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黒い傘は、花嫁の手をひく。  作者: 乾為天女


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11/18

第11話 小さな成功、大きな誤算

 防災訓練の日の朝、黒瀬傘店のシャッターは、いつもより二十分早く開いた。

 賢人は開けた本人なのに、しばらく店の前に立って、上がりきったシャッターを見上げていた。鉄の板は朝の光を受けて鈍く光り、祖父のころから残る「修理承ります」の紙も、今日は少し背筋を伸ばしているように見える。

 「開いたな」

 隣から声がして、賢人は飛び上がった。

 海太が、ランニング姿のまま立っていた。汗ひとつかいていない。息も乱れていない。朝の六時台に、商店街を一本の定規で測ったような姿勢で歩く人間を、賢人はまだうまく信じられなかった。

 「見張ってたのか」

 「確認だ」

 「花と同じこと言うな」

 「花に頼まれたわけじゃない」

 海太はそう言いながら、店先の段差を指で示した。

 「今日、高齢者が通るなら、ここに滑り止めを置け」

 「朝一番の挨拶がそれ?」

 「おはよう。滑り止めを置け」

 「順番の問題じゃないんだよ」

 賢人は文句を言いながら、奥から古いゴムマットを引っ張り出した。祖父が雪の日に使っていたものだ。端が少し丸まっているので、叶一から借りた養生テープで床へ留める。

 海太はそれを見届けてから、作業台の上に並んだ黒い傘を一本ずつ持ち上げた。

 この日のために用意した第二試作は十二本。商店街の暗幕を張った通路で、避難方向の見え方、傘同士の間隔、閉じる場所、持ち手の握りやすさを試す。消防署、役場、商店街連合会、子ども会、町内会が参加する小さな防災訓練だった。

 小さい、と賢人は自分に言い聞かせていた。

 小さいから失敗しても直せる。小さいから大騒ぎにはならない。小さいから、花の仕事に傷をつけずに済む。

 けれど、十二本の黒い傘が作業台に並ぶと、小さいという言葉はすぐに薄くなった。

 一本一本に、夜の地下道で立ち止まった人の顔がある。花がしゃがみ込んだ子どもの震えがある。祖父の走り書きがある。叶一が削った持ち手の粉がある。晃煕が差し戻した資料の赤い付箋がある。

 賢人は喉を鳴らした。

 「なあ、海太」

 「何だ」

 「もし今日、うまくいったら」

 「次の確認が増える」

 「夢のないことを一秒で言うなよ」

 「夢を見るなとは言っていない。見たあと、起きろと言っている」

 海太は一本目の傘を閉じ、骨の端を指で押した。

 「浮かれて足元を見るな。足元を見ない人間が、避難誘導の道具を作るな」

 賢人は返す言葉を探し、見つからないまま、ゴムマットの端をもう一度踏んだ。


 午前九時、商店街の古いアーケードには、すでに人が集まり始めていた。

 杏侑子は首から笛を下げ、腕には三色の腕章を重ねている。どれが何を意味するのか本人にも分かっていないらしく、衣代に「赤は燃えてるみたいで縁起が悪い」と外され、青は「消防署と紛らわしい」と海太に外され、結局、黄色だけが残った。

 「黄色は注意喚起でいいですよね。私、今日こそ最後まで仕切りますから」

 杏侑子は胸を張った。その胸には「本日の目標 最後まで落ち着く」と太い字で書かれた紙が貼られている。

 賢人はそれを見て、つい笑った。

 「落ち着くって紙を胸に貼る時点で、だいぶ落ち着いてない」

 「見える場所に目標がないと、人は流されるんです。賢人さんだって、店の壁に『朝、開ける』って貼ったほうがいいですよ」

 「貼らなくても開けた」

 「一日だけで勝った顔しないでください」

 反論できなかった。

 衣代は通路の端に、参加者が傘を受け取る場所を作っていた。机の上には番号札、タオル、使い方の紙が整然と並ぶ。尚は湯呑みと麦茶の入ったポットを運びながら、すでに目を潤ませていた。

