第12話 黒い傘が止まる日
八月に入った灯町は、朝から湿った熱を抱えていた。
黒瀬傘店のガラス戸を開けると、夜のあいだにこもった布と油の匂いが、外の蒸し暑さへゆっくり溶けていく。賢人はシャッターを上げきる前に、店先の鉢植えを少し動かした。祖父が置いていた古い鉢で、何の花が咲くのかも分からない。葉だけがやけに元気で、雨の前になると青く濃く見えた。
店の壁には、まだ紙が貼ってある。
朝、開ける。
褒められた言葉だけ拾わない。
手書きの文字は、一晩たって少し反っていた。賢人は端を押さえ、養生テープを足した。
「よし」
誰に聞かせるでもなく言ってから、作業台の上を見た。
黒い傘が七本、きれいに並んでいる。昨日までに十二本を見直したうち、五本は叶一の工場へ戻した。持ち手の滑り具合、骨の重さ、内側の線の角度。ひとつ直せば、別のひとつが気になった。気になったものを見なかったことにしないだけで、作業の時間は倍になった。
倍になったのに、早くなった気もした。
迷う時間が、少し減ったのだと思う。
賢人は一番手前の傘を開いた。黒い布が、店の低い天井の下で静かに丸く広がる。内側の薄い線は、昼間の光ではほとんど目立たない。窓から差した光が角度を変えると、細い川のように一瞬だけ浮かび、それからまた沈んだ。
昨日の商店街訓練で、子どもが書いた字が頭の奥に残っている。
ミチはこわくない。でも、ころんだらいやだ。
賢人は傘の骨を一本ずつ指で押し、ゆがみを確かめた。布の張りに指を滑らせ、縫い目のわずかな盛り上がりを探る。祖父の作業台は、何十年も同じ場所で同じ音を聞いてきたせいか、賢人が手を止めると、それだけで叱られているような気配がした。
ガラス戸が軽く鳴った。
「開いてる?」
花ではなかった。杏侑子が、首に汗拭き用のタオルを巻いて立っていた。手には、分厚い紙の束と、折れかけのうちわを持っている。
「開いてます。今日は紙、何枚貼る気?」
「今日は貼らない。配る」
杏侑子は胸を張り、紙束を作業台の端へ置いた。
表紙には、黒い傘の使用説明と、今日の雨天確認の流れが印刷されている。見出しだけがやたら大きい。
――黒い傘ミチシルベ 雨の日確認のお願い。
その下には、晃煕が赤字で直したらしい小さな注意書きがびっしり並んでいた。
一般の通行は止めます。
走りません。
傘同士を無理につなぎません。
指示があったらすぐ止まります。
不安を感じたら手を上げます。
賢人は紙を一枚めくり、苦笑した。
「晃煕さんの文字、強いな」
「昨日の夜、役場で三回直された。『魅力的な言い方より、止まれる言い方にしてください』って」
杏侑子は口調までまねた。
それが少し似ていて、賢人は笑った。
「笑ってる場合じゃないよ。今日、雨、来るって」
「分かってる」
「本物の雨で、初めてだよ」
「分かってるって」
言いながら、賢人は手元の傘を閉じた。
本物の雨。
今までの暗幕、霧吹き、バケツの水、濡らした床。どれも雨に似せたものだった。だが、雨は似せるとおとなしい。実際には、斜めから吹きつけ、足元へ跳ね、荷物を濡らし、人の声を消す。人は傘を差すだけで片手を失い、足早になる。濡れたくない気持ちは、予想より簡単に順番を乱す。
花は、昨日の夕方から店へ来ていなかった。
黒瀬傘店、開いてるなら。
そう言って渡された聞き取り用紙を、賢人は全部読んだ。褒めている紙も、不便を書いた紙も、同じように作業台へ並べた。花に謝る言葉も考えた。考えすぎて、一周して短くなった。
昨日は悪かった。
まず、それだけでいいのだと思う。
それなのに、花の顔を見る前から、喉の奥が妙に乾いていた。
「花ちゃん、今日、来るよ」
杏侑子が、紙の束をそろえながら言った。
賢人は少しだけ手を止めた。
「消防署の立ち会いだから、来るだろ」
