第9話 浴衣と花火
七月の終わり、灯町の商店街は朝から落ち着かなかった。
アーケードの柱には赤と白の提灯が吊られ、魚屋の前には氷水を張った大きなたらいが置かれ、総菜屋からは油のはぜる音が早い時間から続いていた。いつもはシャッターを半分だけ開けて様子をうかがう店まで、今日ばかりは店先に台を出し、値札を太く書き直している。
灯町夏の宵市。
名前だけ聞けば涼しげだが、実際には夕方になる前から焼きそばの匂いと綿あめの甘さと、子どもの声と店主たちの段取り違いが、細い通りの中で何度もぶつかる。
黒瀬傘店の前にも、朝九時の時点で杏侑子がいた。
右手に画用紙、左手に太いペン、首には商店街連合会の名札。昨日貼った付箋のうち「店主、朝起きる」だけをわざわざ店のガラス戸の真ん中へ移している。
「賢人さん、起きました。貼り替えます」
「人を起床確認済みの荷物みたいに扱うな」
賢人は寝癖を水で押さえながら、シャッターを上げた。金属の音がいつもより明るく響く。店の中には、昨夜遅くまで調整していた黒い傘の第二試作が、作業台の上で畳まれていた。
外側は、どこにでもある黒い傘に見える。だが内側には、叶一が角度を変えて貼り直した細い反射材と、賢人が何度も布の張りを直した淡い線がある。濡れたとき、光を受けたとき、歩く人の視線を前へ押し出すための線だった。
晃煕から戻された資料は、まだ穴だらけだ。責任範囲、破損時の回収、保管方法、説明文、訓練時の人数制限。書くべきものは山ほど残っている。
それでも今日だけは、机の上の紙より、町に出て確かめる夜だった。
花は警戒巡回として宵市に出る。賢人は試作品の夜間確認として歩く。杏侑子は、二人が同じ通りを同じ時間に歩く理由を「商店街紹介の写真も撮れますね」と勝手に増やした。
「写真はいらない」
賢人が言うと、杏侑子はもう一枚画用紙を出した。
「いります。『黒い傘は夜にどう見えるか』の記録です。感情面は私が別紙にまとめます」
「感情面って何だよ」
「目が合った回数とか、傘の角度とか、花さんが笑ったかどうかです」
「それ、役場に出したら晃煕さんが封筒ごと返すぞ」
「じゃあ衣代さんに出します」
その衣代は、昼過ぎに黒瀬傘店へ現れた。
腕には、紺色の浴衣と、薄い灰色の帯。もう片方の手には、見覚えのある古い浴衣をかけている。
「賢人くん、これ。おじいちゃんの浴衣、仕立て直しておいたわよ」
「え、俺、着るなんて言ってませんけど」
「言ってない人ほど、着せると似合うの」
「それ、理屈あります?」
「衣装屋の理屈は、着せたあとに発生するの」
衣代は賢人の返事を待たず、店の奥の椅子へ浴衣を広げた。祖父の浴衣は、墨色に細い縞が入っている。袖口は少し直され、裾も賢人の身長に合わせて詰められていた。
祖父がこの町を歩いていた夏が、布の間からふっと戻ってくるようだった。
「花ちゃんにも着せるから」
「花にも?」
「ええ。警戒巡回用の服ではなくて、交代後。ちゃんと仕事が終わってから。そこは花ちゃんが自分で線を引いたわ」
衣代はさらりと言った。花らしい、と賢人は思う。浮かれる前に、立つ場所を決める。誰に見られても説明できる順番にする。
「賢人くん」
衣代はメジャーを首から外し、賢人の肩に当てた。
「今日、傘のことも大事だけど、十年前に置いてきた顔で歩かないこと。せっかく浴衣を着せるんだから」
「どういう顔ですか、それ」
「駅のホームで言いそびれた人の顔」
賢人は言い返せなかった。
衣代はそれ以上責めず、襟元を合わせて、帯を手際よく巻いた。布が体に沿うと、店の空気まで少し変わった。作業台の上の黒い傘も、いつもより改まって見える。
