弁財天の風と小さなアナ
『力を入れすぎると、ほら、こんな風に端から割れてしまうんだよ』
アルスは手に持った小刀の刃先を滑らかにすべらせながら、隣で顔をしかめる弟のバルスに優しく語りかけた。
ふたりが座り込んでいるのは、陽光が穏やかに注ぎ込む日当たりの良い縁側だった。十歳を過ぎて背も伸び、手先も器用になったアルスの手元には、角を丸く丁寧に削り落とした小さな木彫りのガラガラがある。中に乾いた木の実を入れてあり、振るとコロコロと可愛らしい音が鳴る仕組みだ。
二歳を迎えたばかりのバルスは、自分の手元にある無残に割れた木切れを見つめ、太い眉を八の字に寄せた。
『あぅ、やさしく、ぎゅーしたのに。あーしゅ、き、壊れちゃった』
(僕のおてて、壊しちゃうの。あーしゅみたいに、赤ちゃんのおもちゃ作りたいのに)
バルスは心の中で悔しそうに呟きながら、自分の小さく丸い手をじっと見つめた。幼いながらも骨太で桁外れの力を秘めているバルスは、本人は至って丁寧に木を扱っているつもりなのだが、生まれ持った怪力ゆえに、硬い楢の木さえも煎餅のようにあっさりと割ってしまうのだった。
庭の薪割り場から、重厚な薪を割る快い音が響いた。
『道具には意思があるのだと覚えなさい、バルス』
アルダシールが大きな薪を一本見事に一刀両断し、額の汗を手の甲で拭いながら微笑んでいる。
『木に無理をさせれば、木は拒絶して刃を弾くか砕け散る。お前の力をそのまま木に移すのではなく、木が望む形へ優しく導いてやるのだ』
(強すぎる力は、包み込む優しさがあって初めて真の力となる。この子もいずれ、その力の真の使い方を悟るだろう)
アルダシールは息子の成長を頼もしく思いながら、心の中で静かに頷いた。
『パパの言う通りだよ。バルス、もう一度この新しい木でやってごらん。今度は僕が上から手を添えてあげるから』
アルスが新しく削り直した楢の木塊を渡すと、バルスはぱっと表情を明るくして頷いた。
『あぅ! あーしゅ、いっしょ!』
アルスの温かい手ほどきを受けながら、慎重に木肌を削っていく。コロコロと転がるような軽やかな音が、静かな庭に心地よく響いた。
その時、奥の部屋から小さな吐息と、かすかな衣擦れの音が聞こえた。
アルダシールは真っ先に薪割りの斧を地面に置き、素早い足取りで土間を上がっていった。アルスとバルスも小刀を脇に置き、顔を見合わせて父の後に続いた。
奥の部屋では、メイファが布団の上に体をゆっくりと横たえ、大きく膨らんだお腹を愛おしそうにさすりながら、静かに息を整えていた。その額には、うっすらと汗が浮かんでいる。
『メイファ、始まったか』
アルダシールがすぐに傍らへ寄り添い、妻の手を優しく包み込んだ。メイファは波寄せる苦痛の合間に、温かな笑みを浮かべて深く頷いた。
『ええ、さっきよりも陣痛の間隔が短くなってきました。お腹の中のあの子が、そろそろお外に出たいと言っています』
『パパ、僕とお湯を沸かしてくるね』
アルスは十歳らしい落ち着きで即座に察し、バルスの手を引いて台所へ走った。
『バルス、水瓶から一番大きな鍋に水を運んで。こぼさないようにゆっくりね』
『あぅ! ぼく、おみず運ぶの!』
バルスは大きな水甕を小さな両手でしっかりと抱え上げると、重さを一切感じさせない確かな足取りで台所へ運び、大鍋へたっぷりと水を注ぎ込んだ。アルスは手際よくかまどに乾燥した薪をくべ、火種から勢いよく火を起こす。ふたりの動作には一切の迷いがなく、これから生まれてくる新しい命を迎えるための完璧な連携が見事に噛み合っていた。
部屋の窓の外が、にわかに爽やかな山風に包まれた。
庭の濡れ縁近くに、赤顔の天狗が静かにその姿を現した。天狗は手に持った大きな羽団扇をそっとあおぎ、澄み切った山の気を部屋の中へと送り込んでいる。
『よしよし、心地よい風を入れてやろう。熱を冷まし、邪気を払い、母子の呼吸を整える清らかな風だ』
天狗の低く優しい囁きに応えるように、屋敷を取り囲む深い森から、巨大な白蛇がするりと頭をもたげた。白蛇は屋敷の周囲を大きな円を描くように優しく囲み、外界からの雑音や不吉な気配をすべて退散させる確かな壁となった。
そして、屋敷の茅葺き屋根の上には、九つの尾を優雅にたなびかせる銀華が座していた。銀華は黄金色の瞳を優しく細め、下の部屋から漏れ出る命の息吹を見つめていた。
『ふふ、いよいよだねえ。アルダシール、メイファ、踏ん張りお寄り。今度はどんなに可愛らしいお姫様が生まれてくるか、私も楽しみで仕方がないよ』
