第10話 まだ好きでごめん
宵市の片づけは、花火の余韻よりも現実のほうが早くやってきた。
屋台の鉄板はまだ熱を残し、焼きそばの甘いソースの匂いが、濡れたアスファルトの匂いと混ざって商店街に沈んでいた。提灯は半分ほど落とされ、赤い光が途切れ途切れに軒下を照らしている。川沿いから戻ってきた人たちの声は少し弾んでいて、子どもたちは景品の水鉄砲を握ったまま眠そうにあくびをしていた。
黒瀬傘店の前では、賢人が祖父の浴衣の袖をたくし上げ、黒い傘の水気を拭いていた。
内側の淡い線は、もう花火の色を残していない。布の折り目に沿って、静かな灰色の筋になっている。夜に変身した傘が、いつもの黒い傘へ戻っていくのを見ると、賢人は少し惜しい気がした。
「それ、拭きすぎると布が傷むよ」
背後から声がした。
花だった。浴衣の裾を片手で軽く押さえ、もう片方の手には濡れた手ぬぐいを持っている。巡回用の表情はゆるんでいるが、足元だけはまだ周囲を見ていた。
「花の浴衣も濡れてる」
「これくらいなら平気。衣代さんのほうが心配してる」
「衣代さん、自分の店の布が雨に濡れると、身内が風邪ひいたみたいな顔するからな」
「さっき、私の袖を見てため息ついてた。賢人の浴衣は、祖父さんのだから三倍心配だって」
「三倍」
賢人は袖を見下ろした。古い紺地に、細い雨の跡が残っている。祖父がこれを着て夏祭りを歩いた姿を、賢人はよく覚えていない。けれど、今日一日を過ごしただけで、この布の重みが少し変わった気がした。
花が黒い傘を覗き込んだ。
「夜間の見え方は悪くなかった。花火の反射が強すぎるかと思ったけど、進行方向を邪魔するほどじゃない」
「また仕事の顔になってる」
「今、言わないと忘れる」
「俺が?」
「賢人が」
即答だった。
賢人は反論しようとして、作業台の上に置きっぱなしの濡れたタオル、紛れ込んだ射的の景品、杏侑子が勝手に置いたチラシの束を見た。言い返す材料はなかった。
「メモする」
「偉い」
「今、子ども扱いした?」
「少し」
花はそう言って、ほんの少し笑った。
笑った顔に、さっきの花火の光がまだ残っているように見えて、賢人は黒い傘から視線を外した。見続けていたら、また余計なことを言いそうだった。
そのとき、商店街の奥から、尚の泣き声が響いた。
「もう、今日は全員うち! 打ち上げしないで帰るなんて、そんな冷たい灯町に誰がしたの!」
声の直後、杏侑子の「行きます行きます、目標は明日から片づけです!」という返事が続き、海太の低い「通路を塞がない」が重なった。衣代の笑い声も聞こえる。
花は肩をすくめた。
「呼ばれてる」
「逃げたら、尚さんが店まで迎えに来る」
「泣きながら?」
「泣きながら」
二人は顔を見合わせた。
黒い傘を店の奥へしまい、賢人は戸締まりの確認をした。鍵を回す前に、作業台の上の試作品へ視線を戻す。内側の線は暗がりでほとんど見えない。けれど、雨と光が重なれば、また道を示す。
今夜の花火の下で、賢人はそれを知った。
小料理屋「尚ちゃん」は、宵市の日だけは暖簾をしまわなかった。
店内には、祭りの匂いを連れてきた人たちが肩を寄せ合っていた。カウンターには冷えた麦茶、枝豆、余った焼きそば、尚が急いで揚げた鶏のから揚げ、衣代が差し入れた漬物、叶一が工場から持ってきた紙皿が並んでいる。
尚は、誰よりも忙しく動いているのに、誰よりも先に泣いていた。
「花火ってさあ、ずるいよね。上がって、ぱっと咲いて、すぐ消えるんだよ。こっちはさ、十年も二十年も残ってるのに」
「尚さん、まだ乾杯してません」
杏侑子が紙コップを持ったまま言う。
「してなくても泣ける日は泣けるの」
「名言っぽいです」
「ぽいじゃなくて名言」
尚は自分で言って、また目元を拭いた。
海太は無言で水の入ったグラスを差し出した。尚はそれを受け取り、「海太くんは冷静ねえ」と言いながら、ひと口飲んでまた泣いた。
衣代は花の浴衣の袖を軽く広げ、濡れ具合を確かめている。
「うん、この程度なら大丈夫。帰ったらすぐ風を通して。畳むのは明日の朝。賢人くんの浴衣はあとで私が見るから、絶対に洗濯機に入れないで」
「俺、そこまで信用ないですか」
「あると思う?」
衣代はにっこり言った。