夕方五時、商店街の放送が鳴った。
ざらついた音のあとで、杏侑子の声が流れる。
「本日は灯町夏の宵市へお越しいただき、ありがとうございます。足元にお気をつけて、商店街の各店をゆっくりお回りください。迷子、落とし物、体調不良の方は、商店街中央の本部テントまでお願いします」
言い終わった直後、別の声が小さく混じった。
「杏侑子、マイク切れてない。焼き鳥、焦げてる」
「あっ」
商店街じゅうに笑いが広がった。
賢人も店先で吹き出した。笑ったまま黒い傘を一本持ち、店を出る。浴衣の裾が足に触れ、下駄の音がアーケードの床に小さく鳴った。
通りは、人の波でふくらんでいた。
射的の前で子どもが片目をつぶり、金魚すくいの水面には提灯の赤が揺れている。総菜屋の娘が唐揚げの紙袋を抱え、団地の坂から来た老人がかき氷を二つ持って立ち止まる。尚ちゃんの店の前では、尚が焼きそばを鉄板に広げながら、すでに目を赤くしていた。
「焼きそばで泣くの早くないですか」
賢人が声をかけると、尚は菜箸を握ったまま首を振った。
「お前のおじいちゃんがさ、この宵市でいつも傘を直してたの思い出したら、ソースが目にしみて」
「それ、九割は湯気です」
「残り一割が人生だよ」
尚は名言らしい顔をしたが、鉄板の端でキャベツが焦げかけている。海太が無言で火を弱めた。
「海太さん、いつからそこに」
「三分前」
海太は消防署の紺色の活動服で、周囲をゆっくり見ていた。人の詰まり、段差、屋台のコード、濡れた氷の水が流れる先。祭りの浮かれた通りの中で、彼だけは足元を数えている。
「花は?」
賢人が聞くと、海太は本部テントのほうを顎で示した。
「迷子対応。終わったら交代」
「そっか」
「顔が緩んでいる」
「浴衣が苦しいだけです」
「帯は関係ない」
海太はそれだけ言って、歩道に出たコードを店の内側へ寄せた。
賢人は黒い傘を握り直し、本部テントのほうへ向かった。人の間を抜ける途中、何人もの店主に声をかけられる。「傘屋、似合ってるぞ」「おじいちゃんそっくり」「花ちゃん待ちか」と、余計な一言までついてくる。
そのたびに賢人は「試作品の確認です」と答えた。自分でも、言い訳としては弱いと思った。
本部テントの近くで、花はしゃがんでいた。
泣きそうな男の子の前に膝をつき、目線を合わせ、紙コップの水を持たせている。活動服の袖口はきちんと留められ、髪は後ろでまとめられていた。周りがざわついても、花の声だけは短く、まっすぐ届く。
「名前、言える?」
「……そうた」
「そうたくん。お母さんは、何を買ってた?」
「わたあめ」
「じゃあ、わたあめの店の近くで手が離れたんだね。ここで一緒に待とう。走らなくていいよ」
男の子は鼻をすすり、紙コップを両手で持った。花はその手を急がせず、テントの椅子へ座らせた。
賢人は、少し離れた場所で立ち止まった。
十年前の花を知っている気でいた。駅のホームで傘を握っていた花。花火の音に紛れて、何かを言いかけた花。けれど今、目の前にいる花は、誰かの不安をほどく手順を自分の中に持っている。
しばらくして、男の子の母親が駆け込んできた。花は責める言葉を使わず、見つかった場所と次に気をつける場所を短く伝えた。母親が何度も頭を下げ、男の子を抱きしめる。花は少しだけ笑い、次の巡回者へ引き継ぎをした。
そのあとで、ようやく賢人に気づいた。
「……浴衣」
「衣代さんに捕まった」
「似合ってる」
花はそう言ってから、自分で言った言葉に少し驚いたように瞬きをした。
賢人の喉が詰まる。
「花も、あとで着るって聞いた」
「交代後ね。仕事中はこれ」
「うん」
「傘は?」