 「黒瀬のじいさんが見たら、泣くわよ」

 「尚さんが先に泣いてます」

 「予行練習よ」

 「泣く予行練習って何だよ」

 賢人が笑うと、尚は鼻をすすった。

 「笑ってるけど、あんたもすぐ泣くわよ。自分が作ったものを、誰かが本当に使うところを見るんだから」

 その言葉は、思ったより深く胸へ入った。

 賢人は机の上の黒い傘に手を置いた。布越しに骨の張りが伝わる。昨日の夜まで何度も開き、閉じ、また開いた。指の腹には、細いネジの感触がまだ残っている。


 花は、消防署の制服で現れた。

 髪をまとめ、手袋をベルトに挟み、首元まできちんと整えている。浴衣姿の記憶がまだ賢人の中に残っていたので、その切り替わりに一瞬だけ言葉を失った。

 花は仕事の顔で参加者へ挨拶し、通路の幅、非常口の位置、床の濡れやすい箇所を確認していく。昨夜、門の前で「好きだったことを悪いことにしたくない」と言った人と、今ここで通路を見ている人は同じなのに、同じではなかった。

 賢人はそれが少し寂しく、少し誇らしかった。

 花は最後に賢人の前へ来て、傘の一本を開いた。

 「昨日の夜間確認のメモ、読んだ」

 「字、読めた?」

 「半分は。残り半分は傘への謝罪文かと思った」

 「そんなに汚かった?」

 「感情が多かった」

 花は内側の線を見た。黒い布に仕込まれた淡い線は、昼の通路ではまだ眠っている。けれど、暗幕の中で光を受ければ、前へ伸びる目印になるはずだった。

 「今日は、うまくいっても、うまくいかなくても、記録する。いい?」

 「分かってる」

 「浮かれそうになったら?」

 「足元を見る」

 花はほんの少しだけ目を細めた。

 「海太に言われた?」

 「何で分かるんだよ」

 「言い方が海太」

 そのやり取りだけで、賢人の緊張が少し緩んだ。


 訓練は、拍子抜けするほど静かに始まった。

 最初に、晃煕が参加者へ説明した。今日使う黒い傘は正式採用品ではなく、灯町商店街の防災訓練内で見え方と動線を確認するための試作品であること。走らないこと。傘を振り回さないこと。連結紐は今回使わず、まずは個別に持つこと。気分が悪くなった人はその場で近くの係へ伝えること。

 晃煕の声は丁寧で、柔らかい。だが、言っている内容には隙がなかった。賢人が最初に役場へ持ち込んだとき、笑顔で山ほど足りない点を返された理由が、いまは少しだけ分かる。

 暗幕が張られたアーケードの一角に、参加者が十人ずつ入る。

 高齢者の列、子ども会の列、商店主の列。通路の先には小さな非常灯と、消防署が用意した懐中電灯。賢人は入口側で、傘を一人ずつ手渡した。

 「内側の線を前に向けてください。強く傾けすぎなくて大丈夫です。前の人の傘に近づきすぎないで、歩幅は小さめに」

 自分の口から説明が出ることに、少し驚いた。

 東京の会議室では、資料を読まれる前に逃げ道を探していた。ここでは、目の前の人が今から歩く。説明を曖昧にすれば、その人の足元が危なくなる。

 最初の列が進む。

 黒い傘の内側に懐中電灯の光が当たると、細い線が静かに浮かび上がった。派手ではない。宣伝写真にするには地味すぎる。けれど、人の目は自然にその線を追い、通路の奥へ向いた。

 「見える」

 白髪の女性が小さく言った。

 「足元ばっかり見てたけど、これだと前も見るわね」

 「眩しくないのがいいな」

 八百屋の店主が、傘の角度を変えながら言った。

 「昔の誘導灯みたいに強いと、目が疲れるんだよ。これは……何だ、黒いのに親切だな」

 黒いのに親切。

 賢人はその言葉を、胸の内側へそっとしまった。

 次の子ども会の列では、最初こそ「暗い」「おばけ出そう」と騒いでいた子どもたちが、傘を持つと急に探検隊のような顔になった。杏侑子が係なのに一緒になって「前方、光あり!」と叫び、花に笛を取り上げられる。