賢人は黙って麦茶を飲んだ。
叶一が隣で、紙皿にから揚げを二つ取る。
「黒い傘の件、今日の夜間確認は収穫ありだな。花火の光は特殊条件だけど、外乱光がある場所で内側の線がどう見えるか、いい材料になる」
「叶一さんも仕事の顔ですね」
「祭りのあとにしか見えないものがある。忘れる前に書く」
「花と同じこと言ってる」
賢人が言うと、花は麦茶を持ったままこちらを見た。
「正しい人が二人いるってこと」
「俺が間違ってる前提?」
「忘れる前提」
「そこは信頼してほしい」
「信頼してるから、メモしてって言ってる」
花はさらりと言った。
賢人は一瞬、言葉を失った。
信頼している。その一言が、ふいに胸の奥へ入ってきた。花は何気なく言ったのかもしれない。消防士として、作業相手として、黒い傘の確認をする相手として。けれど賢人には、十年前から閉じたままだった小さな戸が、少し開いたように聞こえた。
杏侑子が紙コップを高く掲げた。
「では、灯町夏の宵市、無事終了と、黒い傘の夜間確認が思った以上によかったことと、賢人さんと花さんが浴衣で並んだことを記念して」
「三つ目いらない」
花が低く言った。
「大事です。商店街的に」
「商店街にしないで」
海太が短く息を吐いた。笑ったのか、呆れたのか、賢人には分からなかった。
尚が泣きながら紙コップを持ち上げる。
「いいじゃない。並べるときに並んでおかないと、あとで一人で思い出すことになるんだから」
店内が少しだけ静かになった。
尚は自分でその静けさに気づき、照れたように笑った。
「ごめん、重くした。乾杯しよ、乾杯」
紙コップが触れ合う。小さな音がいくつも重なった。
賢人は花の横顔を見ないようにして、麦茶を飲んだ。
打ち上げが進むと、尚の涙は本格的になった。
最初は花火の話だった。それから祖父の話になり、商店街の昔の写真になり、いつの間にか尚が若いころに結婚を考えた相手の話になっていた。
「言えばよかったのよ」
尚は箸を握ったまま、カウンターに肘をついた。
「まだ好きでごめん、って。もう遅いのは分かってるけど、それでも好きでごめん、って。そう言ったら困らせるって思ったの。いい人ぶってさ。相手のためみたいな顔してさ。結局、自分が傷つきたくなかっただけなのよ」
杏侑子はすでに泣いていた。
「尚さん、それ、ずるいです。私、明日から目標にします。言えるうちに言う」
「何を?」
海太が聞いた。
「まず、家賃の振込を忘れてすみません、から」
「それは今日言ったほうがいい」
海太の声に、店内で笑いが起きた。
尚も笑った。笑ったのに、涙は止まらなかった。
「でもね、本当にそうなの。言わないまま終わると、言わなかった自分とずっと暮らすことになるの。相手が誰と幸せになったとか、どこで暮らしてるとか、そういう話じゃなくて、自分があのとき口を閉じたことだけが残るの」
賢人は、紙コップを持つ手に力が入るのを感じた。
十年前の駅のホーム。花火のあと。花が「戻ってくる?」と聞いた声。自分は答えなかった。答えないことで、どちらにも進まない場所へ逃げた。
花は隣に座っている。
浴衣の袖はもう乾き始めていて、髪の端だけがまだ少し湿っている。彼女は笑って聞いているように見えた。だが、尚が「まだ好きでごめん」と言った瞬間、指先が紙コップの縁を軽くなぞった。
賢人は見てしまった。
花が、昔の話を笑い話にしていないことを。
尚は続けた。
「賢人くんも花ちゃんもさ、若いんだから、言葉をケチらないほうがいいよ」
「尚さん」
花が止めるように呼んだ。
「分かってる。余計なお世話。泣き上戸の戯言。でも、戯言にもたまに骨があるの」
「傘屋の前で骨の話をするな」
賢人が言うと、尚は泣きながら笑った。
「ほら、そうやって逃げる」
賢人は箸を止めた。
笑いにして流せる言葉と、流したらまた同じ場所へ戻る言葉がある。尚の今の一言は、後者だった。
花は何も言わなかった。
海太が尚の前に新しい水を置く。衣代は手ぬぐいを出す。叶一は、少し離れた席で試作品の持ち手について杏侑子と話しているふりをした。
誰も、賢人と花を無理に見なかった。
それが余計に、逃げ場をなくした。
店の空気が少し落ち着いたころ、花の携帯電話が短く震えた。