「持ってきた。夜間確認。あと、商店街の狭いところで開いたときの見え方」
「じゃあ、先に危ないところを回る」
花はすぐ仕事の声に戻った。賢人はほっとしたような、少し惜しいような気持ちで、彼女の隣を歩き始めた。
二人は、屋台の裏手、アーケードの継ぎ目、古い映画館跡の前、団地へ向かう細い坂の入口を順に見ていった。
黒い傘を開くには人が近すぎる場所。閉じた傘の先が子どもの顔の高さに来る場所。雨が降ればすべりやすいタイル。提灯の光が強すぎて、反射材が思ったより目立たない角度。
花は指で示し、賢人は小さなメモ帳に書いた。浴衣の袖が邪魔になって字が曲がる。
「その字、あとで読める?」
「未来の俺が頑張る」
「未来の賢人に迷惑かけないで」
「今の俺も迷惑かけられてる」
花が小さく笑った。
その笑いに、賢人はメモの続きを忘れそうになる。
歩道橋の下で、花は立ち止まった。ここは第七話の町歩きで、夕方に二人が見下ろした場所だった。今日は提灯の赤と屋台の白い灯りが、橋の鉄骨に細かく重なっている。
「ここ、花火のあとに混む」
花が言った。
「駅へ戻る人と、団地へ帰る人が重なるから」
「黒い傘で列を分けるなら、橋の手前より、坂の入口か」
「うん。橋の上で迷わせると危ない。手前で進む方向を決めたほうがいい」
花の横顔は、祭りの光を受けても浮かれていなかった。人の動き、足の速さ、子どもの高さ、老人の手元。見ているものが賢人とは違う。
その違いが、今は遠さではなく、黒い傘に必要なものに思えた。
七時を過ぎたころ、花はいったん本部へ戻った。交代の確認を終え、三十分後に衣代の店へ向かうという。賢人はその間、尚の店先で焼きそばを受け取った。
尚はやっぱり泣いていた。
「まだ何も起きてませんよ」
「浴衣ってさ、だめなんだよ。誰かを待ってる背中に見えるんだよ」
「焼きそばください」
「大盛りでいいな。花ちゃんの分も?」
「仕事終わりに食べるか分からないので、普通で」
「そういうところだぞ」
「どこですか」
「大盛りにして、食べきれなかったらお前が食べるんだよ」
尚は勝手に二つとも大盛りにした。
その横で杏侑子がチラシの束を抱えている。表紙には、勝手に「黒い傘、夜に変身」と書かれていた。花に止められたらしく、「配布前確認」と赤字で大きく書き足されている。
「配る気、まだあります?」
「確認が取れたら」
「誰の?」
「花さん、海太さん、晃煕さん、叶一さん、衣代さん、あと賢人さん」
「多いな」
「だから今日は配れません」
杏侑子は少し残念そうに言ったが、目はきらきらしていた。始める勢いに、止められる手順が少し混ざっている。彼女も彼女なりに、黒い傘に合わせて変わっているのかもしれない。
衣代の店の前に着くと、賢人は焼きそばの袋を持ったまま、のれんの手前で固まった。
店の中から、衣代の声がする。
「花ちゃん、背筋はそのまま。肩だけ力を抜いて」
「仕事じゃないと、どう立てばいいか分からないです」
「仕事じゃない立ち方なんて、決まってないの。今、立っているところから始めるの」
賢人は入っていいものか迷った。迷っている間に、のれんが開いた。
花が出てきた。
紺地に白い小花の浴衣。帯は薄い灰色で、結び目の下に小さな銀色の飾りが揺れている。髪は低くまとめられ、うなじのあたりに、夕方の湿った風が触れていた。
賢人は、本当に言葉をなくした。
花は足元を見て、下駄の鼻緒を確かめている。仕事のときの動きではない。けれど、ふらつかないように一歩ずつ確かめる様子は、やはり花だった。
「変?」
花が聞いた。
「変じゃない」
「なら、何か言って」
「……似合う」
言った瞬間、宵市の音が少し遠くなった気がした。
