あたたかいお湯と家族の笑い声
朝の清冽な光が、造り立ての木造の家屋にやわらかく降り注いでいた。
激しい木刀の稽古を終えたアルダシールとアルスは、母であるメイファの温かい心遣いに送られ、庭の奥にある風呂場へと向かった。そこは、近くの湧き出でる源泉から竹樋を通して引いた、我が家自慢の自家製温泉であった。
木枠の湯船からは、白い湯気が幾重にも立ち上り、杉の香りと温泉独特の心地よい匂いが漂っている。
「うわあ、気持ちいい。パパ、早く入ろう」
アルスは小さく跳ねるようにして湯船の縁に足をかけ、ゆっくりと湯に身体を沈めた。
「あせるなアルス。急に深く浸かると心臓に負担がかかる。足元からゆっくり浸かるのだ」
アルダシールもまた、我が子の隣に腰を下ろした。
山から引き込んだ温泉の湯加減は丁度よく、稽古で熱を持った筋肉を優しく包み込んで解きほぐしていく。かつて宮廷守護戦士として身を削り、地底世界で過酷な死闘を繰り広げてきたアルダシールにとって、我が子とともに静かな湯に浸かるこの一刻は、何物にも代えがたい極上の時であった。
「ふう、天国みたいだな」
アルスは湯船の縁に顎を乗せ、ぷはっと息を吐いた。その表情には、まだ幼い少年らしい無邪気さが満ち溢れている。
「どうだアルス。腕や足の疲れは抜けていくか」
「うん。すごく温かくて、体がじんと痺れるみたいに気持ちいいよ。パパ、こんな素晴らしいお風呂を自分の手で作っちゃうなんて、やっぱりパパは世界一すごいよ」
我が子からの誇らしげな言葉に、アルダシールは少し照れくさそうに口元を緩めた。
「私一人の力ではない。この地に豊かなお湯を恵んでくれた山々や、神々の加護のおかげだ。感謝の気持ちを忘れてはならんぞ」
「うん、わかってる。白蛇さまや天狗さんにも、今度お礼を言わなきゃね」
アルスは湯面を小さな手でパシャリと叩き、それから真剣な目でアルダシールを見上げた。
「ねえ、パパ」
「なんだ」
「ぼくね、これからもっともっと稽古を頑張って、強くなるよ。それでね、もしぼくに新しい妹や弟ができたら、ぼくが絶対に守ってあげるんだ」
小さな胸を大きく張って宣言するアルスの姿に、アルダシールの胸の奥が熱く揺れた。かつて言葉も覚えたてだった幼子が、いまや誰かを護りたいという尊い意志を抱くまでに成長している。
「そうか。お前が兄として頼もしくなってくれれば、私とメイファも心強い。だが、まずは自分自身を大切にすることだ。自分が健全でなければ、誰かを守ることなどできんからな」
「うん。パパの教え、ちゃんと覚えておくよ」
湯上がり、ふかふかの手ぬぐいで身体を拭いたアルスは、濡れた髪をたなびかせながら、真新しい廊下を元気に駆け出していった。
「こら、アルス。廊下を走ると滑って転びますよ」
メイファの優しい戒めの声が響く。しかしアルスは笑顔のまま「はいっ」と元気よく返事をし、自分だけに与えられた小さな子供部屋へと飛び込んでいった。
アルスの部屋には、アルダシールが手作業で削り出した木の机と椅子、そして丸太をくり抜いて作った玩具箱が置かれている。窓からは幣立の豊かな森と澄み渡る秋空が一望でき、爽やかな風が心地よく室内を吹き抜けていく。
「ぼくの、お部屋」
アルスは机の上に置かれた超古代文字の刻まれた木片を愛おしそうに撫で、木の椅子にちょこんと腰掛けた。そこは、小さな少年が大きな夢を膨らませるための、大切な聖域であった。
一方、台所で二人分の湯上がりのお茶を用意していたメイファは、子供部屋から聞こえてくるアルスの楽しげな足音を聞きながら、そっと胸に手を当てた。
その瞳には、熱い涙が静かに溜まっていた。
