第八話 似ているところ
「母さんは、お前の前で一度も泣かなかった」
父は椅子に座らず、書斎の窓のところに立っていた。
「はい」
「わしの前でも泣かなかった。二十年で二度だけだ。二度とも、お前の生まれる前だ」
机の上に、古い手紙が三通並べてある。
「これは、お前の伯母さんからだ。母さんが死んだ年の秋に来た」
「拝見してもよろしいですか」
一通目を開いた。
妹の葬儀で、アニエスが客の応対をしておりました。八つの子が、弔問の順を間違えずに通しておりました。誰が教えたのですか。
二通目。
あの子が泣かないのを、義兄上は褒めておいででした。よく気がつく子だと。妹も、生前まったく同じように言われておりました。
三通目は短かった。
情がないのではありません。使われているのです。妹は二十年そうして、四十二で死にました。
紙を置く。
「伯母さんは、葬儀の日にお前を見て、母さんと同じになると思ったそうだ」
「情がないのね、と言われました」
「それを言った覚えがあると、その手紙に書いてある。言い方を間違えたと」
父は窓の外を見ていた。
「わしは、この三通に返事を書かなかった」
「はい」
「書けなかったのではない。書く必要がないと思った。あのころ、家の中はお前が回しておった。八つの子が回している家は、外から見れば整っておる。整っているものに返事は要らんだろう」
「はい」
「三年前、侯爵家から縁談が来たとき、わしはお前に向いていると思った。あちらは社交の家だ。お前は気がつく。よく回るだろうと」
わたくしは手紙の端をそろえた。
「母さんは、死ぬ半年前にわしに言った。アニエスの気がつくところを褒めるな、と」
「なんとお答えになりましたか」
「意味が分からんと答えた。それきりだ」
父が窓から離れて、机の向こうに座る。
「昨日、侯爵家からの手紙に返事を書いた。長くなったので、二度書き直した」
「はい」
「三度目でようやく短くなった。三年、お前がやっていたのはこれか」
「そうでございます」
「一通で二日かかった。お前は二十七件やったのか」
「はい」
父は手のひらで顔を一度こすった。
「わしは、お前に何も聞かなかったな」
「お尋ねになりませんでしたので」
そう答えようとして、やめる。父には別の答えを渡すことにした。
「お聞きになっても、わたくしは大丈夫だと申し上げたと思います。三年、誰にもそう申しておりました」
父がうなずく。それから、三通の手紙をこちらへ寄せた。
「持っていきなさい」
「はい」
自分の部屋に戻って、机の引き出しを開けた。オルシー男爵家の返書と、調停局の書式と、伯母の手紙が三通。
五枚になった。
その夜、わたくしは泣かなかった。
泣かないまま、伯母の三通目をもう一度読んだ。使われているのです、というところで、指が止まった。
母のことを、わたくしはあまり覚えていない。覚えているのは手のほうである。書き物をしていた手。誰かの名前を書き直していた手。八つのわたくしがそばに立っていると、書きかけの紙を裏返す手。
母も、用事のない話をしない人だった。
翌週、湿地の水利の協議が調停局に持ち込まれた。
オルシー男爵家と、隣接する三家。水路の付け替えを巡って、去年から止まっている案件だった。
「あなたが担当します」
マノン殿はそう言って、書類の束を置く。
「オルシー男爵家が当事者でございます」
「あなたはあの家と、婚約関係にも雇用関係にもない。忌避の理由になりません」
「先方の代理は」
「レナート・オルシーです」
わたくしは書類を受け取った。
「一つ伺っても」
「どうぞ」
「なぜ、わたくしに」
「三家側の代理人は、去年から同じ主張を三度繰り返しています。前の担当は三度とも、双方の顔を立てて先送りにしました」
「収めた、ということでございますね」
「四度目は要りません」
協議は三日にわたる。
三家側の主張は、オルシー領の水路付け替えによって、乾季の水量が下流で減るというものだった。
二日目の午後、オルシー側の測量に不備が見つかる。
「オルシー男爵家。二年前の測量図の日付をご確認ください」
レナート様が図面を持ち上げた。
「三月十一日です」
「その年の三月は、雨が二十日ございました。乾季の水量を測る図としては使えません」
部屋が静かになった。三家側の代理人が身を乗り出す。
「では、オルシー側の数字は無効ということですな」
「無効ではございません。使えないというだけでございます。三家側の数字も、測量が七月の一日だけでございますので、同じく使えません」
「こちらは」
「乾季の水量は、月に三度、三年分を測るのが調停局の基準でございます。どちらもございません」
わたくしは書式を出した。
「今季から三年、双方立ち会いのもとで測り直しを行います。それまで、水路の付け替えは着工されません。三年後、数字が出た時点で改めて協議いたします」
三家側の代理人が声を上げる。
「三年も待てと」
「はい」
レナート様は何も言わなかった。
三家側の代理人は、それから半刻ほど抗弁する。基準の条文を読み上げ、期日の短縮を求め、最後に、こちらの領民の生活はどうなるのかと言った。
「その問いは、オルシー男爵家の領民にも同じく立ちます」
「あちらは湿地だ」
「湿地に人が住んでおります」
代理人は口をつぐんだ。レナート様はこちらを見なかった。見れば、わたくしがオルシー側に立ったことになる。二日目のうちに、その方はそれを理解していた。
三日目の終わりに、双方が書式へ署名する。
協議室を出たあと、レナート様が廊下でこちらを待っていた。
「アニエス様」
「本日は、そちらに不利な裁定を出しました」
「はい」
「お恨みでしたら、伺います」
「三年、家が沈むという意味では、こちらの損です」
「はい」
「ですが、二年前の測量図を出したのは私です。日付を確かめずに出しました。あなたが指摘しなければ、こちらは三家側に押し切られたときに、その図で争っておりました」
レナート様が窓のほうを見る。
「負け方が変わりました。それは損ではありません」
わたくしは、何と答えるべきか分からなかった。
「一つだけ、申し上げてよろしいですか」
「はい」
「私は、あなたに当家を有利にしていただきたいと、一度も思いませんでした」
「存じております」
「ご存じでしたか」
「二日目に、レナート様は測量図の日付をご自分から言われました。三月十一日と。隠す気のある方は、日付を先に読み上げません」
そう言うと、その方が少し黙る。
「では、別のことを申し上げます。仕事ではない話です」
「はい」
「今日で、当家の案件は三年止まりました。あなたと卓を挟む用事が、しばらくありません」
廊下の窓が開いていて、下の中庭から水を撒く音がする。
「用事がないと、お会いできないのでございましょうか」
三年、わたくしは誰にも用事のない話をしなかった。用事があるから伺い、済んだら帰った。そういう順序でしか人に会っていない。
「私はそれを伺いに来ました。あなたに先に言われました」
「申し訳ございません」
「いえ。順序は、どちらが先でも構いません」
「返事は急ぎません。オルシー家は待つのが上手だそうですので」
「マノン殿がそう言っておられましたね」
「あの方は、こちらから来られる方でございます」
「では、私はどちらにいたしましょう」
わたくしは少し考えた。
「今度は、わたくしから伺います」
家に帰る馬車の中で、膝の上に何も置いていないことに気づいた。
書類も、詫び状も、書き挟みもない。
三年ぶりだった。
三日後、王宮から初夏の夜会の知らせが来る。調停局宛ではなく、アニエス・ヴァルニエ個人宛だった。
主催は、ドレスデ侯爵家となっていた。




