九州の妖かしたちから愛されてるお兄ちゃん
朝露が朝日に照らされ、幣立神社の気高い森全体が煌めくような光に包まれていた。古くから神々が降り立つ聖地として崇められてきたこの地には、澄み渡る気が満ち満ちており、木々を抜ける風すらもどこか清らかな響きを奏でている。
その聖なる森に隣接する敷地では、朝一番から心地よい木槌の音が響き渡っていた。
アルダシールとアルスが、我が家の増築作業に励んでいたのである。新たな命を迎えるための新しい部屋作りは順調に進み、すでに立派な骨組みが青空に向かって組み上がっていた。
「よし、アルス。次はこの太い杉の柱をあそこの基礎に立てるぞ。少し重いから気をつけろ」
アルダシールが声をかけると、アルスは「はいっ!」と元気よく返事をした。
アルスが歩み寄ったのは、大人が三人でようやく抱えられるほどの、ずっしりと重い丸太であった。しかしアルスは、小さな両手で丸太の端を軽く掴むと、まるで軽い竹竿でも扱うかのようにひょいと持ち上げて見せた。
その足取りには一切のふらつきがなく、地を踏みしめる音すらほとんど聞こえない。狙った位置へ寸分の狂いもなく柱をすっと差し込んで見せた。
「パパ、これで合ってる?」
「ああ、完璧だ。……いや、本当に見事な力加減だな」
アルダシールは感心しながら我が子の頭を撫でた。
毎日、山々を走り回り、厳しい自然の中で遊んでいるおかげで、足腰と身体の使い方が目に見えて鍛えられている。我が子がこれほど力持ちで、筋が良いことに、アルダシールは父親としての深い誇りと満足感を覚えていた。我が子の秘められた能力を、すくすくと健やかに育っている証拠として素直に受け止めていたのである。
作業が一段落した頃、家の中からメイファが大きな木桶を手に出てきた。近くの湧き水へ水を汲みに行こうとしていたのだった。
それを見つけたアルスは、手にした木工具を置くと、風を切るような速さで母のもとへ駆け寄った。
「ママ! ダメだよ、お腹に赤ちゃんがいるんだから! 重いものを持ったらダメって、僕が決めたんだから!」
アルスは小さな身体をメイファの前に滑り込ませ、手から木桶をひょいと受け取った。
「アルス、大丈夫よ。このくらいなら無理なく運べますから」
メイファが優しく微笑むと、アルスは頼もしく胸を張った。
「ううん、僕がやるの! ママはお部屋で温かいお茶でも飲んで座ってて!」
そう言い残すと、アルスは大きな木桶を両手に抱え、山道へと飛び出していった。
その走りは、常人の目を疑わせるものだった。切り立った斜面や突起した木の根を、まるで平地を歩くかのように軽やかに跳び越えていく。跳躍するたびに身体が宙を滑るように伸び、あっという間に深い森の奥にある湧き水へと到達した。
冷たく澄んだ湧き水を木桶いっぱいに汲むと、今度は水面を揺らしすらさせず、疾風のような速さで引き返してきた。
「ママ、お水汲んできたよ! どこに置けばいい?」
一切息を切らすこともなく、水滴一つこぼさずに戻ってきた我が子を見て、メイファは驚きとともに胸を熱くした。
「ありがとう、アルス。なんて頼もしいお兄ちゃんなのでしょう」
メイファは膝をつき、汗一つかいていないアルスの頬を優しく撫でた。母からの褒め言葉に、アルスは照れくさそうに照れ笑いを浮かべたのだった。
その頃、幣立神社のすぐ裏手に聳える、樹齢数千年の巨大な楠の木の頂では、人間には見えぬ不思議な気配が幾重にも渦巻いていた。
ご神木の太い枝の上には、幣立の森の守り手である天狗や、清らかな滝壺から現れた白蛇さまだけではなく、あまり見慣れぬ姿をしたあやかしたちが多数集まっていた。
阿蘇の火山から飛来した火の鳥のあやかしや、筑紫の深い谷に住まう老いた猿神、さらには遠く薩摩の山々から噂を聞きつけてやってきた森の精霊たちである。今や九州全域のあやかしたちの間で、「幣立の地に、恐ろしいほど気高く清らかな神童がいる」という噂が広まり、アルスの存在はあやかし界で最も有名な話題となっていた。
