山の探検と不思議な樹の実
朝靄が晴れ渡る幣立の森は、眩しいほどの新緑に包まれていた。
朝の稽古を終えたアルスは、小さな背中に竹籠を背負い、弾むような足取りで森の奥へと駆け入っていった。風を切るその足取りは、九歳になろうとする少年のものとは思えぬほど滑らかで、ほとんど地を蹴る音すら聞こえない。
「アルス、今日の風は東から吹いているぞ。木々の揺れをよく見て跳ぶのだ」
頭上の大木の枝から、からからと笑うような声が響いた。赤顔に高い鼻、羽衣のような装束を纏った天狗が、大団扇を片手に並んで空を滑っている。
「うん! わかったよ、天狗さん!」
アルスは無邪気に頷くと、巨大な杉の木の幹を蹴り、空中へと軽やかに跳び上がった。そのまま風の足場を拾うようにして次々と枝から枝へ飛び移っていく。天狗から教わった呼吸法と体さばきは、アルスにとって楽しい鬼ごっこの延長に過ぎなかった。
「相変わらず見事な身軽さじゃな。我が風の術をこれほど易々と我が物とにするとは」
滝壺から顔を出した白蛇が、澄んだ青い水面を揺らしながら穏やかに目を細めた。
「白蛇さま! 見て見て、あんな高いところに美味しそうな木の実がいっぱいなっているよ!」
アルスが指さしたのは、断崖絶壁の途中に自生する珍しい蔓草の果実だった。鮮やかな黄金色に熟した実から、甘い香りが漂っている。
普通の人間の大人であれば登ることすら叶わない切り立った岩壁を、アルスは壁面に指先とつま先を軽く引っかけるだけで、すいすいと登り切ってしまった。
「よし、たくさん採れたぞ。パパとママへのお土産にするんだ」
アルスは竹籠いっぱいに黄金色の木の実を詰め込み、満足そうに胸を張った。神々に愛され、自然の理をそのまま吸収していく少年の瞳には、純粋な喜びだけが輝いていた。
昼下がり、我が家の庭では、アルダシールが太い丸太に斧を振り下ろしていた。
パカン、と心地よい音とともに薪が二つに割れる。そこへ、山から戻ってきたアルスが元気よく駆け寄ってきた。
「パパ、ただいま! 見て、山で美味しい木の実をたくさん拾ってきたよ!」
「おかえり、アルス。ほう、これは見事な実だな。山深くでしか手に入らない珍しいものだ」
アルダシールは竹籠を覗き込み、感心したように我が子の頭を撫でた。あんな切り立った奥山まで一人で行って帰ってくるとは、実に頼もしい限りだ。
「パパ、ぼくも薪割りを手伝うよ!」
そう言ってアルスは、大人が使う小さな手斧を持ち上げた。
「無理をするなよ、アルス。薪割りは力任せでは割れん。木の目をよく見て、斧の重みを素直に落とすのだ」
「うん、やってみる!」
アルスはしっかりと足を踏ん張り、深呼吸をした。小さな腕にすっと気が満ちていく。斧が描いた軌跡は一切のブレがなく、丸太の中心を正確に捉えた。
スコーン。
乾いた快音が響き、硬い丸太が見事に真っ二つに割れた。切断面はまるで刃物で切ったかのように滑らかだった。
アルダシールは驚きに目を見張った。
(この芯の通り方、そして無駄のない腕の振り。教えられたコツをその場で完璧に再現してみせるとは)
我が子の持ち合わせた非凡なセンスに武芸者としての血が騒ぐのを感じつつも、アルダシールは優しく微笑んだ。
「見事な腕前だ、アルス。毎日元気に山を走り回っているおかげで、足腰がずいぶん鍛えられているようだな」
我が子はただただ健やかに、すくすくと育っている。そう信じて疑わない父親の表情は、どこまでも温かかった。
夕刻、家の中には甘く香ばしい匂いが立ち込めていた。
メイファはアルスが持ち帰った木の実を丁寧に洗い、削り節と山菜とともに煮込み料理を作っていた。手作りの木製食卓に鍋が運ばれると、アルスは待ちきれない様子で目を輝かせた。
「ママ、すごく良い匂い! これ、ぼくが山で採ってきた木の実だよね」
「ええ、アルスが頑張って採ってきてくれたから、とっても甘くて美味しいお料理ができたわよ。さあ、温かいうちにいただきましょう」
メイファが微笑みながらお椀に盛り付ける。
三人で囲む食卓は、終始笑い声に包まれていた。口の中でとろける木の実の甘みと、出汁の旨味が絶妙に調和し、稽古と山遊びで疲れた身体にしみわたっていく。
「本当に美味しいな、メイファ。お前の作る料理は、いつでも身体の奥から力を引き出してくれる」
「ふふ、ありがとうございます。アルスがたくさん食べてくれるのが何より嬉しいわ」
メイファは幸せそうに夫と息子を見つめていたが、ふと小さく息を吐き、自分の胸元にそっと手を当てた。
そのかすかな仕草に、アルダシールはすぐに気づいた。
「メイファ、どうかしたのか。少し顔色が赤いようだが」
「いいえ、体調が悪いわけではないのです。ただ、なんだか近頃、お腹の奥がじんわりと温かくて、とても優しい気持ちになるのです」
メイファは照れくさそうに微笑んだ。
その瞬間、屋根の上で見守っていた銀華の瞳が、優しく揺れた。
(ふふ、ついに来たか。あの小さな家庭に、新しい命の灯火が宿り始めておるわ)
銀華は風に羽衣をなびかせ、愛おしそうに家全体を包み込むように息を吹きかけた。
「パパ、ママ、どうしたの?」
不思議そうに首をかしげるアルスに向かって、アルダシールは温かい手をその肩に置いた。
「なんでもないよ、アルス。お前が兄らしく頼もしくなってきたことを、二人で喜んでいたのだ」
「えへへ、ぼく、もっともっと強いお兄ちゃんになるからね!」
胸を張る我が子の言葉に、夫婦は顔を見合わせて静かに微笑み合った。
幣立の夜は静かに更けていく。清らかな源泉の湯気と、家族のあたたかな笑い声に包まれながら、また一つ新しい幸せの予兆が、この豊かな地に芽吹き始めていた。




