第九話 泣くと思っていましたか
王宮の大広間に、公卓が出ていた。
初夏の夜会は、ドレスデ侯爵家の主催である。春の夜会には、四十通の返事が来なかった。今夜は、その倍が来ていない。
わたくしは調停局の席についた。卓ではなく、壁際の低い机である。今夜は記録役ではない。マノン殿の隣に、立ち会いとして座っている。
「本日の公卓は、儀典局の求めによるものです」
フォルジュ卿が広間の前に立った。
「先の調停において、ドレスデ子息はオルシー男爵家に対する発言を、冗談であると述べられました。この一言は儀典局の記録に残っております。記録に残った以上、公の場で処理されねばなりません」
広間が静かになった。三百人はいない。百に足りるかどうかである。
来ていない家の名を、わたくしは数えずにいられなかった。ロベール男爵家。王宮の楽長。楽長の下で弦を弾く五家。楽長が来なければ、その五家も来ない。三年、その順序を組んでいたのがわたくしである。
「ドレスデ侯爵家。ご準備を」
侯爵が先に立った。それから、ユリアン様が卓の前に出た。
上着は新しかった。仕立て直したものではないと分かる。
「オルシー男爵家に申し上げます」
オルシー男爵と、レナート様が卓の向こうに立っている。
「昨秋、狩猟の集まりで、私は貴家の湿地について、人が住んでいるのが不思議だと申しました」
ユリアン様の声が一度切れた。
「私は、湿地を見たことがありません。水が家の中まで来るということも、費用を領民が出すということも、先の調停で初めて知りました。知らないまま笑いました」
「知らないことを笑ったのが、私の落ち度でございます。詫び申し上げます」
短かった。三年間わたくしが書いてきた文の、三分の一もない。
言い回しは整っていない。土地は人が生きる場所である、という一節もない。あれはわたくしが四通目に入れた文で、この方はそれを暗記していた。今夜は使わなかった。
けれど、これはこの方の言葉である。
オルシー男爵が一度うなずいた。
「承りました。当家は、この件を終わりといたします」
レナート様は何も言わなかった。
フォルジュ卿が書記に合図をする。それで済むはずだった。
「もう一つ、申し上げたいことがございます」
ユリアン様が卓の上に手を置く。
フォルジュ卿が眉を寄せた。
「本日の公卓の議題は一件です」
「私事です。ですが、この場でしか申し上げられません」
侯爵が息子の肩に手を伸ばしかける。ユリアン様はそれをかわして、広間のほうへ向き直った。
そして、わたくしのほうを見た。
「アニエス・ヴァルニエ嬢」
百人分の顔が、一斉にこちらへ動く。
三年、この方は同じことをする。人の集まる場所を選ぶ。二月前は破棄のために、今夜は取り戻すために。使う場所が同じであることに、この方は最後まで気づかない。
「二月前、私はこの形の卓で、貴女との婚約を破棄すると申しました。あれは私の誤りでした。誤りであったと、この場の皆様の前で申し上げます」
わたくしは立たなかった。マノン殿も動かない。
「私は貴女を試しておりました。三年、貴女が泣くのを待っておりました。泣かないのは愛がないからだと思っておりました。違いました。私が」
そこで言葉が詰まった。
「私が、貴女に何も返さなかっただけでした」
広間のどこかで、扇の音がする。
「アニエス。もう一度、私と」
ユリアン様の声が途中で止まった。止まってから、その方は泣いた。
百人の前で、公卓の白い布の前で。
広間が待っている。
二月前と同じである。あの夜、この人たちはわたくしが崩れるのを待っていた。今夜は、わたくしが折れるのを待っている。泣いている男を前にして、女が何と答えるか。それが今夜の土産になる。
わたくしは立ち上がる。
「ヴァルニエと申します。調停局の立ち会いとして参りましたので、その名で申し上げます」
「ユリアン様。二月前のあの夜、あなたはわたくしが泣くと思っておいででした」
「アニエス」
「今夜は、あなたが泣けば、わたくしが戻ると思っておいでですね」
ユリアン様が顔を上げた。
「泣くと思っていましたか」
その一言を、わたくしは広間に向かって言う。
