微動だにしなかった。山のように堂々たる体躯でありながら、身のこなしは風の柳のようにしなやかだった。バルスの猛烈な剛撃をわずかな刃の傾きでいなし、受け流し、相手の体勢を崩していく。
庭の隅で腕を組み、二人の立ち合いを見守っていたアルダシールが、低く通る声で指示を飛ばした。
『バルス、力でねじ伏せようとするな。アルスの太刀筋を見ろ。力は刃に乗せるものであり、力に振り回されては当たらぬぞ』
『はい、パパ!』
バルスは息を荒げながらも、素直に構えを中段へと戻した。
アルスは木剣を脇に引き、温かい笑みを浮かべて弟に語りかけた。
『八歳でここまでの剛力を操れるのは大したものだよ。でもね、本当に強い刃は、相手を傷つけるためではなく、守るべき者のために静かに研ぎ澄ますものなんだ』
(バルスの力は本物だ。この益城の地と家族を守る、誰よりも硬い盾になれる)
アルスが弟の成長に頼もしさを感じたその瞬間だった。
突如として、森の南東の空から重苦しい黒煙がもうもうと立ち上った。
同時に、引き裂くような悲鳴と怒号が、遠く森の木々を揺らして響き渡ってきた。
木剣を下ろしたアルスとバルスが、ほぼ同時に顔を上げる。アルダシールの鋭い眼光が瞬時に南東の森の境界へと向けられた。
バサリと大きな羽音が鳴り響き、赤顔の天狗が頭上の大杉から庭先へ滑り込むように舞い降りてきた。その顔には、いつにない焦燥の色が張り付いていた。
『アルダシール、アルス! 一大事じゃ! 外の集落がヤマトの追撃隊に襲われ、火を放たれた! 生き残った母子が、この聖域の境目へ逃げ込んできておる!』
『ヤマトの兵が、ここまで追ってきたというのか』
アルダシールが身構えた瞬間、アルスはすでに地面を蹴っていた。
『パパ、僕が行く! バルスはママとアナ、カルスたちを家の奥へ!』
『お兄ちゃん! ぼくも行く!』
『駄目だ、バルス! 家を守る役目もお前しかできない大切な仕事だ!』
アルスの厳しくも確かな声に、バルスは唇を噛み締めて力強く頷いた。
『わかった! 家はぼくが絶対に守る!』
アルスは手にした木剣一本を握り締め、疾風のごとき速さで深い森の中へと躍り込んだ。
二メートルを超える巨体でありながら、木の根を踏む足音は羽毛のように静かで、枝葉をかすめることすらなく木々の間をすり抜けていく。
森の境界線が近づくにつれ、立ち込める煙の臭いと、荒々しい足音がはっきりと耳に届いた。
『待てぇ! 逃げられると思うたか、まつろわぬ神を拝む反逆者どもめ!』
『お慈悲を、この子だけでもお助けください!』
草むらをかき分け、血に塗れた着物をまとった女が、胸に幼子を必死に抱き抱えながら転がり込んできた。足をもつれさせ、森の入口の巨木の根元に倒れ伏す。
その背後から、ギラギラと光る抜き身の太刀を掲げたヤマトの武装兵三名が、凶悪な笑みを浮かべて躍り出てきた。
先頭の兵が、無慈悲に刃を振り上げる。
『首を差し出せ! 逆賊の種を残すわけにはいかんのだ!』
刃が振り下ろされる。母親は我が子を庇い、硬く目を閉じた。
ドガァン!
大地を揺るがすような轟音とともに、先頭の兵の鉄の太刀が、根元から粉々に砕け散った。
『な、なんだぁ!』
兵たちが目を見開いた。目の前に立ちはだかっていたのは、陽光を背に受けてそびえ立つ、二メートルを超える巨躯の若武者だった。
アルスは手にした一本の木剣を鋭く振り抜き、鉄の刃ごと兵の構えを粉砕していた。
アルスの琥珀色の瞳には、静かで、底知れぬ怒りの炎が燃え盛っていた。
『無抵抗の母親と幼子に刃を向けるか。それがお前たちの言う、ヤマトの正義というものか』
『な、なんだこの大男は! 益城の山賊か! 構わん、斬り捨てろ!』
残る二人の兵が左右から同時に白刃を繰り出し、アルスの首と胴を狙って殺到した。
だが、アルスの動きは彼らの視界から完全に消え失せた。
一歩の踏み込みで間合いの内側へ潜り込んだアルスは、右の兵の鳩尾へ木剣の柄頭を鋭く叩き込んだ。
ゴスッという鈍い音とともに兵がくの字に折れ曲がり、息を詰まらせて泥土へ崩れ落ちる。
間髪を入れず、左の兵が振り下ろした太刀の峰を左手の平で弾き飛ばし、右腕の一閃で相手の首筋を薙ぎ払った。
兵の身体が真横に一回転して吹き飛び、立ち木に激突してそのまま意識を失った。
わずか瞬き二つの間。
凶刃を振るっていた三人の兵は、すべて地面に転がり、呻き声すら上げられずに昏倒していた。
『ひ、化け物、鬼だ、益城の鬼が出たぞ!』
太刀を砕かれて尻餅をついていた先頭の兵が、恐怖に顔を引きつらせ、腰を抜かしたまま後ずさりした。
アルスは木剣を静かに下ろし、冷徹な声で告げた。
『二度とこの森へ足を踏み入れるな。そして二度と、弱き者に刃を向けるな。立ち去れ』
兵は悲鳴を上げながら立ち上がり、転がるようにして煙の上がる方角へと逃げ去っていった。
森の中に、張り詰めた静寂が戻った。
アルスは木剣を腰に差し、その場にへたり込んで震えている母子のもとへ歩み寄った。膝をつき、目線を幼子と同じ高さに合わせる。
『もう大丈夫ですよ。怪我を見せてください』
アルスの声は、先ほどの鬼神のような気迫が嘘のように、どこまでも温かく穏やかだった。
母親は涙をボロボロとこぼしながら、何度も地面に頭を擦り付けた。
『ありがとうございます、本当にありがとうございます、山の神様、鬼様』
『神でも鬼でもありません。僕はアルス。この森に住む人間です。さあ、僕の家へ行きましょう。手当をして、温かいご飯を食べましょう』
アルスは母親の肩を優しく支え、小さな幼子を自分の逞しい腕でふわりと抱き上げた。幼子はアルスの温もりに触れ、泣き止んでその胸元に顔を埋めた。
森の奥から、事態を見届けた天狗と白蛇が静かに姿を現した。
アルスは立ち上がり、黒煙が広がる外の世界の空をじっと見つめた。
(外の世界では、毎日こんな理不尽な暴力が繰り返されているんだ。力なき人々が踏みにじられ、泣いている)
アルスの胸の奥で、激しく脈打つ鼓動があった。
自分が培ってきたこの身体、この武芸、そして父と母から受け継いだ命の使い道。
その答えが、霧が晴れるように明確な形となって心に刻まれていく。
益城の聖域を包む静寂の中で、十六歳の若き戦士は、外の世界へ飛び立つべき宿命の刻がすぐそこまで来ていることを、確信していた。