彼女は画面を見て、表情を変えなかった。だが、紙コップを置く動作が、ほんの少し遅れた。
賢人は気づいた。
「署から?」
「ううん。今すぐの連絡じゃない」
「なら、よかった」
花は頷いたが、すぐには画面を伏せなかった。
尚が、涙を拭きながら首を傾げる。
「花ちゃん、何かあった?」
「正式な話ではないんですけど」
花は少し迷ったあと、店内を見回した。
「来年度、大きな消防署で研修を受ける候補に名前が挙がっているそうです。まだ内示でも決定でもなくて、希望確認の前段階です」
箸の音が止まった。
杏侑子が目を丸くする。
「大きな消防署って、灯町じゃなくて?」
「はい。水害対応や大規模な避難誘導を学べるところです」
「すごいじゃない」
衣代が真っ先に言った。
声は明るい。だが、その明るさの裏に、少しだけ寂しさが混ざっていた。
叶一は静かに頷いた。
「学べるなら、行く価値はある」
海太も短く言う。
「花なら推薦されてもおかしくない」
花は少しだけ目を伏せた。
「まだ決まってません。行きたい気持ちもあります。学べることは多いと思うので」
賢人は、口の中が急に乾くのを感じた。
花が町を出る。
その言葉が、胸の中で大きくなった。
十年前、自分は灯町を出た。花を置いて。今度は花が、仕事のために出るかもしれない。それは逃げではない。むしろ、花が花らしく進むための道だ。
分かっている。
分かっているのに、心のどこかが勝手に言葉を作った。
行かないで。
残って。
ここで黒い傘を完成させるまで、隣にいて。
賢人はその言葉を飲み込んだ。飲み込むと、喉の奥が痛かった。
花は、賢人を見なかった。
それが救いでもあり、苦しさでもあった。
杏侑子が鼻をすすった。
「でも、灯町の避難導線も、黒い傘も、これからですよね」
「それもあります」
花は静かに答えた。
「だから迷っています。でも、どちらを選んでも、仕事として決めます」
その言い方は、賢人に向けたものでもあった。
恋のために残るのではない。誰かに頼まれたから残るのでもない。仕事として、自分で決める。
賢人は、紙コップを握りしめた。
尚がこちらを見ている。涙で赤い目をしながら、何も言わない。さっきまで「言えるうちに言え」と泣いていた人が、今は黙っている。
言うべきことと、言ってはいけないことがあるのだと、尚も知っている顔だった。
賢人は、花に何か言いたかった。
よかったな。すごいな。応援してる。黒い傘は何とかする。灯町は大丈夫。俺も大丈夫。
言えそうな言葉はいくつもあった。けれど、どれも薄かった。
花が初めて、賢人のほうを見た。
「賢人」
「うん」
「仕事のことは、自分で決める」
先に言われた。
賢人の胸の奥に用意されかけていた勝手な願いが、そこで止まった。
「分かってる」
声が少し掠れた。
「分かってる。花の仕事だから」
「うん」
「俺が、どうこう言うことじゃない」
「うん」
花は頷いた。
それ以上、何も言わなかった。
賢人は、笑おうとした。うまくいったかは分からない。
「研修に行っても、傘のダメ出しは遠隔で来そう」
「行くって決まってない」
「もし行ったら」
「行ったら、資料を送ってもらう。写真だけじゃ分からなかったら、電話する」
「怖い」
「ちゃんと作れば怖くない」
「それが怖い」
小さな笑いが戻った。
けれど、賢人と花の間には、さっきまでなかった沈黙が置かれていた。
それは、喧嘩ではない。誤解でもない。互いに相手の進む先を尊重しようとするほど、近づきすぎた言葉が出せなくなる沈黙だった。
夜が更け、打ち上げは少しずつ解散へ向かった。
杏侑子は「明日、商店街の宵市報告を作ります」と宣言した三分後に、椅子にもたれて眠りかけた。叶一は彼女の前から紙コップを片づけ、海太は無言で出口の段差に置かれていた荷物を端へ寄せた。衣代は花の浴衣を確認し、帰ったらすぐ干すようにもう一度念を押した。
尚は最後まで泣いていたが、片づけの手は止まらなかった。
「賢人くん、花ちゃん送っていきなさいよ」
「尚さん」
花が眉を寄せる。
「浴衣で夜道なんだから、送るくらい普通。変な意味にしない」
「尚さんが言うと変な意味になります」