花は目を伏せ、すぐには返事をしなかった。衣代が店の奥から、にやりと口元を押さえている。杏侑子は両手で口をふさぎ、尚はなぜかすでに泣いていた。海太は道路の向こうで、何も見ていないふりをして屋台のガス栓を確認している。
花は少しして、顔を上げた。
「そういうの、十年前に言ってほしかった」
言葉は軽く聞こえるように置かれた。けれど、その下に残っていたものが、賢人の胸にまっすぐ当たった。
駅のホーム。花火の音。返事をしないまま背を向けた自分。尚の店に忘れられた折りたたみ傘。
賢人は、焼きそばの袋を持つ手に力を入れた。
「ごめん」
それだけは、すぐに出た。
花は驚いたように賢人を見た。からかいの返事を待っていた顔だったのかもしれない。
「今のは、浴衣の話」
「浴衣の話だけじゃないから」
賢人が言うと、花は何か返しかけた。だが、商店街の放送が割り込んだ。
「まもなく、川沿いで花火が上がります。歩道橋付近は混み合いますので、係員の案内に従ってください。小さなお子さまから目を離さないようお願いします」
現実は、いつもいいところで用件を持ってくる。
花は息をひとつ吐き、仕事の目に戻った。ただし、浴衣のままだから、少しだけ不思議な表情になる。
「行こう。確認も兼ねて」
「うん」
賢人は黒い傘を持ち直した。
二人は川沿いへ向かった。
宵市の人波は、川へ近づくにつれてゆっくりになった。子どもが父親の肩車で空を指し、若い夫婦がベビーカーの幌をたたみ、高齢の女性が友人の腕につかまって歩く。屋台の灯りが減ると、空の暗さが少し濃く見えた。
橋の向こうで、一発目の花火が上がった。
低い音が腹に響き、遅れて赤い光が川面に散った。人々が一斉に顔を上げる。花も顔を上げた。賢人は、その横顔を見てしまう。
「花火、見て」
花が前を向いたまま言った。
「見てる」
「こっちじゃない」
「ばれたか」
「ばれるよ」
二発目が上がる。青い光が広がり、すぐに白へほどけた。
そのとき、頬に冷たいものが当たった。
最初は一粒だった。次に二粒。川のほうから湿った風が流れ、浴衣の袖が揺れた。
「降るね」
花が言った。
「開く?」
「人に当たらないように。少し後ろ」
賢人は周囲を見て、花と並んで半歩下がった。黒い傘をゆっくり開く。布が空気を含み、骨が音を立てて張った。
小雨が傘を叩く。
外側は夜に溶ける黒。内側には、花火の光が淡く映った。赤、青、白。反射材の細い線に色が乗り、傘の内側で小さく流れる。雨粒が布の端から落ちるたび、その線が一瞬だけ前へ伸びたように見えた。
花が息をのむ音がした。
「……きれい」
仕事の確認ではない声だった。
賢人は、胸の奥が熱くなるのを感じた。自分の作ったものが褒められたからだけではない。祖父の未完成品、叶一の手、花の指摘、海太の沈黙、杏侑子の騒ぎ、衣代の布、晃煕の丸と三角。いろいろなものがこの傘の内側に重なって、今、花の顔を照らしている。
「似合う」
賢人はもう一度言った。
花がこちらを見た。
「傘が?」
「浴衣も。傘も。花も」
言い終えてから、言葉が多すぎたことに気づいた。取り消そうにも、花火の音がそれを許さない。
花はしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑った。
「十年前の分、まとめて言ってる?」
「利息がついてる」
「高いね」
「滞納してたから」
花は笑ったあと、傘の内側に視線を戻した。
「でも、まだ全部返ってない」
「うん」
賢人は頷いた。
「返す。今度は、置いていかない」
花火が続く。雨はまだ弱い。周囲の人たちは、小さな傘を開いたり、タオルを頭にのせたりしながら、それでも空を見上げている。
