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黒い傘は、花嫁の手をひく。  作者: 乾為天女


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9/18

第9話 浴衣と花火

 七月の終わり、灯町の商店街は朝から落ち着かなかった。

 アーケードの柱には赤と白の提灯が吊られ、魚屋の前には氷水を張った大きなたらいが置かれ、総菜屋からは油のはぜる音が早い時間から続いていた。いつもはシャッターを半分だけ開けて様子をうかがう店まで、今日ばかりは店先に台を出し、値札を太く書き直している。

 灯町夏の宵市。

 名前だけ聞けば涼しげだが、実際には夕方になる前から焼きそばの匂いと綿あめの甘さと、子どもの声と店主たちの段取り違いが、細い通りの中で何度もぶつかる。

 黒瀬傘店の前にも、朝九時の時点で杏侑子がいた。

 右手に画用紙、左手に太いペン、首には商店街連合会の名札。昨日貼った付箋のうち「店主、朝起きる」だけをわざわざ店のガラス戸の真ん中へ移している。

 「賢人さん、起きました。貼り替えます」

 「人を起床確認済みの荷物みたいに扱うな」

 賢人は寝癖を水で押さえながら、シャッターを上げた。金属の音がいつもより明るく響く。店の中には、昨夜遅くまで調整していた黒い傘の第二試作が、作業台の上で畳まれていた。

 外側は、どこにでもある黒い傘に見える。だが内側には、叶一が角度を変えて貼り直した細い反射材と、賢人が何度も布の張りを直した淡い線がある。濡れたとき、光を受けたとき、歩く人の視線を前へ押し出すための線だった。

 晃煕から戻された資料は、まだ穴だらけだ。責任範囲、破損時の回収、保管方法、説明文、訓練時の人数制限。書くべきものは山ほど残っている。

 それでも今日だけは、机の上の紙より、町に出て確かめる夜だった。

 花は警戒巡回として宵市に出る。賢人は試作品の夜間確認として歩く。杏侑子は、二人が同じ通りを同じ時間に歩く理由を「商店街紹介の写真も撮れますね」と勝手に増やした。

 「写真はいらない」

 賢人が言うと、杏侑子はもう一枚画用紙を出した。

 「いります。『黒い傘は夜にどう見えるか』の記録です。感情面は私が別紙にまとめます」

 「感情面って何だよ」

 「目が合った回数とか、傘の角度とか、花さんが笑ったかどうかです」

 「それ、役場に出したら晃煕さんが封筒ごと返すぞ」

 「じゃあ衣代さんに出します」

 その衣代は、昼過ぎに黒瀬傘店へ現れた。

 腕には、紺色の浴衣と、薄い灰色の帯。もう片方の手には、見覚えのある古い浴衣をかけている。

 「賢人くん、これ。おじいちゃんの浴衣、仕立て直しておいたわよ」

 「え、俺、着るなんて言ってませんけど」

 「言ってない人ほど、着せると似合うの」

 「それ、理屈あります?」

 「衣装屋の理屈は、着せたあとに発生するの」

 衣代は賢人の返事を待たず、店の奥の椅子へ浴衣を広げた。祖父の浴衣は、墨色に細い縞が入っている。袖口は少し直され、裾も賢人の身長に合わせて詰められていた。

 祖父がこの町を歩いていた夏が、布の間からふっと戻ってくるようだった。

 「花ちゃんにも着せるから」

 「花にも?」

 「ええ。警戒巡回用の服ではなくて、交代後。ちゃんと仕事が終わってから。そこは花ちゃんが自分で線を引いたわ」

 衣代はさらりと言った。花らしい、と賢人は思う。浮かれる前に、立つ場所を決める。誰に見られても説明できる順番にする。

 「賢人くん」

 衣代はメジャーを首から外し、賢人の肩に当てた。

 「今日、傘のことも大事だけど、十年前に置いてきた顔で歩かないこと。せっかく浴衣を着せるんだから」

 「どういう顔ですか、それ」

 「駅のホームで言いそびれた人の顔」

 賢人は言い返せなかった。

 衣代はそれ以上責めず、襟元を合わせて、帯を手際よく巻いた。布が体に沿うと、店の空気まで少し変わった。作業台の上の黒い傘も、いつもより改まって見える。

 夕方五時、商店街の放送が鳴った。

 ざらついた音のあとで、杏侑子の声が流れる。

 「本日は灯町夏の宵市へお越しいただき、ありがとうございます。足元にお気をつけて、商店街の各店をゆっくりお回りください。迷子、落とし物、体調不良の方は、商店街中央の本部テントまでお願いします」

