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泣くと思っていましたか?  作者: 九葉(くずは)


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最終話 用事のない話

件名の欄に私事と書かれた申立ては、調停局の書式では受理できない。


それでも中は読んだ。


申立人、レナート・オルシー。相手方、アニエス・ヴァルニエ。求める事項、用事のない時間を、月に一度。


理由の欄には、こう書いてあった。


先方は用事のある相手にしか会わない習慣を三年続けており、当方はその習慣の外に出たいと考えるため。


わたくしは書式を持って、マノン殿の机へ行った。


「受理できません」


「そうでしょうね」


「私事は調停局で扱いません」


「フォルジュ卿と同じことを言いますね」


マノン殿は書式を受け取って、封筒に戻した。


「これは私が預かります。返事は、あなたが個人でお書きなさい」


その夜、わたくしは机に向かった。


引き出しには紙が五枚入っている。オルシー男爵家の返書、調停局の書式、伯母の手紙が三通。


三年、この時刻に書いていたものには、必ず宛先の家名と、詫びるべき事柄と、相手の面子を潰さない言い回しが要った。


用事のない手紙には、そのどれも要らない。


書けたのは三行だった。


来月の第一週に、そちらへ伺います。湿地を見たいと思います。用事はございません。


翌朝、それを出す。書き直さなかった。


返事は四日後に来た。こちらも短かった。


お待ちしております。用事は、こちらにもございません。


秋の初めに、オルシー領へ行った。


馬車を降りてすぐ、地面が柔らかいのが靴の底に伝わった。


家々は、地面から一段高いところに建っている。柱の途中に、色の違う線が横に引いてあった。


「あれは何でございますか」


「水の来たところです」


レナート様は一番近い家を指した。


「上から順に、二十二年前、十七年前、九年前。九年前のが一番高い。あの年は父が家を三度持ち上げました」


線は、人の胸のあたりにある。


わたくしはそれをしばらく見ていた。


昨秋、四通目の詫び状にわたくしが書いた文は、この線を見ずに書いたものである。土地は人が生きる場所でございます、と書いた。


「アニエス様」


「はい」


「顔が、少し困っておられます」


「詫び状を、あと三通書き直したくなりました」


レナート様が笑う。


「当家は受け取りません。あの件は終わっております」


村の集会所で、領民の方々に会った。


年配の女の方が、水路の付け替えが三年止まった件について、丁寧に文句を言った。


「三年でございます。うちの孫が学校に上がるまでに、水が引くと聞いておりました」


「はい」


「あんたが止めたと聞いております」


「わたくしでございます」


「なぜ止めなさった」


わたくしは、数字の話をする。三月十一日の測量図のこと。七月の一日だけの測量のこと。三年分の数字がなければ、着工したあとで下流が乾いたときに、誰も責任を取れないこと。