「そうじゃなくて」
「何が」
「ううん。言わない。私が言うと、全部軽くなるから」
杏侑子はうちわで自分の顔をあおぎ、すぐに店の外へ向かった。
「じゃあ、あとで閉鎖通路ね。遅れないで。今日は遅刻したら、海太さんの顔が石になるよ」
「いつも石だろ」
「今日は墓石」
「縁起でもないこと言うな」
杏侑子は笑って、アーケードの向こうへ走っていった。
賢人はもう一度、傘を見た。
昨日の成功で、町は少し浮いている。杏侑子は浮くと早い。尚は浮く前から泣く。衣代は浮きながら布を測る。晃煕は浮かないように紙を増やす。叶一は浮いたものを机へ戻す。
花は、浮かない。
人が喜んでいるときほど、足元を見ている。
賢人は、それを分かっているつもりで、昨日、忘れかけた。
作業台の隅に置いた名刺が目に入った。クレスト安全の水上から渡されたものだ。叶一に捨てるなと言われ、工具箱のふたの上に置いてある。白い紙の角は、昨日、賢人が握りしめたせいで少し曲がっていた。
賢人は名刺を裏返し、その上に聞き取り用紙の束を重ねた。
価値があるかどうかは、あとでいい。
今日は、止まれるかどうかだ。
午後三時、灯町商店街の古いアーケードの一角に、立ち入りを止める赤いコーンが並んだ。
ここは、普段なら八百屋の台車と自転車と買い物帰りの人が、遠慮しながらすれ違う通路だった。数年前に隣の金物屋が閉じてから、午後は人通りが少なく、雨の日には天井のひびから水が落ちる。今日だけは、商店街の協力で両側の入口を閉じ、参加者以外は入れないようにしてあった。
空は、昼すぎから低くなっていた。
風がアーケードの端を鳴らし、遠くの雷が、腹の底で鳴るように一度だけ響いた。夏の雨は、来る前から匂いを変える。乾いた埃の上に、水の気配がふくらんでいく。
賢人が黒い傘の入ったケースを運び込むと、叶一はすでに作業台代わりの長机を出していた。工具箱、予備の紐、持ち手の滑り止め、濡れた布を拭くタオル。順番に並べられたそれらを見ただけで、賢人の背中が少し伸びた。
「遅れてはいないな」
叶一が時計を見ずに言った。
「三分前」
「三分前は、遅刻しかけだ」
「町工場の朝の物差しで午後を測るなよ」
叶一は答えず、ケースの留め具を開けた。
海太は消防署の青い雨具を着て、通路の中央に立っていた。足元の水はけ、コーンの位置、参加者の立つ場所を確かめている。手にはクリップボード。顔は杏侑子の言ったとおり、かなり石に近い。
晃煕は役場の腕章をつけ、商店街側の説明係と話していた。言葉は丁寧だが、手元の紙には赤い線がいくつも引かれている。注意点を増やしたのだろう。
衣代は雨に濡れないよう、傘の説明用に縫った小さな腕章を袋から出していた。白地に黒い糸で、ミチシルベ確認中、とある。余白に、なぜか小さな花の刺繍が一つ入っている。
「衣代さん、これ、花の刺繍いる?」
賢人が聞くと、衣代は針山をしまいながら顔を上げた。
「いるわよ。文字だけだと緊張するでしょう」
「緊張する場なんじゃ」
「緊張しすぎると転ぶの」
言い切られて、賢人は言葉を引っ込めた。
尚は、参加者に渡す麦茶の入ったクーラーボックスを抱えて来た。すでに目が潤んでいる。
「まだ始まってないのに」
賢人が言うと、尚はクーラーボックスを置きながら鼻をすすった。
「始まる前が一番泣けるんだよ。始まったら働くから」
「泣く配分がおかしい」
「人生は配分どおりに泣けない」
妙に立派なことを言って、尚は紙コップを並べ始めた。
賢人は笑いかけたが、その笑いは途中で止まった。
アーケードの入口から、花が入ってきた。
消防署の雨具に、髪を低くまとめている。濡れた床を見るときの目で、まず足元を見た。次にコーンの位置を見た。それから海太と短く言葉を交わし、参加者の列へ視線を移した。
最後に、賢人を見た。
ほんの一秒だった。
