優しい部屋
朝の凛とした空気が、幣立の森の木々を揺らしながら吹き抜けていく。
造り立ての新しい部屋の引き戸を開けると、あたり一面にすがすがしい杉と檜の香りがふわりと立ち込めた。数日間にわたるアルダシールとアルスの懸命な作業の末、ついに赤ん坊を迎えるための新しい空間が見事に完成したのだった。
「わあ、すごくいい匂い! すっごく広くてきれいだよ、パパ!」
アルスは真新しい板張りの床をぴょんぴょんと跳ね回り、嬉しそうに両手を広げた。その瞳は、新しい家族を迎える期待と、お兄ちゃんになる誇らしさで眩しく輝いている。
「ああ。お前がしっかりと丸太を運び、柱を支えてくれたおかげだ。立派な部屋ができたな」
アルダシールは手拭いで額の汗を拭いながら、我が子の頼もしい背中を細い目で見た。
数日前から始まった増築工事は、アルスの驚異的な腕力と身のこなしによって、大人の職人二人分以上のスピードで進んだ。秘められた鬼の血脈が、暴力ではなく家族を守るための力として真っ直ぐに発揮されていることに、父親としての深い喜びを感じずにはいられなかった。
そこへ、温かいお茶の入った木盆を手にしたメイファがゆっくりと歩いてきた。
「あなた、アルス、本当にお疲れ様でした。こんなに立派なお部屋にしていただいて、赤ちゃんもきっと喜んでくれますわ」
メイファは優しくお腹に手を当てながら、完成したばかりの部屋を見渡した。柔らかい朝日が差し込む窓からは、幣立の豊かな森の緑が一望できる。
「ママ、入ってもいいよ! ほら、すごく気持ちいい風が入ってくるんだよ」
アルスは急いで駆け寄ると、メイファの手をしっかりと取り、まるで宝物でも案内するかのように新しい部屋へとエスコートした。
「ありがとう、アルス。……本当に、すてきなお部屋ですね」
メイファが窓辺に腰掛け、心地よい風に髪を揺らすと、アルスはその足元にちょこんと座り込み、真剣な表情で言った。
「あのね、ママ。この部屋は、僕が毎日きれいに掃除するんだ。赤ちゃんが生まれてきたら、僕が一番に抱っこしてあげるんだ。お兄ちゃんだから、何でもできるんだよ」
その健気で力強い言葉に、メイファの胸は熱い感動で満たされた。幼かった我が子が、いつの間にかこんなにも頼もしいお兄ちゃんとしての心を宿している。
「ええ、頼りにしているわ、アルス。赤ちゃんも、こんなに優しいお兄ちゃんがいてくれて本当に幸せね」
親子の温かなやり取りを、アルダシールは少し離れた場所から微笑ましそうに見守っていた。
午後のひととき、アルスは「赤ちゃんのために美味しいものを採ってくる!」と意気込み、再び幣立の森の奥へと駆け出していった。
足取りは風のように軽く、山の斜面をまるで地面を蹴る音もなく駆け上がっていく。その背中を、森のあやかしたちや、上空を舞う天狗が目を細めて見送っていた。
「おや、今日のアルス坊やは一段と気合が入っておるな」
「新しい部屋ができて、お兄ちゃんとしての自覚がさらに芽生えたのだろうさ」
天狗と白蛇さまが木の枝の上から楽しげに言葉を交わす。
さらに山を登ったアルスのもとへ、ひらひらと姿を現したのは、この森に住む小さな木霊たちや、山を知り尽くした動物の案内人たちだった。
「アルス、そっちじゃないよ。あっちの日の当たる崖っぷちに、身体を温めて元気をわけてくれる特別なきのこがあるんだ」
「ほんとう? 教えて、お友達!」
アルスは動物たちに導かれ、普通の人間では絶対に踏み入れられない秘境へと足を踏み入れた。そこで見つけたのは、黄金色の美しい傘を持つ、滋養たっぷりの珍しいきのこと、甘い香りを放つ山の木の実だった。
「やったあ! これをママに食べてもらったら、赤ちゃんも元気になるぞ!」
アルスは丁寧にそれらを竹籠に詰め込み、満足そうな笑みを浮かべて家路を急いだ。
夕暮れ時、幣立の我が家には、アルスが採ってきた山の恵みを使った温かいスープの香りが漂っていた。
新しく完成した部屋の隣にある居間で、三人揃って夕食を囲む。
「うん、このスープ、すごく温まるね! お母さんと赤ちゃんも、いっぱい食べてね」
アルスが自分の器からお肉ときのこを勧める姿に、メイファは嬉し涙をこぼしそうになりながらうなずいた。
「いただきます、アルス。あなたが採ってきてくれたから、何倍も美味しいわ」
窓の外では、夜の闇が静かに幣立の森を包み込み始めていた。
その最も高い屋根の上では、九本の真っ白な尾を優雅になびかせた天女、銀華が静かに腰掛けていた。
銀華の黄金色の瞳は、真新しい木の香りに満ちた部屋と、家族の温かな団らんを優しく見つめている。
(人間の歴史を見てきたが、これほどまでに尊く、美しい光景が他にあっただろうか)
銀華は胸の奥に広がる温かい感情をそっと味わった。
かつて荒涼とした砂漠で孤独を生きていた自分に、こんなにも愛おしい家族の日常が寄り添うようになるとは思いもしなかった。アルダシールの強さ、メイファの優しさ、そして鬼の血脈を受け継ぎながらも底抜けに純粋で優しいアルスという少年。
(強き鬼の血脈が、愛によってかくも美しく花開くとはな。アルス、お前は我が子同然の誇りじゃよ)
銀華は夜風に衣を揺らしながら、家全体を包み込む結界の光を一段と優しく輝かせた。
新しい部屋の窓辺から漏れるランプの灯りが、夜の森をあたたかく照らし出している。
静かな源泉の湯気と、家族の笑い声、そして新しい命を待ちわびる胸の高鳴りが、幣立の地に確かな幸福の時間を刻み続けていくのだった。




