三つの芽吹きと渡りの狐
『あな、たっち! できた!』
バルスが縁側の上で小さな両手を叩き、弾んだ声を上げた。
その視線の先では、産着を卒業した幼いアナが、縁側の柱を小さな手でしっかりと掴み、ふらつく足取りで立ち上がっていた。澄んだ瞳をキラキラと輝かせ、兄ふたりに向かって満足そうに口元をほころばせている。
十歳を過ぎてすっかり背の伸びたアルスは、アナが転んでもすぐに受け止められるよう、柱のすぐ脇で両腕を広げて構えていた。
『すごいよ、アナ。上手に立ち上がれたね。バルス、アナの手を叩いて応援してあげて』
『うん! あな、がんばれ!』
バルスは元気に叫びながら、今度は自分の小さな手をそっとアナの頭へ伸ばした。以前のように力任せに振るうのではなく、アルスに教わった通り、羽毛に触れるような優しさで指先を滑らせる。
『あぅ、ふにふに。あな、頭なでなで』
『バルス、すごく上手になったね。優しく撫でられたから、アナも嬉しそうだよ』
アルスが褒めると、バルスは誇らしげに胸を張り、ニッと歯の生えそろった口を開けて笑った。アナも兄ふたりの楽しそうな雰囲気に誘われるように、コロコロと可愛い声を上げて可憐に笑った。
土間で手料理の準備をしていたメイファが、三人の子供たちの賑やかな声を聞きつけ、柔らかい布で手を拭きながら顔を出した。
『まあまあ、アナが自分の足で立ったのですね。アルス、バルス、ふたりが根気強く付き添ってくれたおかげですね』
『ママ、アナはもうすぐ歩けるようになるよ。そしたら僕、お庭のお花畑まで手をつないで連れて行ってあげるんだ』
アルスが頼もしく微笑むと、バルスも負けじと声を張り上げた。
『ぼくも! あなを、おんぶする!』
『バルスがおんぶしたら、力持ちすぎてアナが飛んでいっちゃうかもね』
アルスが軽やかにおどけると、メイファも楽しそうに声を立てて笑った。
庭の作業場で木材を削っていたアルダシールは、かんなを置いて息子たちの微笑ましいやり取りを眺め、深く温かい息を吐き出した。
(私の愛する家族が、こうして益城の豊かな光の中で根を張り、すくすくと育っている。これ以上の幸福がこの世にあるだろうか)
父としての深い充足感が、アルダシールの胸の奥を静かに満たしていた。
その頃、屋敷の茅葺き屋根の陰、風が吹き抜ける大きな杉の枝の上に、しなやかな九つの白い尾が揺れていた。
金色の瞳を妖しく輝かせた銀華が、気配を完全に消したまま、木漏れ日の中で眠るように横たわっていた。
そこへ、赤顔の天狗が羽団扇を肩に担ぎ、音もなく舞い降りてきた。池の草むらからは、巨大な白蛇が静かに鎌首を持ち上げる。
『ほう、帰っていたのか、銀華。西の海や東の山を巡る旅から戻ったばかりであろ』
天狗が声を潜めて語りかけると、銀華は優雅に首をもちあげ、九つの尾をふわりと旋回させた。
『ええ、少しばかり外界の風を吸ってきたのさ。相変わらずヤマトの勢力はすさまじい勢いで全国へ伸びているよ。古き神々や五色人の血を引く民は、棲み処を追われ、酷い扱いを受けて涙を流している。九州の端々にまで、その陰湿な支配の影が忍び寄りつつあるねえ』
白蛇が静かに吐息を漏らし、鱗を擦り寄せる音を立てた。
『朝廷の者どもは、我が物顔で自然の理を乱す。益城の森も、いつまでも嵐の蚊帳の外ではいられぬかもしれんな』
『だがね』
銀華は視線を下へ落とし、庭先で妹を囲んで笑い転げるアルスとバルス、そして作業台で静かに木を削るアルダシールの姿を見つめた。
『この聖域だけは、あの暖かい日常だけは、絶対に汚させはしないよ』