 言い終わった直後、別の声が小さく混じった。

 「杏侑子、マイク切れてない。焼き鳥、焦げてる」

 「あっ」

 商店街じゅうに笑いが広がった。

 賢人も店先で吹き出した。笑ったまま黒い傘を一本持ち、店を出る。浴衣の裾が足に触れ、下駄の音がアーケードの床に小さく鳴った。

 通りは、人の波でふくらんでいた。

 射的の前で子どもが片目をつぶり、金魚すくいの水面には提灯の赤が揺れている。総菜屋の娘が唐揚げの紙袋を抱え、団地の坂から来た老人がかき氷を二つ持って立ち止まる。尚ちゃんの店の前では、尚が焼きそばを鉄板に広げながら、すでに目を赤くしていた。

 「焼きそばで泣くの早くないですか」

 賢人が声をかけると、尚は菜箸を握ったまま首を振った。

 「お前のおじいちゃんがさ、この宵市でいつも傘を直してたの思い出したら、ソースが目にしみて」

 「それ、九割は湯気です」

 「残り一割が人生だよ」

 尚は名言らしい顔をしたが、鉄板の端でキャベツが焦げかけている。海太が無言で火を弱めた。

 「海太さん、いつからそこに」

 「三分前」

 海太は消防署の紺色の活動服で、周囲をゆっくり見ていた。人の詰まり、段差、屋台のコード、濡れた氷の水が流れる先。祭りの浮かれた通りの中で、彼だけは足元を数えている。

 「花は?」

 賢人が聞くと、海太は本部テントのほうを顎で示した。

 「迷子対応。終わったら交代」

 「そっか」

 「顔が緩んでいる」

 「浴衣が苦しいだけです」

 「帯は関係ない」

 海太はそれだけ言って、歩道に出たコードを店の内側へ寄せた。

 賢人は黒い傘を握り直し、本部テントのほうへ向かった。人の間を抜ける途中、何人もの店主に声をかけられる。「傘屋、似合ってるぞ」「おじいちゃんそっくり」「花ちゃん待ちか」と、余計な一言までついてくる。

 そのたびに賢人は「試作品の確認です」と答えた。自分でも、言い訳としては弱いと思った。

 本部テントの近くで、花はしゃがんでいた。

 泣きそうな男の子の前に膝をつき、目線を合わせ、紙コップの水を持たせている。活動服の袖口はきちんと留められ、髪は後ろでまとめられていた。周りがざわついても、花の声だけは短く、まっすぐ届く。

 「名前、言える?」

 「……そうた」

 「そうたくん。お母さんは、何を買ってた?」

 「わたあめ」

 「じゃあ、わたあめの店の近くで手が離れたんだね。ここで一緒に待とう。走らなくていいよ」

 男の子は鼻をすすり、紙コップを両手で持った。花はその手を急がせず、テントの椅子へ座らせた。

 賢人は、少し離れた場所で立ち止まった。

 十年前の花を知っている気でいた。駅のホームで傘を握っていた花。花火の音に紛れて、何かを言いかけた花。けれど今、目の前にいる花は、誰かの不安をほどく手順を自分の中に持っている。

 しばらくして、男の子の母親が駆け込んできた。花は責める言葉を使わず、見つかった場所と次に気をつける場所を短く伝えた。母親が何度も頭を下げ、男の子を抱きしめる。花は少しだけ笑い、次の巡回者へ引き継ぎをした。