それでも、昨日より遠いか近いかくらいは分かった。
遠い。
だが、向こうを向いてはいない。
賢人は傘を一本持ち、花のほうへ歩いた。
「昨日は」
そこまで言ったところで、海太の声が通路に響いた。
「確認を始めます。参加する方は、こちらへ集まってください」
花は賢人から視線を外し、すぐに参加者へ向き直った。
「あとで」
短く言った声は、仕事の声だった。
賢人はうなずいた。
あとで。
今は、傘の時間だ。
今日の参加者は、商店街の店主、高齢者クラブの三人、子ども会の保護者二人、役場職員、消防署員、そして黒瀬傘店と真鍋製作所の関係者に限られていた。一般の買い物客は入れない。通路の両端には、杏侑子と商店街の若手が立ち、うっかり入ろうとする人を止めている。
晃煕が、紙を持って説明を始めた。
「本日の確認は、灯町商店街の閉鎖した通路内で行います。黒い傘を実際の雨に近い状況で開き、誘導線の見え方、持ち手の扱いやすさ、紐の取り外し、歩行時の安全性を確かめます。避難訓練ではありません。危険を感じた場合は、ただちに止めます」
いつもの柔らかい言い回しより、少し固い。
花が参加者の前に立った。
「今日は、うまく進むことより、止まることを大事にします。誰かが怖いと思ったら止めます。足元が不安なら止めます。分からなければ、手を上げてください。速く歩く必要はありません」
子ども会の保護者が、小さくうなずいた。
高齢者クラブの一人が、「止まってばっかりでもいいのかい」と笑った。
花はその人へ目線を合わせた。
「止まれる道具かどうかを見ます。止まれるなら、次に進めます」
賢人は、胸の奥が小さく痛むのを感じた。
止まれるなら、次に進める。
それは、花が昨日の自分にも言っていたのだと、今さら分かった。
海太が手順を読み上げる。
最初は傘をつながない。
次に、二人一組で短い安全紐を使う。
そのあと、荷物を持った人を混ぜる。
最後に、アーケードの端から実際の雨が入り込む状況で、見え方を確かめる。
賢人は傘を配った。一本渡すたび、持ち手を確認してもらい、重さを聞く。昨日の聞き取り用紙が頭にあるせいか、相手の顔を前より長く見るようになった。
「ちょっと太いけど、握りやすいね」
「濡れたらどうかしら」
「黒いのに中がきれいだねえ」
「閉じると普通なんだ」
言葉が増えていく。
賢人は頷きながら、紙に書いた。褒め言葉も、迷いも、全部。
外で雷がもう一度鳴った。
直後、雨が来た。
アーケードの屋根を、無数の指で叩くような音が覆った。乾いていた通路の端に、斜めから細かい水が吹き込み、コンクリートの色が濃くなっていく。風が入口のビニール幕を膨らませ、杏侑子が慌てて押さえた。
「始めます」
海太の声が、雨音の中でもはっきり通った。
最初の確認は、うまくいった。
参加者が傘を開くと、黒い内側に仕込まれた線が、外から入る白い光を拾って細く浮かぶ。暗い通路の中で、派手すぎない光が、自然に前へ視線を向ける。高齢者クラブの三人は、花の声に合わせてゆっくり歩いた。子ども会の保護者も、傘の縁が人に当たらない角度を覚えると、少し表情をゆるめた。
賢人は、胸の奥で息を止めていたことに気づいた。
「いいぞ」
杏侑子が小声で言った。
「黙って」
衣代が小声で止めた。
「でも、いいぞ」
「黙って喜びなさい」
そのやり取りに、賢人は少し笑いそうになった。
花は笑わなかった。濡れた床の端、傘の先、参加者の靴の向き、人と人との間隔を見ている。海太も同じだった。
次に、短い安全紐を使った確認が始まった。
傘の持ち手の下に取り付けられた小さな輪へ、ゆるく紐をかける。強い力がかかったら外れるようにする、というのが賢人と叶一の案だった。まだ完全ではないが、昨日の時点では、ゆるい列を保つ助けになると判断していた。