「あの夜も、今夜も、同じことをなさっております。あなたは涙で人が動くとお思いです。三年、わたくしから引き出そうとなさって、出てこないので、今度はご自分でお出しになった」
「わたくしは泣きません。泣けないのではなく――泣く必要が、もうございませんので」
ユリアン様は何も言わなかった。
八つのころ、伯母に情がないと言われました、とは申し上げなかった。二十年そうして四十二で死んだ人がおります、とも申し上げなかった。この場の百人に渡すものではない。
「二月前、わたくしが泣きましたら、あの宣言は冗談になっておりました。冗談になれば、四年目の冬に同じことが起きております。そのとき呼ばれる方も決まっておりました」
わたくしは広間の左のほうを見た。
シャルロット様が立っていた。ベルモン子爵の隣ではなく、少し離れたところに、一人で。
その方が一歩前に出る。
「わたくしでございます」
広間が動いた。
「ベルモン子爵家のシャルロットと申します。三年、わたくしはユリアン様に呼ばれて、アニエス様の前に出ておりました。指輪の意匠も、夜会の同伴も、すべてそうでございます」
「シャルロット」
「わたくしは断りませんでした。父の領境の件がございましたので。断らなかったことについては、モンフォール伯爵家の当主夫人へ、先月わたくし自身の手で書きました」
その方の声は震えていた。震えたまま、最後まで言い切る。
「本日申し上げますのは、四年目の冬に呼ばれるのがわたくしであったという一点でございます。それだけを申し上げに参りました」
シャルロット様は一歩下がった。
広間の空気が、そこで変わった。
二月前、この人たちはわたくしを気の毒な娘として見ていた。今夜、同じ人たちが、公卓の前に立っている男を見ている。見方が変わったのは、わたくしが何かを言ったからではない。
三年、わたくしが消してきたものが、消えないままそこに立っている。ただそれだけのことだった。
「ドレスデ子息」
フォルジュ卿の声だった。
「議題は一件でございました。私事は、公卓で扱うものではございません」
「卿」
「貴殿は二月前も、私事を公卓でお使いになった。同じことを二度なさった。それが本日の記録に残ります」
ユリアン様は卓の縁を掴んだ。
侯爵が、ようやく息子の腕を取った。
「ユリアン。もうよい」
「父上」
「もうよい」
侯爵の声は低い。低いまま、広間の端まで届いた。
「二月前、わしはお前に何も言わなかった。今夜は言う。この方は、三年うちの家の詫びを一人で書いておられた。その方に向かって、お前は今、四度目の頼み事をしておる」
ユリアン様が父親を見た。
「一度目は書斎で。二度目は儀典局で。三度目は調停局で。今夜が四度目だ。わしが知るだけで四度、お前は自分から何ひとつ差し出しておらん」
侯爵がわたくしのほうへ向き直って、頭を下げる。
侯爵が伯爵家の娘に下げる角度ではなかった。
「ヴァルニエ嬢。当家より、これ以上のお願いはいたしません」
わたくしは礼を返した。
その夜、公卓が閉じられる。オルシー男爵家の件は終わり、私事は記録に残り、それだけだった。
広間を出る前に、レナート様が近くまで来た。
「何もいたしませんでした」
「はい」
「一度、出ようとしました。フォルジュ卿が先に言われたので、やめました」
「出られたら、困っておりました」
「そう思いましたので」
その方が少し笑う。
「あなたが、ご自分で終わらせる場でしたので」
「一つ、伺っても」
「はい」
「わたくしが折れると、思われましたか」
「いいえ」
「では、なぜ出ようとなさいました」
「あの方が四度目を言い出したときに、腹が立ちました。それだけです。勘定に入れておりません」
腹が立った、と言った人は、三年で初めてだった。
広間を出た。二月前と同じ扉である。
夜気が首筋に触れた。
あのときは、明日の朝することを数えようとして、数えるものがなかった。
今夜は、数えなかった。数える癖のほうが、先に消えている。
馬車まで歩いて、扉の留め具を自分で確かめた。バルトはもういない。
翌朝、調停局の机に、オルシー男爵家からの新しい申立てが置かれていた。
差出人は、レナート・オルシー。
件名の欄には、私事、と書いてあった。