 そのあとで、ようやく賢人に気づいた。

 「……浴衣」

 「衣代さんに捕まった」

 「似合ってる」

 花はそう言ってから、自分で言った言葉に少し驚いたように瞬きをした。

 賢人の喉が詰まる。

 「花も、あとで着るって聞いた」

 「交代後ね。仕事中はこれ」

 「うん」

 「傘は?」

 「持ってきた。夜間確認。あと、商店街の狭いところで開いたときの見え方」

 「じゃあ、先に危ないところを回る」

 花はすぐ仕事の声に戻った。賢人はほっとしたような、少し惜しいような気持ちで、彼女の隣を歩き始めた。

 二人は、屋台の裏手、アーケードの継ぎ目、古い映画館跡の前、団地へ向かう細い坂の入口を順に見ていった。

 黒い傘を開くには人が近すぎる場所。閉じた傘の先が子どもの顔の高さに来る場所。雨が降ればすべりやすいタイル。提灯の光が強すぎて、反射材が思ったより目立たない角度。

 花は指で示し、賢人は小さなメモ帳に書いた。浴衣の袖が邪魔になって字が曲がる。

 「その字、あとで読める?」

 「未来の俺が頑張る」

 「未来の賢人に迷惑かけないで」

 「今の俺も迷惑かけられてる」

 花が小さく笑った。

 その笑いに、賢人はメモの続きを忘れそうになる。

 歩道橋の下で、花は立ち止まった。ここは第七話の町歩きで、夕方に二人が見下ろした場所だった。今日は提灯の赤と屋台の白い灯りが、橋の鉄骨に細かく重なっている。

 「ここ、花火のあとに混む」

 花が言った。

 「駅へ戻る人と、団地へ帰る人が重なるから」

 「黒い傘で列を分けるなら、橋の手前より、坂の入口か」

 「うん。橋の上で迷わせると危ない。手前で進む方向を決めたほうがいい」

 花の横顔は、祭りの光を受けても浮かれていなかった。人の動き、足の速さ、子どもの高さ、老人の手元。見ているものが賢人とは違う。

 その違いが、今は遠さではなく、黒い傘に必要なものに思えた。

 七時を過ぎたころ、花はいったん本部へ戻った。交代の確認を終え、三十分後に衣代の店へ向かうという。賢人はその間、尚の店先で焼きそばを受け取った。

 尚はやっぱり泣いていた。

 「まだ何も起きてませんよ」

 「浴衣ってさ、だめなんだよ。誰かを待ってる背中に見えるんだよ」

 「焼きそばください」

 「大盛りでいいな。花ちゃんの分も?」

 「仕事終わりに食べるか分からないので、普通で」

 「そういうところだぞ」

 「どこですか」

 「大盛りにして、食べきれなかったらお前が食べるんだよ」

 尚は勝手に二つとも大盛りにした。

 その横で杏侑子がチラシの束を抱えている。表紙には、勝手に「黒い傘、夜に変身」と書かれていた。花に止められたらしく、「配布前確認」と赤字で大きく書き足されている。

 「配る気、まだあります?」

 「確認が取れたら」

 「誰の?」

 「花さん、海太さん、晃煕さん、叶一さん、衣代さん、あと賢人さん」

 「多いな」

 「だから今日は配れません」

 杏侑子は少し残念そうに言ったが、目はきらきらしていた。始める勢いに、止められる手順が少し混ざっている。彼女も彼女なりに、黒い傘に合わせて変わっているのかもしれない。

 衣代の店の前に着くと、賢人は焼きそばの袋を持ったまま、のれんの手前で固まった。

 店の中から、衣代の声がする。

 「花ちゃん、背筋はそのまま。肩だけ力を抜いて」

 「仕事じゃないと、どう立てばいいか分からないです」

 「仕事じゃない立ち方なんて、決まってないの。今、立っているところから始めるの」

 賢人は入っていいものか迷った。迷っている間に、のれんが開いた。

 花が出てきた。

 紺地に白い小花の浴衣。帯は薄い灰色で、結び目の下に小さな銀色の飾りが揺れている。髪は低くまとめられ、うなじのあたりに、夕方の湿った風が触れていた。

 賢人は、本当に言葉をなくした。

 花は足元を見て、下駄の鼻緒を確かめている。仕事のときの動きではない。けれど、ふらつかないように一歩ずつ確かめる様子は、やはり花だった。

 「変?」

 花が聞いた。

 「変じゃない」

 「なら、何か言って」

 「……似合う」

 言った瞬間、宵市の音が少し遠くなった気がした。

 花は目を伏せ、すぐには返事をしなかった。衣代が店の奥から、にやりと口元を押さえている。杏侑子は両手で口をふさぎ、尚はなぜかすでに泣いていた。海太は道路の向こうで、何も見ていないふりをして屋台のガス栓を確認している。