(ああ、なんてあたたかいのでしょう)
メイファは、深緑の森の風景を見つめながら、かつての過酷な逃亡の日々を思い出していた。
追手から逃れるため、冷たく暗い洞窟で凍える夜を過ごしたこと。明日の命さえ保障されない恐怖に怯え、息を潜めて荒野を彷徨ったこと。あの頃の自分たちにとって、雨風を凌げる屋根と温かい食べ物は、遠い夢のまた夢であった。
それが今では、自分たちの手で建てた頑丈な我が家があり、身体を芯から温めてくれる湯があり、毎日腹いっぱい食べられるご飯がある。そして何より、最愛の夫と、無邪気で賢い我が子の弾けるような笑顔がある。
「メイファ、どうした」
着替えを終えたアルダシールが、静かに台所へ入ってきた。目元をぬぐう妻の姿に気づき、心配そうにその肩へ手を置く。
「なんでもありません、あなた。ただ、あまりにも幸せで、胸がいっぱいになってしまったのです」
メイファは振り返り、愛する夫の強い胸に顔をうずめた。
「かつてあんなにも暗く恐ろしかった世界が、いまはこんなにも愛おしく、光に満ちています。アルスが自分のお部屋で喜んでいる姿を見るだけで、私は生きていてよかったと、心から思えるのです」
アルダシールは静かにメイファの背中を抱きしめた。地底世界での苦難をともに乗り越えてきた妻の深い苦労を誰よりも知っているからこそ、その言葉の重みが骨身にしみた。
「メイファ。お前に辛い思いをさせた歳月は、もう終わったのだ。これからは、ただこの穏やかな時を楽しめばいい」
アルダシールは窓の外の広い敷地を見渡しながら、優しく微笑んだ。
「アルスも言っていたが、これから家族が増えるかもしれん。その時は、私がまた木を切り出し、部屋を幾つでも増築しよう。この家を、どこよりも温かく賑やかな場所にしてみせる」
「ええ。楽しみにしていますね、あなた」
メイファは夫の顔を見上げ、心からの美しい笑顔を咲かせた。逃亡の中で失われかけていた彼女の笑顔は、いま完全に蘇り、家全体を照らす太陽のように眩しく輝いていた。
その頃、屋根の最も高い棟木の上では、透き通るような羽衣を纏った天女の姿、銀華が静かに腰掛けていた。
九本の真っ白な尾が、風になびいてふわりと揺れている。
銀華の黄金色の瞳は、屋根を透過して、子供部屋で嬉しそうに過ごすアルスと、仲睦まじく寄り添う夫婦の姿を温かく見つめていた。
三千八百年もの果てしない歳月を生き、タクラマカン砂漠の小河公主としての記憶を抱く銀華にとって、人間の生き様は儚く移ろいやすいものに過ぎないはずだった。
しかし、目の前で紡がれている小さな家族の営みは、銀華の心をどこまでも優しく解きほぐしていく。
(ふふ、本当に心地のよい家族じゃな)
銀華は自分の胸のあたりに手を当て、そっと呟いた。
自分の中にある感情が、単なる守護者としての関心を超え、我が子や孫の幸せを愛おしむ母親のそれに似ていることに、銀華は気づいていた。過酷な運命に翻弄されてきたあの二人だからこそ、この平穏な地に手に入れた幸福は何物にも代えがたい価値がある。
(アルス、お前の健やかな成長を見守ることが、いまの私の最大の愉しみじゃ。神々の教えを受け、大きな心を持った男におなり)
銀華は風の中にそっと指を滑らせ、家に優しく寄り添う結界の力を強めた。邪悪な気配を一切寄せ付けず、この小さな愛の巣窟を永遠に守り抜くために。
庭の木々の葉がさらさらと擦れ合い、温かい湯気が幣立の澄んだ空へと高く上っていく。
過酷な試練を乗り越えた家族が手に入れた幸せな晩年と、これから生まれ来る新たな命たちが紡ぐ賑やかな日々の幕開けが、この穏やかな朝から静かに始まろうとしていた。