「失礼ね。私はいつでも人生の節目の味方よ」
「節目にしないでください」
花はそう言ったが、強く断らなかった。
賢人は下駄箱の横に置いていた黒い傘を手に取った。雨はもう止んでいる。けれど、夜の道を歩くには、傘を持っているほうが自然だった。
店を出ると、商店街は片づけのあとで静かになっていた。提灯のいくつかはまだ灯っていて、風に揺れるたび、濡れた路面の赤い光も揺れた。遠くで川の水音がする。昼間よりも少し増えた水の匂いが、夜気に混じっていた。
花はしばらく黙って歩いた。
賢人も、黒い傘を閉じたまま持って歩いた。傘の先が時々、石畳の隙間に触れて小さな音を立てる。
「さっきの話」
花が先に口を開いた。
「研修?」
「うん」
花はまっすぐ前を見ている。
「急に言うつもりじゃなかった。でも、尚さんの話を聞いてたら、隠しておくのも違う気がした」
「隠してたわけじゃないだろ。まだ正式じゃないって言ってたし」
「それでも、賢人は驚いた」
「驚いた」
賢人は正直に言った。
「でも、すごいと思った」
「すごい?」
「花がちゃんと見られてるってことだろ。大きい署で学べる候補に入るくらい、今まで積んできたものがあるってことだし」
花は足を少し緩めた。
「そう言われると、逃げにくいね」
「逃げたいの?」
「少し」
花は小さく笑った。
「灯町でやりたいこともある。地下道のこと、川沿いのこと、団地の坂道のこと。黒い傘の確認も、途中で投げたくない。でも、学べる機会を怖いから見ないふりするのも違う」
「花らしい」
「何が?」
「どっちもちゃんと見てるところ」
花は何も言わなかった。
歩道橋の下まで来ると、昼間の賑やかさが嘘のようだった。宵市で人が集まっていた道は、屋台の跡だけを残している。白いチョークで書かれた出店位置の線が、雨で少し滲んでいた。
花はその線を見下ろした。
「賢人は?」
「俺?」
「黒い傘がうまくいったら、どうするの」
「どうするって」
「売るのか、町に置くのか、店を続けるのか、東京へ戻るのか」
賢人はすぐに答えられなかった。
今日の花火の下で、黒い傘はたしかにきれいだった。消防署の確認でも、商店街の夜間でも、可能性は見えている。だが、役場の資料は足りない。安全性もまだ足りない。試験も足りない。
そして、自分自身の覚悟も、まだ全部そろってはいない。
「店は続けたい」
賢人はゆっくり言った。
「今日、そう思った。祖父の店だから、じゃなくて。俺がここで直したい傘があるし、作りたい傘がある」
「うん」
「黒い傘は、まだ人に渡せる段階じゃない。でも、形にしたい。花が灯町にいても、研修に行っても、それとは別に」
言ってから、少し怖くなった。
花が灯町にいても、研修に行っても。
その言葉は、賢人にとって背伸びだった。手放したくない気持ちを隠すためではなく、手放さずに縛らないための精いっぱいだった。
花は立ち止まった。
賢人も足を止める。
歩道橋の下には、雨上がりの風が抜けていた。黒い傘の布が、閉じたまま小さく鳴る。
「賢人」
「うん」
「さっき、残ってって言われるかと思った」
賢人は息を止めた。
花は責める声ではなかった。確かめる声だった。
「言いそうになった」
賢人は白状した。
「でも、言ったら違うと思った」
「どうして」
「花の仕事だから。俺が寂しいからって、進む先に手をかけるのは違う」
花は、少しだけ目を伏せた。
「十年前は、何も言わなかった」
「うん」
「今日は、言わない理由を言った」
「進歩してる?」
「少し」
花はそう言って、笑った。
賢人は胸の奥が少しほどけるのを感じた。だが、すぐに全部が楽になるわけではない。研修の話は残っている。黒い傘の未完成も残っている。言えなかった十年も、まだ残っている。
それでも、今夜は背を向けなかった。
それだけは、確かだった。
「花」
「何?」
「応援したい。でも、寂しい。両方ある」
花は目を細めた。
「やっと普通のこと言った」
「普通?」
「うん。格好つけすぎると、またどこかへ行きそうだから」
賢人は苦く笑った。
「もう勝手に行かない」
「本当に?」
「鍵も店も、傘もあるし」
「それだけ?」
花の声が少し低くなった。
賢人は彼女を見た。
「花もいる」
