新しい命とお兄ちゃんの約束
朝日が幣立の森を黄金色に染め上げる清々しい朝のことだった。
木造の温もりがあふれる家の中で、メイファは静かに自分の小さなお腹へ両手を添えていた。窓から差し込むやわらかな光が、その美しい横顔を優しく包み込んでいる。
台所へ足を踏み入れたアルダシールは、妻のその愛おしそうな仕草と、どこか神聖さすら感じさせる表情を目にして、静かに足を止めた。言葉を交わさずとも、地底世界での苦難を共に生き抜いてきた二人には、互いの心の揺らぎが手に取るように伝わっていた。
「メイファ、やはりそうなのだな」
アルダシールの低く落ち着いた声には、隠しきれない熱い喜びが滲んでいた。
メイファは深く頷き、涙で潤んだ瞳を夫へ向けた。その口元には、かつて追手から逃げ回っていた頃には決して見せることの出来なかった、心からの穏やかな微笑みが咲いていた。
「ええ、あなた。確信いたしました。私のお腹の中に、あたらしい命が宿っています。アルスの下に、新しい赤ちゃんが来てくれたのです」
アルダシールは静かに歩み寄り、愛する妻を慈しむように力強く抱きしめた。過酷な宮廷の争いや地底での過酷な戦いを経て、命を繋ぐことの尊さを誰よりも知る彼にとって、この平穏な地で新たな家族を授かったことは、天からの最大の贈り物であった。
「感謝する、メイファ。私にまた一つ、守るべき大切な宝物を与えてくれたことを」
「いいえ、あなた。このあたたかいお家と、美味しいご飯と、静かなお湯があるからこそ、この子が安心して来てくれたのですわ」
二人が温かな余韻に浸っていると、廊下から元気にパタパタと足音が響いてきた。朝の身支度を終えたアルスが、不思議そうに顔を覗かせたのだった。
「パパ、ママ、朝からどうしたの。なんだかすっごく嬉しそう」
アルスはくりっくりとした大きな目を輝かせ、二人の元へ駆け寄ってきた。
アルダシールはしゃがみ込み、我が子の小さな肩に大きな手を置いた。
「アルス、よくお聞き。お前におめでたい知らせがあるのだ」
「おめでたい知らせ? なあに、パパ」
「お前のママのお腹の中にな、あたらしい赤ちゃんがいるのだよ。お前はもうすぐ、お兄ちゃんになるのだ」
その言葉を聞いた瞬間、アルスの動きがぴたりと止まった。小さな頭の中で言葉の意味を一生懸命に反芻するように、目を丸くしている。
「ぼくが、お兄ちゃん……?」
「そうよ、アルス。あなたをずっと愛してきたけれど、これからは弟か妹ができるのよ。楽しみでしょう」
メイファが優しく微笑みかけると、アルスの顔全体にぱっと眩しい笑顔が広がった。その瞳には、まるで満天の星空を詰め込んだかのような輝きが宿っている。
「やったあ! ぼく、お兄ちゃんになるんだ! パパ、ママ、本当!?」
「ああ、本当だとも。お前が立派なお兄ちゃんになってくれるのを、この子も待っているはずだ」
アルスは興奮で小さく跳ね上がると、すぐに思い直したように足音を殺し、そっとメイファの膝元へ膝をついた。そして、割れ物を扱うかのような慎重さで、メイファのお腹に小さな耳をそっと当てた。
「あかちゃん、聞こえる? ぼくが、お兄ちゃんのアルスだよ。早く会いたいな。僕ね、お外にいっぱい楽しいところがあるの、教えてあげるからね。天狗さんや白蛇さまも、みんな優しいんだよ」
小さなお腹に向かって、真剣な声で語りかける少年の姿に、メイファの目からポロポロと温かい嬉し涙がこぼれ落ちた。
「ふふ、アルス。まだとても小さいから、声は聞こえないかもしれないけれど、あなたのあたたかい気持ちはきっと届いているわよ」
「うん! ぼくね、ママに絶対無理させないって約束する! 重いお水汲みも、薪運びも、これからは全部ぼくがやるからね!」
小さな胸を大きく張り、握りこぶしを作る我が子の健気さに、アルダシールも感無量の思いであった。幼かった少年が、あたらしい命の存在を知ったことで、目に見えて頼もしいお兄ちゃんとしての自覚を芽生えさせている。
「頼もしいぞ、アルス。では早速、お前と私でやらねばならん大きな仕事がある」
「大きな仕事? なに、パパ!」
