益城の聖域と ちいさなふたつの鬼
「バルス、こっちだよ。足元に気をつけて、ゆっくりおいで」
庭の真ん中でアルスが両手を広げると、少し前に歩き始めたばかりのバルスが、太い両脚で力強く地面を踏みしめた。転びそうになるたびに小さな腕をぐるぐると回して持ち直し、ニッと歯の生えそろわない口を開けて笑う。
「あぅ、あーしゅ」
「そうそう、上手上手。バルスはすごいなあ」
一歩一歩の足取りには目を見張るような力強さがあった。転んで手をついても泣くどころか、土のついた手のひらを払うこともせず、大好きなお兄ちゃんを目指してグングンと進んでいく。
アルスは駆け寄ってきた弟をしっかりと抱きとめ、その頭を愛おしそうに撫でた。そして、作業台から杉の丸太を削って作った小さな鹿の木彫りを取り出し、バルスの手のひらに握らせる。
「はい、バルスにあげる。僕が作ったんだよ」
バルスはその玩具をまじまじと見つめると、声をあげて喜び、頬に玩具をすり寄せた。さらにはアルスの膝に抱きつき、頭を何度も擦りつけて感謝を伝える。
アルスが庭の薪を運ぼうと小枝を拾うと、バルスも真似をして自分と同じくらいの長さがある太い小枝を抱え上げた。小さな体にそぐわない腕力でしっかりと小枝を持ち上げ、誇らしげにアルスの顔を見上げて胸を張る。
「まあまあ、バルスったら。そんなに重いものを運べるのですか」
杉の香る居間の縁側に腰掛けたメイファが、二人の仲睦まじい姿に目を細めた。
「バルスはね、僕の手伝いをしてくれてるんだよ。すごく強いんだ」
アルスは自慢気にはにかみ、弟の背中を優しく支えてやった。
その時、頭上の大木からサラサラと落ち葉が舞い降りてきた。庭の隅に現れたのは、赤顔に大きな団扇を持った天狗だった。
「ほれほれ、バルス坊や。風の毬じゃぞ、捕まえてみよ」
天狗が団扇をそっと仰ぐと、赤や黄色の落ち葉が丸く固まり、生き物のように庭の上をくるくると転がり始めた。バルスは目を丸くし、小さな両手を伸ばしてその落ち葉の毬を追いかけ回す。
池からは巨大な白蛇が静かに頭をもたげ、鼻先で叩いた水滴を日の光に透かせて、鮮やかな小さな虹を作り出した。木霊たちも枝の隙間から顔を出し、鈴を転がすような可愛らしい声で合唱を始める。
「ヤマトの役人どもは、山の下でいまだに『益城の奥山には近づくな』とお互いを戒めているそうじゃ」
天狗が大団扇を膝に乗せ、可笑しそうに鼻を鳴らした。
「前に痛い目を見た兵らが、恐ろしい鬼の噂を言いふらしたからのう。この森の真の姿が、こんなにも賑やかで平和な庭だとは夢にも思っておるまい」
白蛇も水面を揺らしながら満足そうに深く頷いた。
「それで良いのだ。無礼な者どもが近づかぬおかげで、この子らが健やかに育つ場所が守られている」
庭の薪割りを終えたアルダシールは、手に持った斧を置き、汗を拭いながらあやかしたちと戯れる我が子たちを温かな目で見つめていた。
身を寄せる場所すらなく追われていたかつての日々を思えば、この幣立の森で過ごす一刻一刻は夢のように穏やかであった。自分の手で建て増しした家に我が子の笑い声が響き、あやかしたちが家族のように寄り添ってくれている。
そこへ、温かいお茶の入った湯呑みを手に、メイファが静かに歩み寄ってきた。
「あなた、少しお休みになりませんか。アルスもバルスも本当に楽しそうですね」
「ああ、ありがとうメイファ。お前も無理をして体を冷やしてはいけないよ」
湯呑みを受け取りながら妻の顔を覗き込むと、メイファはふっと頬を緩め、愛おしそうにお腹へ手を添えた。
「実は、あなた。また新しい命が、私の中に宿ってくれたようなのです」
「本当か、メイファ!」
アルダシールの顔にパッと歓喜の表情が広がった。お茶を置くと、妻の肩をそっと抱き寄せる。
「そうか、また家族が増えるのだな。この家に、もっと笑い声が満ちるのだな」
「ええ。アルスもバルスも、きっと良いお兄ちゃんになってくれますわ」
二人が顔を見合わせて微笑み合う姿を、屋根の最頂部から九本の白い尾を揺らした銀華が見つめていた。
銀華は胸元にそっと手を当て、生まれたばかりの気配を静かに確かめると、母親のような柔らかな笑みを浮かべた。
「ふふ、また新しい命が生まれてくるのね。本当に賑やかで、素敵な家族だわ。アルダシール、メイファ、ふたりが紡ぐ温かな愛は、この先どんな時代が来ようとも絶えることはないわね」
銀華の祈りの気が、柔らかな風となって家族を包み込んでいく。
外の世界では争いや時代の波が渦巻いていても、幣立の森に守られたこの家には、今日も溢れんばかりの愛と笑顔が満ちていた。