 花は少しして、顔を上げた。

 「そういうの、十年前に言ってほしかった」

 言葉は軽く聞こえるように置かれた。けれど、その下に残っていたものが、賢人の胸にまっすぐ当たった。

 駅のホーム。花火の音。返事をしないまま背を向けた自分。尚の店に忘れられた折りたたみ傘。

 賢人は、焼きそばの袋を持つ手に力を入れた。

 「ごめん」

 それだけは、すぐに出た。

 花は驚いたように賢人を見た。からかいの返事を待っていた顔だったのかもしれない。

 「今のは、浴衣の話」

 「浴衣の話だけじゃないから」

 賢人が言うと、花は何か返しかけた。だが、商店街の放送が割り込んだ。

 「まもなく、川沿いで花火が上がります。歩道橋付近は混み合いますので、係員の案内に従ってください。小さなお子さまから目を離さないようお願いします」

 現実は、いつもいいところで用件を持ってくる。

 花は息をひとつ吐き、仕事の目に戻った。ただし、浴衣のままだから、少しだけ不思議な表情になる。

 「行こう。確認も兼ねて」

 「うん」

 賢人は黒い傘を持ち直した。

 二人は川沿いへ向かった。

 宵市の人波は、川へ近づくにつれてゆっくりになった。子どもが父親の肩車で空を指し、若い夫婦がベビーカーの幌をたたみ、高齢の女性が友人の腕につかまって歩く。屋台の灯りが減ると、空の暗さが少し濃く見えた。

 橋の向こうで、一発目の花火が上がった。

 低い音が腹に響き、遅れて赤い光が川面に散った。人々が一斉に顔を上げる。花も顔を上げた。賢人は、その横顔を見てしまう。

 「花火、見て」

 花が前を向いたまま言った。

 「見てる」

 「こっちじゃない」

 「ばれたか」

 「ばれるよ」

 二発目が上がる。青い光が広がり、すぐに白へほどけた。

 そのとき、頬に冷たいものが当たった。

 最初は一粒だった。次に二粒。川のほうから湿った風が流れ、浴衣の袖が揺れた。

 「降るね」

 花が言った。

 「開く?」

 「人に当たらないように。少し後ろ」

 賢人は周囲を見て、花と並んで半歩下がった。黒い傘をゆっくり開く。布が空気を含み、骨が音を立てて張った。

 小雨が傘を叩く。

 外側は夜に溶ける黒。内側には、花火の光が淡く映った。赤、青、白。反射材の細い線に色が乗り、傘の内側で小さく流れる。雨粒が布の端から落ちるたび、その線が一瞬だけ前へ伸びたように見えた。

 花が息をのむ音がした。

 「……きれい」

 仕事の確認ではない声だった。

 賢人は、胸の奥が熱くなるのを感じた。自分の作ったものが褒められたからだけではない。祖父の未完成品、叶一の手、花の指摘、海太の沈黙、杏侑子の騒ぎ、衣代の布、晃煕の丸と三角。いろいろなものがこの傘の内側に重なって、今、花の顔を照らしている。