二人一組では問題なかった。
高齢者と付き添い役。保護者と子ども役。花と海太が左右から見守り、ゆっくり進む。紐は引っ張られすぎず、歩幅がずれたときだけ軽く揺れた。
「悪くない」
海太が言った。
賢人は、その言葉を聞いて初めて肩の力が抜けた。
悪くない。
海太の口から出ると、それはかなり大きな褒め言葉だった。
「次、荷物ありで確認します」
晃煕が紙を見て言った。
商店街の八百屋が、空の荷物カートを持ってきた。普段、野菜の箱を運ぶための小さな二輪カートで、持ち手の横に曲がった金具がついている。中身は空だが、濡れた床を押すと車輪が少し引っかかる。
賢人は一瞬、胸の奥に小さな違和感を覚えた。
金具。
紐。
でも、これは確認項目にある。荷物を持つ人を混ぜる。実際の雨の日には、買い物袋もカートも杖もベビーカーもある。ここで見ないと意味がない。
花が、カートを押す八百屋へ近づいた。
「速く押さないでください。傘とカートの間を空けてください」
「分かった分かった。ゆっくりね」
八百屋は笑った。商店街の人間らしい軽さだったが、花は笑い返さず、車輪の向きを見た。
賢人は叶一のほうを見た。
叶一も金具を見ていた。眉が少しだけ寄っている。
「一度、紐なしで」
賢人が言いかけたのと、海太が「待機」と言ったのは、ほぼ同時だった。
しかし、その声より半歩早く、参加者の一人が傘を動かした。
雨音で聞き取りづらかったのかもしれない。後ろの人が前へ進んだと勘違いしたのかもしれない。傘につながった短い紐が、ふわりと横へ流れた。
その先が、カートの金具に触れた。
引っかかった。
大きな力ではなかった。カートも倒れていない。人も転んでいない。
それでも、紐が引かれた瞬間、つながれた傘の持ち手が不自然に傾いた。高齢者クラブの女性が、驚いて足を止める。後ろの人が、その背中にぶつかりそうになる。
花が動いた。
「止まって」
声は低かった。
「全員、その場で止まって」
海太が同時に前へ出て、カートの車輪を押さえた。叶一は紐を見て、工具を出すより早く手で外した。晃煕は入口側に向かって腕を上げ、外から入ろうとした人を止める杏侑子へ合図した。
雨音が、大きくなった気がした。
賢人は、傘を握ったまま立っていた。
ほんの数秒。
本当に、数秒の出来事だった。
誰も倒れていない。怪我もない。カートも無事。紐も外れた。
だが、花の顔を見た瞬間、賢人は分かった。
これは、無事だったから続けられる、ではない。
無事だったから、止めるのだ。
海太がクリップボードを閉じた。
「中止」
誰かが息をのんだ。
賢人の口が、勝手に動いた。
「待ってくれ。今のは、声が聞こえにくかっただけで」
海太は振り向かなかった。
「中止だ」
「紐の長さを変えれば」
「今日は中止」
「でも、事故にはなってない」
言った瞬間、自分で自分の言葉を聞いた。
事故にはなってない。
その言い方は、昨日の「成功したら文句ないだろ」と同じ場所から出ていた。
花が賢人の前に来た。
雨具の肩に、アーケードの端から吹き込んだ細かな雨がついている。
「黒瀬さん」
苗字だった。
仕事の場だから当然なのに、その一音で胸が冷えた。
「今、参加者が足を止めました。後ろの人が詰まりました。荷物に紐が絡みました。怪我がなかったのは、全員が見ていたからです」
「分かってる」
「分かってるなら、続けない」
「続けるって言ってるんじゃなくて、原因を」
「原因はあとで確認します。今は止めます」
花の声は荒くなかった。怒鳴ってもいなかった。それなのに、賢人の言い訳は、ひとつずつ床に落ちていく。
「でも、ここで止めたら」
「止めるために、今日やっています」
賢人は口を閉じた。
花は参加者へ向き直った。
