第六話 卓の向こう
最初の仕事は、その案件を担当できないと申し出ることだった。
「理由を書きなさい」
マノン殿が表書きを裏返す。白いほうがこちらへ向く。
「三行で。長い忌避は、担当したい者の書き方です」
わたくしは書いた。
当該案件の申立人と、三年間の婚約関係にあった。申立人側の過去の詫び状のうち、二十七件は自分が起案した。調停役として卓に着けば、相手方は詫びの文面を疑う。
マノン殿はそれを読んで、机の右に置く。
「よろしい。あなたは卓に着きません」
「はい」
「記録に着きなさい」
顔を上げた。
「記録役は発言しません。問われても答えません。書くだけです。あなたが三年やっていたことを、他人がやるところを見なさい」
「もうひとつ」
「はい」
「記録役は、卓の話が自分のことに及んでも書きます。自分が誉められても、貶されても、同じ速さで」
「できる人は少ない。あなたは三年、自分のことを書かずに他人のことばかり書いてきた。今度は自分のことも書くことになります」
調停は三日後だった。
長い卓がひとつ。中央にマノン殿。片側にドレスデ侯爵とユリアン様。向かい側に、オルシー男爵家の代理としてレナート様が座っている。
わたくしの席は卓ではなく、窓を背にした低い机だった。
「本日の申立ては、ドレスデ侯爵家より。三件の仲介の求め」
マノン殿が読み上げる。
ひとつ、ロベール男爵家。返礼の辞退および面会の拒絶について。
ふたつ、王宮楽長。次季の演目における侯爵家の名の扱いについて。
みっつ、オルシー男爵家。昨秋の失言に関する未決の件について。
「相手方は本日、オルシー男爵家のみが出席。他二件は書面での回答となります」
書面が二通、卓に置かれた。マノン殿が順に読む。
ロベール男爵家。仲介を要さず。当家はドレスデ侯爵家に対し何も求めておらず、また今後何も受け取らない。
王宮楽長。次季の演目はすでに確定している。
侯爵が咳をした。
「マノン殿。この二件は、話し合いの余地があるのではないか」
「余地があるかどうかを申し立てるのは相手方です。侯爵家ではございません」
「しかし、ロベール男爵家とは長い付き合いだ。何かの行き違いがある」
「行き違いの中身をご存じですか」
「二度目の祝いが、先方の弟君の婚礼と重なったと聞いている」
「重なったのではなく、取り違えでございます。書面にはそう記されております」
侯爵は答えなかった。
わたくしは筆を動かした。侯爵、返答なし。
半年かけて納めていただいた品は、四十日前にこちらへ返ってきた。返した理由を、ロベール男爵夫人は書いていない。書かないことが返事である。それを読める人が、あの家にはもういない。
「では三件目に移ります。オルシー男爵家」
「当家は仲介を求めておりません。侯爵家が申し立てたので出席しました」
「では何を求めておられる」
「昨秋、狩猟の集まりで、当家の湿地について言われた言葉があります。それを言った当人からの一言です」
侯爵がユリアン様のほうを見る。
ユリアン様は卓の木目を見ている。それから顔を上げた。
「あれは冗談です」
マノン殿の筆が止まる。わたくしの筆は止めなかった。
ドレスデ子息、冗談であると述べる。
「今の一言は記録に残ります。取り消されますか」
「取り消しません。事実、冗談でしたので」
「オルシー男爵家。いかがなさいますか」
「当家の領民は、その冗談の中に住んでおります」
レナート様の声は大きくならなかった。
「湿地は水が高い年には床上まで来ます。父の代で三度、家を持ち上げました。持ち上げる費用を出したのは領民です。あの集まりで笑った方々のうち、水を見たことがあるのは一人もおりません」
ユリアン様が何か言いかけた。侯爵が先に言った。
「ユリアン。詫びなさい」
「父上」
「詫びなさい」
ユリアン様が立ち上がる。それから、卓に向かって頭を下げた。