 「杏侑子さん、参加者を増やさないでください」

 「私は盛り上げ係です」

 「今日は落ち着く係です」

 胸の紙を指された杏侑子は、しゅんとしたあと、紙の下に小さく「たまに盛り上げる」と書き足した。

 賢人は笑いをこらえながら、傘の持ち手を握り直す子どもに声をかけた。

 「手、滑る?」

 「滑らない。これ、恐竜のしっぽみたい」

 「恐竜か」

 「名前つけていい?」

 「ミチシルベって名前がある」

 「長い」

 「長いか」

 「ミチでいい?」

 賢人は少し考えた。

 「いいよ」

 子どもは満足そうに傘を持ち、暗幕の向こうへ歩いていった。

 その背中を見て、賢人は尚の言葉を思い出した。

 自分が作ったものを、誰かが本当に使うところを見る。

 泣くには早い。そう思ったのに、喉の奥が少し詰まった。


 午前中の訓練は、大きな混乱なく終わった。

 晃煕は記録用紙を整理しながら、珍しく明るい声を出した。

 「現段階では、見え方の評価は良いですね。特に、暗幕内で足が止まる人数が少ない。もちろん、今日の条件内で、という前提ですが」

 「前提、多いな」

 賢人が言うと、晃煕は穏やかにうなずいた。

 「前提は命綱です」

 叶一は持ち手と骨の状態を確認しながら、淡々と数字をメモしている。

 「十二本中、骨の歪みなし。持ち手の滑り感、子ども二名が少し太いと言った。高齢者三名は握りやすい。重さは、五分以上持つと一名が疲れる」

 「けっこう細かく見てるな」

 「細かく見ないと、喜ぶところを間違える」

 叶一の言葉に、賢人は黙った。

 喜ぶところを間違える。

 今日の手応えは確かにあった。けれど、手応えは合格ではない。安全でもない。完成でもない。

 そう分かっているはずなのに、通路の向こうから「黒い傘、分かりやすかったよ」「これ、町内会で買えないの」と声が飛ぶたび、賢人の胸は軽く浮いた。

 浮いて、足元から少し離れた。

 杏侑子はその浮き方を見逃さなかった。

 「賢人さん、これはいけます。灯町の顔です。商店街の紹介冊子、表紙は黒い傘で決まりです。タイトルは『雨でも進める灯町』。いや、『黒い傘で変わる町』。いやいや、『ミチと歩く商店街』」

 「子どもの愛称、もう使うな」

 「いい名前は早い者勝ちです」

 「発明したの俺なんだけど」

 「一人で作った顔しない」

 横から花が言った。

 賢人は口を閉じた。

 花は笑っていなかった。怒っているのでもない。ただ、浮き上がりかけた賢人の足首へ、手を伸ばして地面に戻すような顔をしていた。

 「午後は、聞き取り。使った人が何に困ったか、ちゃんと聞いて」

 「分かってる」

 「褒められた言葉だけ拾わないで」

 「……分かってる」

 今度は少し遅れて答えた。


 昼すぎ、商店街の休憩所になっている空き店舗で、参加者の聞き取りが行われた。

 賢人はノートを開き、高齢者、子ども、店主、町内会の人たちの言葉を一つずつ書いた。

 黒い傘の内側は落ち着く。誘導線が強すぎない。持ち手が太くて安心する。反対に、傘を閉じるときに水が跳ねそう。暗いところで黒い外側だけ見ると少し不安。子どもには重いものがある。傘を持つ手と荷物を持つ手が重なると歩きにくい。

 褒め言葉の横に、不便も並んだ。

 賢人は最初、褒め言葉のほうだけ太く囲みたくなった。だが、花が斜め前で聞き取りをしている。海太が壁際で腕を組み、叶一が数字を拾い、晃煕が役場の書式に合わせて項目を整理している。

 逃げ道がない。

 不思議と、それが嫌ではなかった。

 尚が麦茶を注ぎながら、賢人のノートをのぞき込む。

 「字が読めるようになったわね」

 「元から読める」

 「自分にだけでしょう」

 「今日は他人に見せる前提で書いてる」

 「えらい。黒瀬のじいさん、泣くわ」

 「また泣く話?」

 「今日は何回でも泣ける日よ」

 尚はそう言って、本当に少し泣いた。

 賢人は笑ったが、手は止めなかった。


 その男が現れたのは、聞き取りが終わりかけたころだった。

 灰色の薄い上着を着た、四十代半ばほどの男だった。髪はきれいに整えられ、靴は雨の日でも汚れなさそうに磨かれている。商店街の人間ではない。だが、初めて来た場所で迷っている様子もなかった。