(長い時を生きてきたけれど、こうして新しい命が芽吹く瞬間ほど尊く愛おしいものはないね。この屋敷にはいつも優しい光が満ちている)
銀華の呟きは、柔らかな鈴の音のように風に乗って部屋の中へと届いた。
陣痛の波が深まるにつれ、メイファの呼吸に合わせて、部屋全体に温かな光が満ちていった。
アルダシールは妻の手を固く握り締め、深く静かに祈りを捧げていた。
(かつて遠い西の荒野で苛烈な運命を生き抜いてきたこの私が、いまこうして九州の深い森の聖域で、三度目の新しい命の誕生に立ち会えている。なんとありがたく、温かい奇跡だろうか)
胸の奥からこみ上げてくる熱い感情を噛み締めながら、アルダシールは力強く声をかけた。
『メイファ、あともう少しだ。私もしっかりついている』
『はい、あなた』
メイファが強く息を吐き出し、全身に最後の力を込めた。
オギャー、オギャー。
静寂に包まれていた部屋に、鈴を転がすような、けれど芯の通った通る産声が響き渡った。
それは何とも愛らしく、同時に生命力に満ち溢れた声だった。
アルスとバルスがかまどから駆けつけ、部屋の敷居のところで息を呑んで立ち尽くした。
『生まれた。生まれたよ、バルス』
『あぅ! あかちゃん! あかちゃん生まれた?』
メイファの胸元には、清潔な産着に包まれた小さな小さな赤ん坊が抱かれていた。産声を上げた後、赤ん坊はメイファの肌の温もりを感じて満足そうに小さな唇をすぼめ、安らかな寝息を立て始めた。
アルダシールは妻の汗を丁寧に拭い、愛おしそうに赤ん坊の小さな額に唇を寄せた。そして、あらかじめ心に決めていた名を、静かに口にした。
『この子の名は、アナだ』
『アナ』
メイファがその名を優しく反芻し、愛おしそうに目を細めた。
『遠い故郷の水と豊穣を司る女神の名であり、そしてこの益城の地に宿る弁財天様の気配にも通じる名。美しく、強く、水のように清らかに育ちますように』
『いい名前です、あなた。アナ、今日からあなたが私たちの可愛い娘ですよ』
アルダシールは静かに振り向き、部屋の入り口で固まっている二人の息子に優しく声をかけた。
『アルス、バルス。近くへおいで。お前たちの妹だ』
ふたりは息を殺し、足音を立てないように爪先立ちでベッドの脇へと歩み寄った。
メイファが腕を少し下げて、生まれたばかりの小さな顔を見せてやる。
『うわあ、ちっちゃいな』
十歳のアルスは感極まった声を漏らした。バルスは自分の大きな手を後ろに回し、万が一にも傷つけてしまわないよう注意しながら、恐る恐る顔を近づけた。
『あぅ、あーしゅ、おてて、ちっちゃいね。ふにふにしてる』
(触ったら壊れちゃいそう。僕のおてて、もっと優しくしないと)
バルスがまん丸な目で赤ん坊の手を見つめ、つぶやいた。
アルスはそっと、自分の人差し指を赤ん坊の小さな手のひらに触れさせた。すると、眠っていたはずのアナは、キュッと小さな指を動かし、アルスの指を力強く握り返した。
その温かさと、確かに生きている強い力に、アルスの胸は熱くなった。
『握ってくれた。バルス、アナが僕の指を握ってくれたよ』
バルスも目を輝かせ、小さな人差し指を一本だけ伸ばしてアナのもう片方の手のひらに近づけた。アナはその指も同じようにキュッと握りしめた。
バルスはぽかんと口を開けた後、顔全体をほころばせて笑った。
『あぅ! ぎゅーした! あかちゃん、ぼくの手ぎゅーした!』
アルスは妹の小さな頭を優しくなでながら、弟に語りかけるように誓った。
『アナが大きくなるまで、僕たちがずっと守ってあげようね』
『うん! バルス、あなを、えいって守る!』
両手をいっぱいに広げて元気に答えるバルスの無邪気な姿と、しっかりとした長男の言葉に、メイファとアルダシールは顔を見合わせて温かく微笑み合った。
窓の外では、天狗が嬉しそうに羽団扇を大きく振って風を踊らせ、白蛇が草むらを優しく揺らして祝福の音を奏でていた。
屋根の上の銀華は、九つの長い尾を優雅に揺らしながら、満足そうに目を細めた。
『ふふ、二人の頼もしいお兄ちゃんに守られるお姫様かい。益城の森はいよいよ賑やかで、恐ろしくも愛おしい聖域になっていくねえ』
(この幼い妹が成長した時、どれほど美しい花を咲かせるのか。今から楽しみでならないよ)
風に乗って運ばれてくる弁財天の清らかな気配が、新しい命の誕生を言祝ぐように、幣立の森全体を優しく包み込んでいた。