「当家の者の軽率な発言により、貴家の領地とご領民に対し、重ねてご不快をおかけいたしました。土地は人が生きる場所でございます。それを軽んじる言葉は、家名の軽さとして返ってまいります。深くお詫び申し上げます」
部屋が静かになった。
レナート様が、わたくしのほうを見る。ほんの一度だけである。
わたくしは筆を止めなかった。
その文面は、去年の秋、わたくしが四通目に書いたものだった。この方は届いた控えを読んだのではない。三年間、わたくしが書いたものを聞いて覚えていた。
「ドレスデ子息」
レナート様が言った。
「それは、昨秋に当家へ届いた四通目の文でございます」
ユリアン様は下げた頭を上げた。
「同じ趣旨ですので」
「当家が待っておりましたのは、趣旨ではありません」
「では何を書けばいいのですか」
「書かなくて結構です。ご自分の言葉で言っていただければ」
ユリアン様が黙る。
長い沈黙だった。わたくしは筆を持ったまま、書くことがないので何も書かなかった。
沈黙の長さでいえば、この方が三年で一番長く黙ったのは、母の手紙を燃やした翌朝である。あのときは十日ほど続いた。十一日目に、この方は何事もなかったように狩りの話をした。
三年、この方が言葉に詰まったときに何が起きるかを、わたくしは知っている。
「アニエス」
マノン殿の声が先に出た。
「記録役に発言はございません」
「彼女は知っている。三年、この家の詫びは全部あれが」
「記録役に発言はございません」
ユリアン様はわたくしを見ている。わたくしは筆先を紙に置いたままで、顔を上げなかった。
与えないというのは、こういう形をしている。
「ドレスデ侯爵。本日の調停は不成立といたします」
マノン殿が書面を閉じた。
「三件とも、相手方に応じる意思がございません。次の申立ては、当主の名で、かつ相手方が求めている中身を記載のうえ提出してください」
「求めている中身とは」
「一件目は、なぜ品が二度届いたかの説明。二件目は、演目に名を出さなくてよいという承諾。三件目は、ご子息ご自身の言葉です」
出ていくとき、ユリアン様が一度こちらを振り返る。わたくしは記録の束を揃えていた。揃え終わるまで、顔は上げなかった。
扉が閉まる。
マノン殿が席を立って、わたくしの机の横に来る。
「筆が止まりませんでしたね」
「はい」
「あの文が誰のものか、あなたは知っていた」
「はい」
「腹は立ちましたか」
考えて、答えた。
「立ちませんでした。あの文は、もうわたくしのものではございませんので」
マノン殿は何も言わずに、記録の束を受け取って出ていく。
廊下に出ると、レナート様が窓のところに立っている。
「お待たせしました」
「いえ。ご苦労さまでございました」
「ひとつ、お詫びを」
「なんでございましょう」
「あの文が四通目だと申し上げるとき、私はあなたのほうを見ました。見るべきではなかった。あの場のあなたは記録役です」
「気づいておられましたか」
「見た瞬間に。あなたが筆を止めなかったので、余計にそう思いました」
「止めますと、記録が飛びますので」
「そうではなく」
レナート様が言い直す。
「止めれば、あの方はまだ何か引き出せると思う。あなたはそれをご存じで止めなかった」
「ひとつ伺っても」
「はい」
「本日、当家の代理として、わたくしはあの方に言葉を求めました。求めておいて、出てこないと分かっていた」
「はい」
「意地が悪いでしょうか」
「求めなければ、出てくる機会もございません」
そう答えてから、自分がそれを誰かに一度も言われずに来たと気づく。三年、わたくしは誰にも何も求めなかった。
収まったものが、二十七件になった。
「アニエス様」
「はい」
「本日は、私は何も書きませんでした」
レナート様はそう言って、少し笑う。
「当家の交渉役は、卓で書きません。書くと、その場で決めた気になるからです。父の教えです」
「よい教えでございますね」
「今日、初めてそう思いました」
三日後、調停局にユリアン・ドレスデの名で面会の申し入れが届いた。宛名は、アニエス・ヴァルニエとなっていた。




