おとうと 誕生!
幣立の森が、どこか息をのむような神秘的な静けさに包まれていた。
早朝の澄み切った気が森全体を満たし、古くから神々が降り立つと言われるご神木の葉も、風すらも音を潜めてその時を待っている。増築されたばかりの杉の香る「やさしい部屋」からは、新しい命を世に送り出そうとするメイファの短い息づかいと、痛みに耐える静かな声が漏れ聞こえていた。
居間の囲炉裏の前で、アルスは膝の上に小さな拳をぎゅっと握りしめ、祈るような心地でじっと座っていた。その背中はどこか緊張で強張っており、一刻も早く母のもとへ駆け寄りたくてたまらないといった様子だった。
そのお隣に静かに腰掛けたアルダシールは、我が子の強張った肩を優しく抱き寄せ、穏やかな声で語りかけた。
「大丈夫だ、アルス。お前の母さんは強い。それに、幣立の神々も森のあやかしたちも、みんなで温かく見守ってくれている」
「うん、パパ。僕ね、お部屋のそとに出て、風さんにも『ママとお赤ちゃんを助けてね』ってお祈りしてきたんだ」
アルスは真剣な瞳で父親を見上げた。かつて西アジアの荒野で苛烈な逃亡生活を生き抜いてきたアルダシールにとって、我が子のこの真っ直ぐで純粋な優しさは、何よりも胸に沁みるものであった。厳しい修行で鍛え上げられたアルダシールの大きな手が、アルスの頭を愛おしそうに撫でた。
その時だった。
静寂に包まれていた家の中に、万物を揺さぶるような生命力に満ち溢れた産声が響き渡った。
おぎゃあ、おぎゃあと、新築の杉の柱を震わせ、幣立の森の奥深くまで届きそうなほど太く力強い声だった。
「生まれたぞ、元気な男の子だ!」
アルダシールとアルスは顔を見合わせ、弾かれたようにベッドのある部屋へと駆け込んだ。
真新しい部屋の窓から柔らかな朝日が差し込む中、メイファが汗に濡れた髪をそのままに、愛おしそうに小さな温かい包みを抱きしめていた。その顔には、過酷な試練を乗り越えた者だけが持つ至福の笑みが浮かんでいた。
抱えられた赤ん坊は、生まれたばかりとは思えないほど骨太でがっしりとした体格をし、力強く小さな両拳を握りしめていた。
「あなた、アルス、見てください。元気に生まれてきてくれましたわ」
メイファが疲れの中にも温かな微笑みを向けると、アルスは爪先立ちになり、息をのむように赤ん坊の顔を覗き込んだ。
「わあ、弟だ! ぼくの弟だ!」
アルスが感動で瞳を輝かせながら、そっと小さな指先を赤ん坊の手のひらに差し出すと、生まれたばかりの赤ん坊はその小さな手で、驚くほどの強さでアルスの指をギュッと握り返した。
「すごい力! パパ、この子すっごく力持ちだよ!」
「本当だな。赤ん坊とは思えぬ握力だ。まるで小さな鬼のようだな」
アルダシールは感無量の面持ちで目頭を熱くし、妻と生まれたばかりの我が子を優しく、包み込むように抱きしめた。ペルシャの地を追われ、死と隣り合わせだった自分が、九州の清らかな聖地で二人もの我が子を抱くことができる。その奇跡に、胸の奥から深い感謝が湧き上がっていた。
「この子の名前は、バルスと名付けよう。力強く、武勇に溢れ、いかなる困難や嵐にも決して屈しない不屈の男になるように」
「バルス。とても力強くて素晴らしいお名前ですね、あなた」
メイファも満足そうに深く頷き、何度も愛おしそうにその名を唱えた。
「バルス! バルスかあ、かっこいいや! バルス、僕がお兄ちゃんのアルスだよ。僕が絶対、お前のことを守ってあげるからね!」
アルスは大きく胸を張り、小さな頼もしい騎士のように力強く誓った。
後に世界を巡る果てしない旅へと飛び立つ兄のアルスが、縦横無尽に天を羽ばたく『翼』となるならば、この益城の地に生まれたバルスは、やがて修羅の国と呼ばれる九州の乱世において、益城の地と家族を死守する不動の『盾』であり『鬼神』となる宿命を背負っていた。
二人の兄弟は、それぞれの道で父から引き継いだ武芸と、母から受け継いだ深い愛、そして秘められた鬼の強さを美しく花開かせていくのである。
その頃、我が家の外では、九州中から集まったあやかしたちが歓喜に湧いていた。
天狗は大団扇を大いに仰いで祝砲の如き突風を巻き起こして木々を舞わせ、白蛇さまは清らかな湧き水を天に向かって跳ね上げ、太陽の光で美しい虹を作ってみせた。阿蘇の火の鳥や薩摩の森の精霊たちも、口々に新しい鬼の芽生えを祝っていた。
「見事な男児じゃ! あの力強い気、将来は益城の地を揺るがす見事な戦士となるぞ!」
「アルス坊やとバルス坊や、二人の鬼が揃うとは、益城の未来はまこと安泰じゃな!」
あやかしたちの賑やかな声が森に響き渡る中、屋根の最頂部では、九本の真っ白な尾を優雅になびかせた天女、銀華が静かに腰掛けていた。
銀華は胸の前にそっと手を当て、生まれたばかりの赤ん坊の元気な気を感じ取りながら、母親のような柔らかな笑みを浮かべていた。
「ふふ、バルスちゃんね。とても良い名前をもらったわね。天を駆け抜ける翼となるアルスと、大地に根を張り家族を護る盾となるバルス。本当に見事な兄弟だわ」
銀華は胸元から清らかで温かな気を静かに手繰り寄せると、赤ん坊の眠る真新しい部屋へとしずかに降り注がせた。
「アルダシール、メイファ、ふたりともよく頑張ったわね。過酷な運命を乗り越えて、こんなにも温かな命を育んでくれたこと、誇りに思うわ。これでまた、この家と益城の地が賑やかになるわね」
銀華の言葉に呼応するかのように、益城の森全体が優しい光に包まれていく。
その夜、幣立の森は朝まで温かな光と祝いの声に包まれていた。
父と母の深い愛、兄の頼もしい誓い、そしてあやかしたちの温かな守護を受けながら、次男バルスは益城の地で新たな一歩を踏み出したのだった。