「見たか、今の身のこなしを。大きな木桶を抱えながら、風の足場を捉えて宙を飛んでおったぞ」
薩摩から来た老いたあやかしが、感嘆の溜め息をついた。
天狗は大団扇を悠然と揺らしながら、鼻を高くして笑った。
「ふふん、驚くには及ばん。我が風の走りも、あの子は私と鬼ごっこをする中で、あっという間に盗んで己のものにしてしまったのだからな」
「わしの水の如き柔軟な体の捌きも同様じゃ」
白蛇さまも青く澄んだ目を細め、誇らしげに髭を揺らした。
「天狗殿や白蛇殿の教えを、遊び感覚で吸収してしまうとは。あの素直で素朴な心根ゆえに、天地の理がそのまま身体に通っておるのじゃな」
集まったあやかしたちは、口々にアルスの素晴らしさを語り合い、まるで我が孫の成長を自慢し合うかのように目を細めていた。
その時、阿蘇の深い谷からやってきた古き狼のあやかしが、金色に光る瞳を凝らしながら静かに口を開いた。
「しかし、驚くべきはそれだけではあるまい。あの力、あの身軽さ、そして鍛え上げられた肉体の奥底から滲み出る威圧感。あれはただの人間が持てる領域のものではない」
あやかしたちの間に、静かな緊張が走った。老狼のあやかしは、確信に満ちた声で続けた。
「あの父と子には、古のオーガ、すなわち鬼の猛々しい血脈が秘められておる。それも、ただの鬼ではない。かつて地を揺るがした気高く強靱な鬼の血じゃ。父の過酷な修練と、この幣立の聖なる気が合わさり、あの子の中で鬼の力が美しく覚醒し始めておるのだ」
あやかしたちは一瞬息を呑んだが、誰一人として恐れの表情を浮かべる者は伸びなかった。
通常、鬼の血といえば荒々しく邪悪な力を連想させる。しかし、アルスの中に宿る鬼の力は、両親の深い愛と神々の教えによって、どこまでも清らかで優しく、尊い力として花開こうとしていたからである。
「なるほど、鬼の血脈か。だからこそ、あれほどまでに強く、そして愛おしいのだな」
「恐ろしいはずの力を、母を気遣い、家族を守るために使うとは。なんと健気で美しい少年じゃろう」
九州各地から集まったあやかしたちは、ますますアルスへの愛着を深め、その健やかな成長を温かく見守ることを心に誓い合っていた。
そのあやかしたちの輪の中心、屋根の最も高い棟木の上では、九本の真っ白な尾を優雅になびかせた天女、銀華が静かに腰掛けていた。
銀華は、あやかしたちが競うようにアルスを称賛する声に耳を傾けながら、我が子を褒められた母親のように、誇らしげで柔らかな微笑みを浮かべた。
「ふふ、当たり前ではないか。あの子は私が母のような心で見守る、自慢の宝物じゃからな」
銀華はそっと羽衣を揺らし、庭で元気に薪を運ぶアルスの頭上へ、祝福の風を送り届けた。
「いくら鬼の力を秘めていようと、アルスはアルスじゃ。この素晴らしい家族と、我らあやかしたちの愛に包まれている限り、あの子はどこまでも真っ直ぐに育っていくさ」
そして銀華は、メイファの小さなお腹へも温かな気を送った。
「そして、もうすぐ生まれてくる新しい命もな。この益城の地、幣立の森全体が、お前たち家族の味方なのじゃよ」
夕暮れ時、増築中の新しい部屋の柱に、夕日が赤々と差し込んでいた。
「パパ、今日はお仕事たくさん進んだね!」
「ああ、アルスがいてくれたおかげだ。さあ、今夜も自家製の温泉に入って、しっかり汗を流そう」
「うん! ママ、お風呂湧いてるよ! 一緒に入ろう!」
「ふふ、ありがとうアルス。後からゆっくり入らせてもらうわね」
あたたかいお湯の匂いと、家族の弾けるような笑い声が、益城の深い森へと優しく溶け込んでいく。
九州中のあやかしたちに愛され、鬼の血脈という偉大な可能性を秘めながら、小さな冒険者は今日もお兄ちゃんとしての確かな一歩を歩んでいた。