 男は受付の机で名刺を出し、晃煕に何かを話した。

 晃煕の表情が、仕事用の丁寧なものへ切り替わる。花も気づき、少し離れた場所から視線を向けた。

 やがて男は、賢人のほうへ歩いてきた。

 「黒瀬賢人さんですね。はじめまして。クレスト安全の水上と申します」

 差し出された名刺には、防災用品企画部という肩書きが印刷されていた。

 賢人は手を拭いてから名刺を受け取った。

 「どうも。黒瀬傘店の黒瀬です」

 名乗ったあとで、胸の奥が少し熱くなった。黒瀬傘店の黒瀬。言ってしまえば当たり前なのに、今日はその言葉が逃げ道ではなかった。

 水上はにこやかに周囲を見回した。

 「拝見しました。たいへん面白い。黒い傘で誘導する発想は、売り方次第で広がります。高齢者施設、学校、駅ビル、自治体向け備蓄。かなり可能性があります」

 杏侑子が、目を輝かせた。

 「ほら、売れるって言ったじゃないですか」

 花がすぐに杏侑子の袖を引いた。

 水上は続けた。

 「もちろん、個人店で生産できる数には限りがありますよね。弊社であれば、量産、販売網、自治体への提案まで一括でできます。もしよろしければ、権利の買い取り、あるいは専属契約という形で、早めにお話を進めたい」

 空き店舗の空気が、ほんの少し変わった。

 権利。

 買い取り。

 量産。

 販売網。

 言葉は、黒い傘の内側の淡い線とは違う方向へ、賢人の目を引いた。

 店の雨漏り。古い棚。祖父の残した工具。修理待ちの傘。東京で減った貯金。黒瀬傘店の看板を新しくする費用。叶一に払う加工費。町工場で作れる本数の限界。

 全部が、一度に頭の中で音を立てた。

 水上は、その音を聞いているような顔で言った。

 「今日の反応なら、急いだほうがいい。似たような発想は、どこからでも出てきますから。黒瀬さんが一番早い今のうちに、形にしましょう」

 賢人の指が、名刺の端を強く押した。

 早い今のうちに。

 東京で聞いた言葉に似ていた。市場に出すなら先に。企画は鮮度。会議にかける前に押さえろ。遅い人間は、発想ごと置いていかれる。

 賢人は、置いていかれたことがあった。

 だから、置いていかれない話には弱かった。

 「具体的には、どんな条件で」

 自分の口がそう言っていた。

 花の視線が、こちらへ向いた。

 水上は満足そうに笑った。

 「まずは試作品と資料を拝見し、弊社の基準で安全性を検討します。そのうえで、商標、構造、意匠、販売権を整理して、黒瀬さんには十分な対価を――」

 「使い方は」

 花の声が割って入った。

 低く、短い。

 水上は丁寧に振り向いた。

 「使い方、と言いますと」

 「誰が、どこで、どんな説明を受けて使うのか。壊れたときに誰が止めるのか。訓練をしていない人が買って、強い雨の中で連結したらどうなるのか。売る前に、そこを決めるんですか」

 水上は笑みを崩さなかった。

 「もちろん、一般的な注意書きやマニュアルは整えます。消防士の方から見れば慎重に考えたい点は多いでしょう。ただ、防災用品は広げてこそ意味がある。まず市場へ出し、利用者の声を集めながら改善していく方法もあります」

 「人が転んでから改善するんですか」

 花の声は荒くなかった。だからこそ、賢人の背中が冷えた。

 水上は一瞬だけ黙った。

 その沈黙を、賢人は埋めようとしてしまった。

 「でも、広げないと意味がないのは本当だろ」

 花が賢人を見た。

 賢人は名刺を握ったまま続ける。

 「今日だって、使えそうだって分かった。町の中だけで少しずつ直してたら、いつまでも十二本のままだ。俺の店だって、そんなに余裕があるわけじゃない。叶一さんの工場にも、いつまでも無理は言えない。ちゃんとした会社が作ってくれるなら、そのほうが早い」