花は黒い傘の柄に手を添えた。賢人の手と、ほんの少しだけ指が重なる。
彼女はすぐに離さなかった。
「この線、雨粒が乗ると、前に流れて見える」
「角度、叶一さんが直した。花火の光でも分かるとは思わなかったけど」
「避難のとき、目線を上げすぎないで進めるかも」
「今、それ考える?」
「考えるよ」
花は空を見たまま言った。
「きれいでも、使う場面があるなら考える。そういう仕事だから」
賢人は花の横顔を見た。
浴衣を着て、花火を見て、黒い傘の下で指が触れている。それでも花は、誰かが雨の夜に迷わず進むことを考えている。そのことが、少し寂しく、同時にたまらなく好きだった。
「じゃあ、俺も考える」
「何を?」
「きれいなだけで終わらせない方法」
花は短く頷いた。
花火の最後に、大きな金色の輪が上がった。音が遅れて、胸の中まで響く。川面に光が落ち、雨粒が黒い傘の端で小さく跳ねた。
その一瞬、傘の内側の線が、花の頬に淡く重なった。
賢人は、十年前に言えなかった言葉のすべてを、この場で言えるとは思わなかった。言えばいいというものでもない。花には花の仕事があり、進む先がある。自分はまだ、資料も試験も不十分な傘屋だ。
それでも、言わないまま背を向ける自分には戻りたくなかった。
「花」
「ん?」
「今日、見られてよかった」
「花火?」
「花火も。花が、町を見てるところも」
花は、傘の縁から落ちる雨を見た。
「賢人も、前より町を見てる」
「そうかな」
「前は、出ていく駅のほうばかり見てた」
その言葉は痛かった。けれど、賢人は逃げなかった。
「今は、店のシャッターと、地下道と、歩道橋と、花が見てる足元を見てる」
「多いね」
「増えた」
花は、ふっと笑った。
花火が終わり、人の流れが動き出す。小雨のせいで、足元は少し滑りやすくなっていた。花はすぐに顔を上げ、歩道橋の手前へ視線を走らせる。
「賢人、傘を閉じて。ここから先は人に当たる」
「了解」
賢人は黒い傘を閉じた。内側の淡い光が、布の折り目へしまわれる。さっきまで二人を包んでいた小さな夜が、掌の中の細い一本に戻った。
人波の中で、花は浴衣の袖を押さえながら歩き出した。足元を見て、子どもの手を避け、高齢者に声をかける。その隣で、賢人は傘を縦に持ち、人にぶつけないよう向きを変えた。
屋台の灯りが戻ってくると、尚が遠くから手を振った。泣いているのか、湯気なのか、もう分からない。杏侑子は写真を撮ろうとして、海太に「通路」と一言で止められている。衣代は店先から、二人の浴衣の裾を満足そうに見ていた。
黒瀬傘店の前まで戻るころ、雨はほとんど止んでいた。
賢人は店のガラス戸に映った自分を見る。祖父の浴衣を着て、黒い傘を持って、隣には花がいる。
十年前に置いてきた返事は、まだ全部は返せていない。けれど、今日の一言は、たしかに返した。
花は黒い傘を見て、静かに言った。
「夜の見え方、悪くないね」
「役場の資料に書ける?」
「書ける。でも、花火の下できれいでした、とは書かない」
「そこが一番大事なのに」
「それは、資料じゃなくて覚えておくところ」
花はそう言って、店の前の提灯を見上げた。
賢人も同じ方を見た。提灯の赤い光が、濡れたアスファルトにぼんやり映っている。黒い傘の先から落ちた一滴が、その光を小さく揺らした。
宵市はまだ続いている。
焼きそばの匂いも、子どもの笑い声も、商店街の放送も、遠くなった花火の煙も、全部が雨上がりの町に混ざっていた。
賢人は黒い傘を作業台に置く前に、内側をもう一度開いた。
淡い線は、ほんの少しだけ花火の色を覚えているように見えた。