「あたらしい家族が増えるのだ。赤ちゃんが大きくなった時に困らないよう、この家をさらに広く増築するのだ。お前の部屋の隣に、もう一つ新しい部屋を作ろう」
「わあ! お部屋の増築! ぼくも手伝う! 木を運ぶのも、削るのも、パパと一緒にやるよ!」
アルスは拳を空へと突き上げ、やる気満々で声を弾ませた。
その日の午後から、我が家の庭では活気あふれる増築の準備が始まった。
アルダシールは幣立の森から切り出してきた上質な杉の丸太を整え、手際よく柱や桁の寸法を測っていく。その傍らで、アルスは大人が持つような重い木材を、小さな身体で軽々と持ち上げて運んでいた。
山での修練と神々の教えによって鍛え上げられたアルスの足腰と腕力は、すでに並の大人を遥かに凌駕していた。しかしアルダシールはそれを、成長期の子供が見せる健全な力持ちとして微笑ましく受け止め、我が子とともに汗を流した。
「パパ、この柱はここに置けばいい?」
「ああ、そこに頼む。筋が良いぞ、アルス。お前が手伝ってくれるおかげで、作業が倍の速さで進むな」
「えへへ、だってお兄ちゃんになるんだもん!」
手際よく木材を運び、楽しそうに笑う我が子の姿を、メイファは縁側に腰掛け、温かいお茶を飲みながら愛おしそうに見守っていた。柔らかな風が、建設中の柱の間を抜け、家族の温もりを森全体へと運び去っていく。
幣立の森の深淵では、その家族の歓喜の気が満ちているのを、地の神々もしっかりと察知していた。
高い樹木の上では、天狗が大団扇を静かに揺らしながら、満足そうに鼻を鳴らした。
「ほう、あの童におとうとができるか、あるいは妹か。ますます賑やかになるな。あの澄んだ気がさらに増すのは、この山にとっても誠にめでたいことじゃ」
清らかな滝壺では、白蛇が長い身体をゆるやかにくねらせ、青澄んだ水面から顔を出していた。
「天地の理に導かれ、この地に芽吹いた命がまた一つ増えるか。あの子らが健やかに育ち、日の本の未来を照らす光となる日も、そう遠くはあるまい」
神々の祝福の言葉が、風の音に紛れて清らかに響き渡る。
そして、我が家の最も高い屋根の上では、九本の真っ白な尾をなびかせた天女、銀華が静かに腰掛けていた。
銀華の美しい瞳は、庭で汗を流しながら仲良く柱を削るアルダシールとアルスの姿、そしてお腹を慈しむメイファの姿を、まるで我が子や孫を見守る母親のような、深く優しい眼差しで見つめていた。
(三千八百年もの時を生きてきたが、これほどまでに愛おしい光景を見たことがあっただろうか)
銀華はそっと自分の胸に手を当て、溢れ出す愛しさに口元を緩めた。
過酷な運命に弄ばれ、傷つき疲れ果てていたあの二人が、この幣立の地で勝ち取った幸福。そしてその幸福を受け継ぎ、すくすくと育つアルスと、これから生まれてくる幼い命。
(アルスよ、お前は良いお兄ちゃんになるぞ。私もしばらくは、この温かな家から離れられそうにないな)
銀華は優しく呟き、愛おしそうに家全体を包み込む結界の力を強めた。
しかし、その直後、銀華はふと視線を遥か遠く、幣立の森のさらに外側、日の本の広大な空の彼方へと向けた。その黄金色の瞳に、ごく一瞬だけ、旅人のような静かな光が宿る。
(この子たちが無事に育ち、自らの足で立ち上がるその日まで……私はこの愛おしい日常を守り抜こう。そしていつの日か、私自身もまた、己の課せられた運命の旅路へ出かけるとしよう)
ほんのわずかに気配を揺らめかせた銀華だったが、すぐにまた元通りの母性に満ちた穏やかな表情に戻り、愛する家族の頭上をそっと見守り続けた。
夕暮れ時、茜色の空の下で、増築のための立派な骨組みが早くも姿を現していた。
「パパ、明日も手伝うからね!」
「ああ、頼みにしているぞ、頼もしいお兄ちゃん」
汗を拭い、顔を見合わせて笑い合う父と子。その声を迎えるメイファの温かい手料理の匂いが、家の中に優しく漂っていた。
あたたかい温泉の湯気と、家族の弾けるような笑顔、そして新しい命への愛おしい祝福に包まれながら、幣立の我が家はまた一歩、確かな幸せの歳月を重ねていくのだった。




