ヤマトの兵と鬼伝説の芽
九州のへそと称される益城の地、幣立神社の深い森に、不穏な足音が忍び寄っていた。
日の本をひとつに束ね、各地の古き神々やイズモの血を惹く民を力で屈服させようと野心を燃やすヤマトの勢力。その先兵たちが、幣立の森に秘められた神聖な気と、そこに棲むという常人離れした力を持つ童の噂を聞きつけ、密かに森へと侵入してきたのである。
革の甲冑を身に纏い、鋭い鉄の剣を抜いたヤマトの兵ら十数名は、ご神木の太い幹を剣の柄で容赦なく叩きながら、横暴な声を張り上げた。
「おい、この森に潜む妖魔ども、出てこい。我らはヤマトの命を受け、この地を治めにきたのだ。従わぬならば、森ごと焼き払ってくれる」
兵たちの傍若無人な立ち振る舞いに、森の木々が怒りに震えるようにざわめいた。
その異変を最初に察知したのは、山の奥で珍しい果実を探していたアルスだった。
鋭い気配の察知能力は、父アルダシールから受け継いだ武芸者の直感と、秘められた鬼の血脈によるものだった。アルスは小さな耳を澄ませ、兵たちの下品な高笑いと乱暴な足音を聞き取った。
(あの人たち、森の木や動物さんたちをいじめてる。それに、おうちの方へ向かったら、妊娠中のお母さんやパパが心配しちゃう)
アルスはくりっくりとした目を引き締めると、両親に余計な不安を与えないよう、一人で侵入者のもとへ向かうことを決意した。
小さな足が地を蹴った瞬間、その身体はまるで風そのものとなって静かに滑り出した。
ヤマトの兵たちがさらに森の奥へ踏み込もうとしたその時、頭上の大木から、乾いた笑い声が降ってきた。
「やれやれ、ヤマトの田舎者どもが、命知らずにも幣立の聖域を踏みにじるとはな」
赤顔に高い鼻を誇る天狗が、大団扇を悠然と揺らしながら太い枝の上に立っていた。
「な、なんだその怪異は。者共、構えよ。妖魔め、斬り捨ててやる」
ヤマトの隊長が叫び、兵たちが一斉に剣を構えた瞬間、足元の草むらが大きく揺れ、滝壺から這い出た巨大な白蛇がその身をくねらせて立ち塞がった。
「清らかなるこの地を汚す愚か者どもよ。立ち去るならば今のうちぞ」
白蛇の神々しい姿に、ヤマトの兵たちは一瞬で顔を引きつらせた。しかし、日頃から力による支配を過信している彼らは、恐怖を打ち消すように剣を振り上げた。
「ひるむな。たかが山の化け物どもだ。まとめて切り刻んでしまえ」
その時、兵たちの背後から、鈴を転がすような少年のみずみずしい声が響いた。
「森をいじめるのは、やめてください」
兵たちが慌てて振り返ると、そこには竹籠を背負った一人の幼い少年が立っていた。小さな体躯に素朴な服を纏い、どこからどう見てもただの子供にしか見えない。
「なんだ、ただのガキか。驚かせおって。おい、そのガキを捕らえろ。この森の者どもを脅す生贄にしてやる」
隊長の命令を受け、二人の大柄な兵が下品な笑いを浮かべながらアルスへと手を伸ばした。
だが、その手がアルスの肩に触れることはなかった。
アルスは一瞬にして姿を消したのである。
「な、なに。どこへ消えた」
「こっちだよ」
兵たちの頭上から声が聞こえた。アルスはまるで羽毛のように兵の肩を軽く踏み台にし、空中を一周して背後に着地していたのだった。天狗から教わった風の走りと、白蛇さまから学んだ身の交わしが、滑らかに組み合わされていた。
「このガキ、ちょこまかと」
痺れを切らした兵が、本気で鉄の剣をアルスに向かって振り下ろした。鋭い刃が風を切る音が響く。
だが、アルスは逃げなかった。
小さな掌をすっと突き出し、振り下ろされた剣の側面を、指先で軽く弾いた。
キン、という澄んだ甲高い音が響き渡ると同時に、兵の手から重い鉄の剣が弾き飛んだ。アルスの腕に満ちた気は、父アルダシールの厳格な教えと、古のオーガたる鬼の強靱な血脈が合わさった圧倒的なものだった。