 「早ければいいの」

 「遅くて誰にも届かないよりはいいだろ」

 言った瞬間、胸の中で何かがずれた。

 周囲の声が遠のく。杏侑子の息をのむ音、尚が湯呑みを置く音、叶一がペンを止める音、海太が壁から背を離す気配。

 花は、賢人だけを見ていた。

 「賢人。今日、何を聞いてたの」

 「聞いてたよ。重いとか、閉じにくいとか、そういうのも直せばいい」

 「直す前に売る話をしてる」

 「話を聞いただけだろ」

 「今、売れるって言葉に引っ張られてる」

 「成功したら文句ないだろ」

 その言葉は、自分が思ったより大きく出た。

 空き店舗の中が、静かになった。

 花の顔から、余分な表情が消えた。

 「成功って、誰が無事だったら成功なの」

 賢人は答えられなかった。

 水上の名刺が、指の中で少し曲がった。

 花は続けなかった。責める言葉も、悲しむ言葉も足さなかった。ただ、机の上にあった聞き取り用紙を一枚取り、賢人の前へ置いた。

 そこには、子どもの字で短く書かれていた。

 ――ミチはこわくない。でも、ころんだらいやだ。

 賢人はその一行を見た。

 さっきまで胸の中で膨らんでいたものが、音もなくしぼんでいく。

 水上は状況を見て、名刺入れを閉じた。

 「本日は突然失礼しました。黒瀬さん、また日を改めてお話ししましょう。とても価値のある発明です。前向きに考えてください」

 価値のある発明。

 その言葉は、褒め言葉のはずだった。

 けれど、今の賢人には、黒い傘から誰かの手だけを引きはがす言葉に聞こえた。

 水上が商店街を出ていくまで、誰も大きな声を出さなかった。


 片づけが始まっても、賢人はすぐに動けなかった。

 花は消防署の参加者と話し、海太は使用済みの傘を一本ずつ確認し、叶一は黙って持ち手の傷を見ている。杏侑子は胸の紙を外し、尚は泣かないように口を結んで麦茶を注いでいた。

 賢人は、机の上に残った聞き取り用紙を集めた。

 褒め言葉も、不便も、不安も、子どもの字も、全部同じ重さで紙の上にある。

 成功したら文句ないだろ。

 自分の声が耳に残っていた。

 東京で逃げたときも、似たようなことを言った気がする。数字が出たら文句ないだろ。売れたらいいだろ。形になったら勝ちだろ。

 けれど、ここにあるのは会議室の資料ではない。

 暗い通路で、誰かが握る持ち手だった。

 夕方、商店街の照明がぽつぽつと点き始めたころ、花が賢人の横に来た。

 「今日は、ここまで」

 「花」

 「何」

 謝りたい。そう思った。けれど、何に対して謝るのか、まだ言葉にできなかった。売れることに揺れたこと。花の言葉を遮ったこと。安全より早さを選びかけたこと。自分の店のことを言い訳にしたこと。

 全部だった。

 「俺、ちょっと……」

 「今、無理に言わなくていい」

 花は聞き取り用紙を一束、賢人に渡した。

 「これ、全部読んで。褒めてる紙も、困ってる紙も。読んでから、明日、話そう」

 「明日」

 「黒瀬傘店、開いてるなら」

 その言い方は、昨夜の門の前と同じだった。けれど、距離は少し遠くなっていた。

 花は消防署の車へ向かった。

 賢人は追いかけなかった。追いかけて言葉を重ねても、今はたぶん、自分を守る言い訳しか出ない。

 黒い傘が十二本、閉じられて机の上に並んでいる。昼間、人を前へ向けた内側の線は、今は見えない。

 賢人は一本を持ち上げた。

 重い。

 朝より、ずっと重かった。

 叶一が隣に立ち、曲がった名刺を見た。

 「捨てるなよ」

 「え」

 「揺れた証拠も、資料になる」

 賢人は苦笑した。

 「俺の情けなさまで数字にする気か」

 「数字にはならない。だが、次に同じところで転ばない目印にはなる」

 叶一はそれだけ言って、傘をケースへ入れ始めた。

 賢人も手を動かした。

 一本ずつ、布を拭き、骨を見て、持ち手を確かめる。褒められた言葉に浮かれていた指が、ようやくいつもの傘職人の指に戻っていく。

 成功は、たぶん今日あった。

 けれど、誤算も同じ場所にあった。

 黒い傘は、人を進ませるかもしれない。

 だからこそ、賢人自身がどこへ進むのかを、最初に間違えてはいけなかった。

 店へ戻るころには、商店街の空が紫色に沈んでいた。黒瀬傘店のガラス戸に、閉じた傘を抱えた自分が映っている。

 賢人は鍵を開け、作業台に聞き取り用紙を置いた。

 そして、壁に貼る紙を一枚書いた。

 朝、開ける。

 その下に、もう一行を足す。

 褒められた言葉だけ拾わない。

 紙を貼り終えると、店の中は静かだった。

 賢人は椅子に座り、花から渡された用紙を一枚目から読み始めた。

 黒い傘の小さな成功は、まだ祝うには早い。

 だが、早すぎる祝杯を置いた手で、次の失敗を拾うことはできる。

 賢人はペンを持ち、用紙の端に小さく書いた。

 明日、花に謝る。

 それから、直す。



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