第七話 六つ
返事は三行で書いた。
面会に応じます。場所は調停局の第二卓。記録役の同席と、半刻の区切りを条件といたします。
マノン殿はそれを読んで、一箇所だけ直した。半刻を、四半刻に。
「初めての拒絶は短いほうがよろしい。長いと、相手は交渉だと思います」
「もう一つ。あなたは今日、卓に着きます」
「忌避を出しております」
「あれは侯爵家の申立てへの忌避です。今日はあなた個人が求められている。忌避する当事者がいません」
「わたくしが当事者でございます」
「ですから、着くのです」
当日、ユリアン様は供を連れずに来た。
上着は公卓の夜と同じものだった。襟の折り返しが少し伸びている。
卓を挟んで座る。記録役はマノン殿が呼んだ若い書記で、わたくしは今日、卓のほうに着いている。
「アニエス」
「ヴァルニエと申します。この場では」
ユリアン様は言い直さない。
「二つ頼みがある」
「伺います」
「一つ目。儀典局に、あの書面は書式の誤りだったと言ってほしい。君が言えば通る」
「通りません。わたくしが申し上げても、侯爵様の署名がない事実は変わりません」
「では二つ目だ」
その方が卓の上で手を組む。
「戻ってきてくれ」
書記の筆が動いた。
「理由をお聞かせください」
「理由」
「はい。申立ての要件でございます。何を求め、なぜ求めるか。書面に残りますので」
ユリアン様はしばらく黙っている。
「君がいないと、何もできない」
「はい」
「はい、とは何だ」
「三年かけて、そうおなりになりました」
その方は口を開けて、それから閉じる。
マノン殿が横から言う。
「ドレスデ子息。この四半刻のあいだに、失ったものを順に述べていただけますか。申立ての背景として記録します」
「なぜそんなことを」
「戻ってきてほしいという求めは、失ったものの回復を意味します。何を回復されたいのかが分からなければ、記録できません」
ユリアン様はわたくしを見た。
わたくしは書記のほうを見ていた。
「……ロベール男爵家」
「はい」
「王宮の楽長」
「はい」
「オルシー男爵家」
そこで一度止まる。
「儀典局の、署名の資格」
「はい」
「ベルモン子爵家との、縁談の話」
「縁談がおありでしたか」
「なかった。だが、そういう話が出るはずだった」
書記の筆が動いた。
「あと一つある」
ユリアン様が卓を見る。
「今季の夜会だ。うちが主催する春の夜会に、今年は返事が四十通来なかった。父上が数えた」
四十。
三年、あの夜会の招待は百二十通出していた。名簿を作ったのはわたくしである。誰と誰を同じ日に呼んではいけないか、どの家に何年前の何を詫びていないか、全部そこに書いてあった。
その名簿は、書き挟みと一緒に置いてきた。
「四十通のうち、十一通はロベール男爵夫人がお声がけになる先でございます」
「なぜ知っている」
「夫人が声をかけてくださるので、その十一家は毎年お受けくださっておりました」
ユリアン様は何か言おうとして、やめた。
砂の落ちる音がしないのが、この部屋の作りである。落ちきったかどうかは、目で見るしかない。ユリアン様は一度もそちらを見ない。三年、時間を気にしたことのない方だった。
「六つでございますね」
「……六つだ」
「二十七件でございました」
ユリアン様が顔を上げる。
「わたくしが三年で収めましたのが、二十七件。ただいま六つお挙げになりましたが、そのうちわたくしが収めた家は三つでございます。残りは二十四ございます。まだお気づきでないだけでございます」
その方は何も言わなかった。
四半刻の砂が、半分より下に落ちている。
「アニエス」
「はい」
「あの夜、泣いてくれれば、こんなことにはならなかった」
三年、この方の話はいつもここに帰る。原因は自分の外にある。わたくしが泣かなかったから、こうなった。
「泣きましたら、どうなっておりましたでしょう」
「冗談だと言った。すぐに」
「そのあとは」
「そのあとは」
「四年目の冬でございます。次は何をお試しになるおつもりでしたか」
ユリアン様は答えなかった。
「わたくしがあの夜泣いておりましたら、今ここに座っておりますのは、わたくしではございません。シャルロット様でございます。四年目の春に、あの方がまた呼ばれておりました」
そして、泣いた。
肩が動いて、息の音が変わる。書記の筆が一度止まって、それからまた動いた。マノン殿は何も言わない。
わたくしは、それを見ていた。
三年待たれていたものが、今、卓の向こう側から出ている。
不思議なほど、何も起きなかった。胸のあたりも、手も、静かなままだった。
一年目の冬、母の手紙が燃えたとき、わたくしはこの方に泣いてほしかったのだと思う。灰を掃きながら、そう思った覚えがある。今日、その方が泣いている。順番が三年ずれた。
ずれた三年のあいだに、こちらの側で何かが終わっていた。
「アニエス。すまなかった」
「はい」
「本当だ。全部、私が悪かった」
「はい」
「だから」
「ユリアン様」
わたくしは、その方の言葉を初めて途中で止める。三年、一度もしなかったことだった。
「お詫びは受け取ります」
顔が上がった。
「受け取りますが、お返しはいたしません。詫びは、受け取った側が何かを返すものではございませんので」
「それは、どういう」
「戻りません」
書記の筆が長く動く。
「わたくしが戻れば、二十四件はまた表に出ずに済みます。ロベール男爵夫人へも、わたくしが伺えば半年で片づきます。侯爵家は元に戻ります」
「なら」
「ですが、そのときには、あなたはまだご自分の言葉で詫びたことが一度もない方のままでございます」
部屋が静かになった。
「三年前、わたくしはそれを、あなたのためだと思っておりました。今は思っておりません」
「私を、見捨てるのか」
「見捨てておりません。お渡ししないだけでございます」
「渡す、とは何を」
「わたくしの手でございます。三年、あなたはそれを使っておいででした。今日からは、ご自分の手をお使いくださいませ」
砂が落ちきった。
マノン殿が立ち上がる。
「四半刻でございます。本日の面会は以上といたします。ドレスデ子息、求めは記録されました。応じられなかったことも記録されます」
ユリアン様は座ったままだった。それから、上着の袖で顔を拭いて、立ち上がった。
出ていくとき、一度もこちらを見ない。三年で初めてのことだった。
廊下に出ると、ドレスデ侯爵が壁際に立っていた。
「ヴァルニエ嬢」
「侯爵様」
「一つだけ聞きたい」
「はい」
「三年、なぜ言わなかった」
わたくしは少し考える。それから答えた。
「お尋ねになりませんでしたので」
侯爵はしばらくそのまま立っていた。
「昨日、家令を替えた。バルトが辞めると言ってきた。あれは二十年おった」
「さようでございますか」
「辞める理由を聞いたら、伺う相手がいないから、と言われた。私は意味が分からなかった」
「はい」
「今も分かっておらん。だが、分かっておらんということだけは分かった」
「侯爵様」
「なんだ」
「バルトは、二十年で一度も品の選び方を間違えておりません。四月の件は、ユリアン様のご指示どおりに出したものでございます」
侯爵が壁のほうを見る。
「あれは、そうは言わなかった」
「申しませんでしょう。二十年おりますので」
「……そうか」
そう言って、その方は礼をした。
わたくしも礼を返す。
その日、調停局の記録に、面会の結果が一行で残った。
申立人の求めは相手方に拒絶された。相手方に応じる意思なし。
一行である。三年分が、一行になった。
夕方、家に帰ると、父が書斎の扉を開けて待っていた。
「アニエス。今夜は少し話がある」
「はい」
「母さんの話だ」