「ひっ、手が、手が痺れて動かん」
「みんな、ぼくのお友達の森を傷つけるなら、おしおきだよ」
アルスが小さく拳を握り締めると、その身体から渦巻くような温かくも圧倒的な威圧感が解き放たれた。
その光景を、高い大木の最上部から九本の白い尾をなびかせて見守っていた銀華は、母のような愛おしい微笑みを浮かべた。
(ふふ、あの子のなかに眠る鬼の力が、愛する者を守るために心地よく躍動しておるわ。あやかしたちよ、あの子の初陣を派手に飾ってやりなさい)
銀華が指先を優しく揺らすと、森全体に深い霧が立ち込め、ヤマトの兵たちの視界を遮った。
「うわあ、霧で前が見えん」
「助けてくれ、足元を何かに引っ張られる」
益城の地の木霊や動物のあやかしたちが一斉に加勢し、ヤマトの兵たちを転ばせ、混乱に陥れた。
そこへ、アルスが風のような速さで飛び込んでいく。
大人の兵たちを、小さな拳と蹴りで次々と倒していく。といっても、殺生を嫌うアルスの手加減により、骨を折ることもなく、ただ尻餅をつかせ、身体の脂汗を吹き出させる程度であった。しかし、その圧倒的な速度と力は、ヤマトの兵たちにとって生きた心地のしない恐怖であった。
「まいった、まいりました。助けてくれ」
「化け物だ。あのガキは人間の姿をした恐ろしい鬼だ」
わずか一刻も経たぬうちに、ヤマトの兵らは武器を投げ捨て、泣き叫びながら森の外へと逃げ出していった。
命からがら逃げ帰った彼らによって、後にヤマトの陣営へ恐ろしい噂がもたらされることになる。
益城の深い森には、神々を従え、大大人を一人で叩きのめす恐ろしい鬼が潜んでいる、と。
それが、後世まで語り継がれることになる益城の鬼伝説の、最初の小さな芽となったのである。
逃げていく兵たちの背中を見送りながら、アルスはふうと小さく息を吐いた。
「ふう、びっくりした。でも、森を守れてよかった」
「見事であったぞ、アルス坊や。あのような無礼者ども、いい薬になったわい」
天狗が大団扇で心地よい風を送り、白蛇さまも嬉しそうにアルスの身体を優しく包み込んだ。益城のあやかしたちが次々と集まり、小さな英雄の快挙を口々に称え合った。
銀華もすっと舞い降り、アルスの頭を優しく撫でた。
「よく頑張ったな、アルス。お前のその強さは、大切な者を守るための気高い光じゃよ」
「うん、ありがとう、お姉ちゃん。あ、早くおうちに帰って、ママの様子を見なきゃ」
アルスはあやかしたちに笑顔で手を振ると、再び元気に走って我が家へと戻っていった。
夕暮れ時、増築を終えたばかりの新しい部屋で、メイファが静かにお腹を撫でながら待っていた。
「おかえりなさい、アルス。山で何かありましたか」
少し頬を赤くして帰ってきた我が子に、メイファが優しく尋ねると、アルスはニッコリと笑って首を振った。
「ううん、なんでもないよ。今日のお山もすごく静かで、平和だったよ。ママ」
アルスはメイファの膝元にそっと寄り添い、小さなお腹に優しく手を当てた。
アルダシールもまた、我が子の手に付いたわずかな土の匂いから、森で何が起きたかをすべて察していた。我が子が得た強さと、それを鼻にかけぬ優しさに深く感動しながら、アルダシールは静かに我が子の肩を抱きしめた。
「そうか。今日も幣立の森は平和だったか。お前が守ってくれたおかげだな、アルス」
「えへへ、パパ、なにいってるの。ぼくはお兄ちゃんだから当然だよ」
澄み切った秋の夜空に、一番星が輝き始めていた。
九州のあやかしたちに愛され、秘められた鬼の力を優しさへと昇華させた少年は、今日も温かい家族の愛に包まれながら、すくすくと成長を続けていくのだった。