 「似合う」

 賢人はもう一度言った。

 花がこちらを見た。

 「傘が?」

 「浴衣も。傘も。花も」

 言い終えてから、言葉が多すぎたことに気づいた。取り消そうにも、花火の音がそれを許さない。

 花はしばらく黙っていた。

 やがて、小さく笑った。

 「十年前の分、まとめて言ってる?」

 「利息がついてる」

 「高いね」

 「滞納してたから」

 花は笑ったあと、傘の内側に視線を戻した。

 「でも、まだ全部返ってない」

 「うん」

 賢人は頷いた。

 「返す。今度は、置いていかない」

 花火が続く。雨はまだ弱い。周囲の人たちは、小さな傘を開いたり、タオルを頭にのせたりしながら、それでも空を見上げている。

 花は黒い傘の柄に手を添えた。賢人の手と、ほんの少しだけ指が重なる。

 彼女はすぐに離さなかった。

 「この線、雨粒が乗ると、前に流れて見える」

 「角度、叶一さんが直した。花火の光でも分かるとは思わなかったけど」

 「避難のとき、目線を上げすぎないで進めるかも」

 「今、それ考える?」

 「考えるよ」

 花は空を見たまま言った。

 「きれいでも、使う場面があるなら考える。そういう仕事だから」

 賢人は花の横顔を見た。

 浴衣を着て、花火を見て、黒い傘の下で指が触れている。それでも花は、誰かが雨の夜に迷わず進むことを考えている。そのことが、少し寂しく、同時にたまらなく好きだった。

 「じゃあ、俺も考える」

 「何を?」

 「きれいなだけで終わらせない方法」

 花は短く頷いた。

 花火の最後に、大きな金色の輪が上がった。音が遅れて、胸の中まで響く。川面に光が落ち、雨粒が黒い傘の端で小さく跳ねた。

 その一瞬、傘の内側の線が、花の頬に淡く重なった。

 賢人は、十年前に言えなかった言葉のすべてを、この場で言えるとは思わなかった。言えばいいというものでもない。花には花の仕事があり、進む先がある。自分はまだ、資料も試験も不十分な傘屋だ。

 それでも、言わないまま背を向ける自分には戻りたくなかった。

 「花」

 「ん?」

 「今日、見られてよかった」

 「花火?」

 「花火も。花が、町を見てるところも」

 花は、傘の縁から落ちる雨を見た。

 「賢人も、前より町を見てる」

 「そうかな」

 「前は、出ていく駅のほうばかり見てた」

 その言葉は痛かった。けれど、賢人は逃げなかった。

 「今は、店のシャッターと、地下道と、歩道橋と、花が見てる足元を見てる」

 「多いね」

 「増えた」

 花は、ふっと笑った。

 花火が終わり、人の流れが動き出す。小雨のせいで、足元は少し滑りやすくなっていた。花はすぐに顔を上げ、歩道橋の手前へ視線を走らせる。

 「賢人、傘を閉じて。ここから先は人に当たる」

 「了解」

 賢人は黒い傘を閉じた。内側の淡い光が、布の折り目へしまわれる。さっきまで二人を包んでいた小さな夜が、掌の中の細い一本に戻った。

 人波の中で、花は浴衣の袖を押さえながら歩き出した。足元を見て、子どもの手を避け、高齢者に声をかける。その隣で、賢人は傘を縦に持ち、人にぶつけないよう向きを変えた。

 屋台の灯りが戻ってくると、尚が遠くから手を振った。泣いているのか、湯気なのか、もう分からない。杏侑子は写真を撮ろうとして、海太に「通路」と一言で止められている。衣代は店先から、二人の浴衣の裾を満足そうに見ていた。

 黒瀬傘店の前まで戻るころ、雨はほとんど止んでいた。

 賢人は店のガラス戸に映った自分を見る。祖父の浴衣を着て、黒い傘を持って、隣には花がいる。

 十年前に置いてきた返事は、まだ全部は返せていない。けれど、今日の一言は、たしかに返した。

 花は黒い傘を見て、静かに言った。

 「夜の見え方、悪くないね」

 「役場の資料に書ける?」

 「書ける。でも、花火の下できれいでした、とは書かない」

 「そこが一番大事なのに」

 「それは、資料じゃなくて覚えておくところ」

 花はそう言って、店の前の提灯を見上げた。

 賢人も同じ方を見た。提灯の赤い光が、濡れたアスファルトにぼんやり映っている。黒い傘の先から落ちた一滴が、その光を小さく揺らした。

 宵市はまだ続いている。

 焼きそばの匂いも、子どもの笑い声も、商店街の放送も、遠くなった花火の煙も、全部が雨上がりの町に混ざっていた。

 賢人は黒い傘を作業台に置く前に、内側をもう一度開いた。

 淡い線は、ほんの少しだけ花火の色を覚えているように見えた。



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