言ってしまってから、体温が上がった。
花はすぐには返事をしなかった。歩道橋の下で、遠くの車の音が一度だけ響いた。
「そういうの」
花は静かに言った。
「十年前にも聞きたかった」
「ごめん」
「謝るの、今日二回目」
「足りない分は分割で」
「分割払いみたいにしないで」
花は笑った。
笑ったあと、黒い傘に視線を落とした。
「帰ろう。明日、私は勤務だし、賢人は店を開けるんでしょ」
「開ける」
「寝坊したら?」
「しない」
「自己暗示?」
「いや、今度は目覚ましを三つ置く」
「現実的」
二人はまた歩き出した。
花の家の近くまで来ると、住宅街はすっかり静まり返っていた。どこかの庭で濡れた紫陽花が月明かりを受け、道端の水たまりには、街灯が細く伸びている。
花は門の前で立ち止まった。
「送ってくれてありがとう」
「尚さん命令だから」
「尚さんのせいにするんだ」
「半分は」
「残り半分は?」
賢人は黒い傘を握り直した。
「花ともう少し話したかった」
花は目をそらさなかった。
「うん」
短い返事だった。けれど、そこに拒む響きはなかった。
賢人は、ここで何かを決めようとは思わなかった。研修のことも、黒い傘のことも、二人のことも、今夜だけで答えを出すには大きすぎる。
ただ、言わないまま終わらせないことだけは、決められる。
「花」
「うん」
「研修のこと、決めるまで待つ。口出ししない。でも、黒い傘のことは、俺も逃げない。ちゃんと資料を作る。試験もやる。危ないところが出たら直す。役場に断られても、もう一回持っていく」
「うん」
「だから、花も、思ったことは言って。遠慮しないで」
「遠慮してるように見える?」
「してないな」
「してない」
二人は小さく笑った。
花は門の取っ手に手をかけ、ふと振り返った。
「賢人」
「何?」
「尚さんの言葉、重かったね」
「まだ好きでごめん?」
「うん」
花は少し黙った。
「私は、ああいうふうに謝りたくない」
賢人の胸が、静かに鳴った。
花は続ける。
「好きだったことを、悪いことみたいにしたくない。十年前も、今も」
言葉はそこで止まった。
賢人は、急いで続きを求めなかった。花が自分の速さで言葉を選んでいるのが分かったからだ。
花は門の向こうへ一歩入り、もう一度こちらを見た。
「おやすみ。明日、店を開けて」
「開ける」
「本当に?」
「本当に」
「じゃあ、仕事帰りに通る」
「監視?」
「確認」
花はそう言って、門の中へ入った。
賢人はしばらくその場に立っていた。夜の住宅街に、黒い傘の布が小さく鳴る。雨はもう降っていない。けれど、手の中の傘は、今夜の重さをまだ持っていた。
賢人は来た道を戻り始めた。
商店街へ向かう道は、昼よりも暗い。だが、どこに曲がれば黒瀬傘店へ着くのか、今は分かる。駅のほうではなく、店のほうへ足が向く。
途中、閉じた黒い傘をほんの少しだけ開いてみた。
内側の線は、街灯の弱い光を受けてかすかに浮かんだ。花火のような華やかさはない。けれど、進む方向を見失わないだけの光はある。
賢人は傘を閉じた。
自己暗示は唱えなかった。
明日の朝、シャッターを開ける。濡れた浴衣を衣代に見せ、叶一に夜間確認のメモを渡し、晃煕に出す資料の足りない項目を洗い出す。花が仕事帰りに通るころ、店が開いているようにする。
それだけのことが、今の賢人には、十年前の返事の続きに思えた。
尚の店の明かりはまだ遠くに残っていた。誰かの笑い声と、尚の泣き声が、少しだけ夜に滲んでいる。
まだ好きでごめん。
その言葉は、賢人の胸の中で、違う形へ変わり始めていた。
好きだから、進む。
好きだから、縛らない。
好きだから、逃げない。
黒瀬傘店のシャッターが見えてくる。雨上がりの提灯が、店のガラス戸に薄く映っている。
賢人は鍵を開け、店の中へ戻った。作業台の上に黒い傘を置き、メモ用紙を引き寄せる。
花火の反射。人の目線。歩道橋の下の風。浴衣の袖。花の研修候補。言えなかった言葉。言わなかった理由。
全部を書けるわけではない。
それでも賢人は、まず一行目にこう書いた。
夜、雨上がり。黒い傘の線は、弱い光でも前を示す。
それから少し考えて、もう一行だけ足した。
明日、店を開ける。