女の方は最後まで聞いて、それからうなずいた。


「そうですか。分かりました」


「申し訳ございません」


「謝らんでよろしい」


その一言で、こちらの喉のあたりが少し動く。


「三年待つのは、こちらが決めたことでもあります。うちの人らが署名しましたのでな」


三年、誰かに謝る前に相手の言い分を先回りして読んでいた。


その日の夕方、オルシー男爵家の食卓に呼ばれる。


男爵は湿地の話しかしなかった。水が来る年の見分け方、家を持ち上げる順序、去年の泥の色。用事のない話が、二刻続いた。


わたくしは、ほとんど聞いていた。


三年、食卓でこういう話を聞いたことがない。侯爵邸の食卓では、翌週の予定と、誰と誰を同席させるかの確認しかしなかった。


「アニエス様は、静かにお聞きになる」


男爵がそう言う。


「話がお嫌いですか」


「いえ。聞くほうが慣れております」


「では、そのうち話す番も回ってきます。うちは長いので」


そのうち、という言い方をされたのも、久しぶりだった。


食後、レナート様と外に出る。


日が落ちて、水路の面が銀色になっている。虫の音がしていた。


「返事を、まだ伺っておりません」


「申立ての件でございますか」


「あれは受理されなかったと聞きました。ですので、私事として伺います」


その方はこちらを見ない。水路のほうを見ている。


「私は、あなたに当家へ来ていただきたいと思っています。ただ、条件があるとお考えでしたら、先に伺いたい」


「二つございます」


「どうぞ」


「一つ。調停局の席は続けます。王都と、こちらと、両方に住むことになります」


「はい」


「二つ。オルシー男爵家に、詫び状を書く役目を作らないでいただきたいのです。書けと言われれば書けます。書けますので、頼まれると引き受けます」


レナート様はそこで初めてこちらを見た。


「当家は、詫びは本人が書きます」


「はい」


「父の代からそうです。下手でも本人が書く。だから四通目まで、当家からは一通も出ませんでした」


「存じております」


「ほかには」


「ございません」


その方は少し考えるふうにして、それから言う。


「では、私からも一つ」


「はい」


「泣かない人だと、あなたはご自分をおっしゃる。私はそれを直そうと思っておりません。ですが、腹が立ったときには、私に腹を立ててくださって構いません」


水路のほうで、何かが一度跳ねた。


「レナート様」


「はい」


「今、少し腹が立っております」


「どのあたりでしょう」


「三年前に、こういうことをどなたも申し上げてくださらなかったことに」


「それは私にではありませんね」


「はい。ですが、腹を立てる相手をどこかに置きませんと、置き場がございません」


「では、私が持ちます」


「よろしいのですか」


「三年分でしたら、少し重いでしょうが」


「二十七件でございます」


「では、置く場所を広く取ります」


その方はそう言って、手のひらを上に向けた。差し出したのではない。置いてもよい、という形だった。


わたくしは、そこに自分の手を置いた。


冬の初めに、調停局で新しい取り扱いが定まった。


家の者が本人に代わって詫びを述べる場合、本人の署名を添えること。署名のない代理の詫びは、相手方が受け取りを拒める。


条文を起草したのはわたくしである。三年分の書き挟みを、一度も開かずに書いた。開く必要がなかった。全部覚えている。


マノン殿は一行だけ直した。相手方が拒める、を、相手方は拒んでよい、に。


「拒めると書くと、拒む力のある家しか使いません」


王都では、その取り扱いを二十七条と呼ぶ人がいる。条の番号は違う。数を知っている誰かが、そう呼び始めたらしい。


ドレスデ侯爵家のことは、人づてに聞くだけになった。


侯爵が自分で回っているという。ロベール男爵夫人のところへは、五度目でようやく通されたそうだ。ユリアン様は領地に入られた。夜会には出ておられない。


わたくしは、そうですか、と答える。それ以上のことは、もう出てこない。


シャルロット様からは、季ごとに手紙が来る。


文がだんだん短くなっている。最初の一通は五枚あった。この前のものは一枚半だった。


モンフォール伯爵家との縁談は、戻らなかった。別の話が来ているとも、来ていないとも書いていない。書いていないことは聞かないでおく。


父は、手紙を自分で書き続けている。


わしの返事は長い、と本人が言う。長いままでよいと思う。三年、わたくしが短く整えていた父の言葉は、たぶん父のものではなかった。


伯母への返事を書いたのは、その冬である。


情がないのではありません、と伯母は書いていた。わたくしはそこから始めた。


伯母上のお手紙を、この秋に読みました。八つのわたくしは、弔問の順を母から教わったのではございません。母がそうしているのを、横で見て覚えました。


返事は月末に来る。一行だった。


読みました。会いに行きます。


婚礼は、湿地の集会所で行った。


王都から来たのはマノン殿と父と、シャルロット様の三人である。招きは十二通しか出さなかった。名簿は作らなかった。誰と誰を同席させてはいけないかを、この土地の人たちは自分で知っている。


父は式のあいだ、ずっと集会所の柱を見ていた。


「お前は、水の来る家に住むのか」


「はい」


「そうか」


それだけである。三年前、侯爵家に嫁ぐ日には、父はもっと長く話した。


春に、わたくしはオルシー男爵家に入った。


湿地の家である。柱には線が引いてある。台所の窓から、水路の目盛りが見える。


朝、その目盛りを見るのが、こちらの家の習慣だった。誰かが読んで、誰かに伝える。伝えるだけで、誰も謝らない。


夕食のあと、男爵が去年の泥の色の話をする。今年も同じ話である。


レナート様は、その話を毎年聞いているのに、毎年うなずく。


わたくしも、うなずく。それから、時々は自分の話をする。話す番が回ってくるというのは、本当だった。


寝る前に、レナート様が窓の下の目盛りをもう一度見に行く。毎晩である。見に行っても何も変わらないと本人も知っている。


「今日は」


「二寸下がりました」


「よろしゅうございました」


「明日も見ます」


用事のない話が、こうして一日の終わりに一つ残る。


その夜も、わたくしは泣かなかった。


それを直そうとする人は、もうどこにもいない。

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