天狗は不思議そうに赤く丸い鼻をひくつかせ、大団扇で軽く肩を叩いた。
『それほど想うているのなら、どうしてアルダシールの前に姿を見せてやらんのだ。あやつもお前が戻っていると知れば、喜んで酒でも酌み交わそうとするだろうに』
銀華は黄金色の瞳をかすかに細め、寂しげで、けれどどこか吹っ切れたような美しい笑みを浮かべた。
『いいのさ、これで。あの人はかつて、血と硝煙に塗れた苛烈な運命を散々生き抜いてきたんだ。いま、メイファや可愛い子供たちに囲まれて過ごしているこの時間は、あの人の人生にとって何物にも代えがたい奇跡のような平穏なんだよ。私が下手に姿を見せれば、過去の因果や西の荒野の影を思い出させてしまうかもしれないじゃないか』
(あの人には、ただ穏やかに、温かい家族の愛に包まれたまま、最高の晩年を全うしてほしい。私の姿を見せるのは、すべてが終わるその時だけでいいんだ)
銀華の心の中に秘められた深い誓いに、天狗も白蛇も静かに頷き、それ以上は追求しなかった。
『それよりもね』
銀華は視線を切り替え、庭で妹の手を優しく握り締めながら頼もしい眼差しを見せるアルスに焦点を合わせた。
『あの子だよ、アルスさ。あの子の中に眠る鬼の血と、天を駆ける翼の気配は、日に日に大きくなっている。いずれ十六を数える頃には、この狭い益城の森を飛び出し、外の世界へ向けて旅立つ時が来るだろうね』
『うむ、ヤマトの不正に苦しむ民を救うため、あやつは外の世界で暴れ回る宿命のもとに生まれた。鬼の伝説となって、各地の悪しき支配を打ち破るはずじゃ』
天狗が深く頷くと、銀華は力強く尾を揺らした。
『外の世界は過酷で、酷く汚れている。だけどね、あの子が旅立つその時には、私が母代わりに一番近くに寄り添ってやるのさ。あの子の翼を支える風となり、道を照らす光となって、どこまでも一緒に行ってやるつもりだよ』
(かつて結ばれなかったあの人への情愛を、私はあの子の歩む道へと注ぐ。それが私の生きる意味であり、この命の使い道さ)
銀華の胸に秘められた決意は硬く、揺るぎないものだった。外界の過酷さを知るからこそ、幼いアルスが今は幣立の温かい日常を十分に味わい、豊かな心を育むことを、誰よりも強く望んでいたのだった。
庭では、アルスが小さなアナを抱き上げ、縁側で爪先立ちをさせて遊ばせていた。
『パパ、見て! アナが僕の手に捕まって、こんなに高く立ち上がれたよ!』
『ほう、これは大したものだ。アルス、お前の支え方が優しいから、アナも安心して身を任せているのだな』
アルダシールが手を休めて歩み寄り、我が子たちの頭を大きな手で包み込むように撫でた。
『パパ、僕ね、大きくなったらもっともっと強くなって、アナもバルスもママもパパも、みんなを守れる凄い男になるからね』
アルスが澄み切った瞳でまっすぐ見つめてくると、アルダシールは頼もしさに目を細め、力強く頷いた。
『ああ、信じているよ、アルス。お前はきっと、どんな風よりも高く飛べる素晴らしい男になる』
父と息子の間で交わされた温かな言葉は、秋の澄んだ空気を震わせ、屋根の上のあやかしたちの耳にも優しく届いた。
『ふふ、あんなに青く澄んだ目をして。まったく、あの子の成長を見るのが楽しみでたまらないよ』
銀華は満足そうに呟くと、九つの尾をふわりと翻し、誰にも気づかれることなく再び風となって去っていった。
外界でどれほど激しい嵐が吹き荒れようとも、この幣立の森には変わらぬ家族の愛が満ちていた。
三人目の命という新しい芽吹きを迎え、二人の兄は少しずつ、けれど確実に、未来へ向けて力強い一歩を踏み出し始めていた。