「驚かせてすみません。確認はここまでです。傘は閉じずに、そのまま係の者へ渡してください。足元が濡れています。急がず、出口まで案内します」
その声で、空気が少し戻った。
高齢者クラブの女性が、「大丈夫よ、びっくりしただけ」と言った。八百屋は、申し訳なさそうにカートの持ち手を握っている。子ども会の保護者は、傘の紐を見つめたまま黙っていた。
賢人は、何も言えなかった。
昨日の聞き取り用紙にあった子どもの字が、もう一度浮かぶ。
ころんだらいやだ。
転ばなかった。
だからいい。
そう言いかけた自分が、何より怖かった。
片づけは、静かに進んだ。
雨は本降りになり、アーケードの外は白く煙っている。通路の端から流れ込む水を、商店街の若手がモップで押し戻した。杏侑子は説明用紙を濡らさないよう抱えている。衣代は参加者の腕章を回収し、一枚ずつ布で拭いた。尚は麦茶を配ったが、いつものように泣き声を混ぜなかった。
花は参加者を出口まで送り、濡れた床で滑りそうな人の足元を最後まで見た。海太は、絡んだ紐とカートの金具を写真に撮り、現物を袋へ入れた。叶一は紐の切れ方ではなく、外れなかった角度を何度も再現していた。
賢人は傘を一本ずつ受け取った。
濡れた布が手のひらに重い。内側の線は、雨水を含むときれいに浮かぶ。今日の確認でも、それは確かに見えた。見えたからこそ、余計に悔しい。
使えるかもしれない。
でも、危ないかもしれない。
その二つは、同じ傘の内側にあった。
晃煕が近づいてきた。
手に持ったファイルの角が、湿気で少し曲がっている。
「黒瀬さん」
「はい」
賢人は、もう反射的に背筋を伸ばした。
晃煕は、いつもの丁寧な声で言った。
「現時点で、この形のまま公的な使用へ進めることはできません」
分かっていた。
分かっていたのに、言葉になって届くと、腹の底に落ちた。
「はい」
「誘導線の見え方、持ち手の評価は良いです。ですが、連結紐は、荷物、杖、ベビーカー、自転車のハンドル、店先の金具など、想定する対象を増やして確認する必要があります。外れる構造も、力の向きによって動きが変わるようです」
晃煕は、紙を一枚めくった。
赤い線が、雨で少しにじんでいる。
「責任範囲も、今日のような閉鎖した通路と、実際に人が混じる場所では違います。夏祭りで使う場合、配布方法、説明者、回収、破損時の対応、使用中止の判断者を改めて決める必要があります」
「夏祭りは」
賢人の声は、自分でも驚くほど小さかった。
晃煕は、すぐに答えなかった。
少しだけ目を伏せ、それから顔を上げた。
「今日のままでは、無理です」
その言葉には、逃げ道がなかった。
「ただし」
晃煕は続けた。
「今日、止められたことは、悪い記録ではありません。止める判断ができたことも、確認結果です。改良して、再確認する余地はあります」
賢人は頷いた。
けれど、その頷きは、頭を下げただけに近かった。
改良。
再確認。
余地。
どれも前へ進む言葉のはずなのに、今は遠かった。
海太が袋に入れた紐を持ってきた。
「持ち帰るな」
賢人は顔を上げた。
「え」
「真鍋製作所で見る。黒瀬の店で一人で触るな」
「俺の傘だ」
「だから一人で言い訳する」
海太の言葉は短かった。
賢人は息を飲んだ。
叶一が横から袋を受け取った。
「俺が預かる。明日の朝、工場で見る」
「明日の朝って」
「七時」
「……早い」
「早くない。今日、止まった分だけ、明日始める」
賢人は笑えなかった。
叶一は、笑わせるつもりもない顔で続けた。
「来るなら来い。来ないなら、俺と海太で不具合だけ洗う」
「俺抜きで」
「傘は、お前の気分が戻るのを待たない」
その言葉が、作業台の角のように胸へ当たった。
花は少し離れたところで、参加者の最後の一人を見送っていた。賢人と目が合いそうになったが、その前に消防署の職員に呼ばれ、そちらへ向いた。
賢人は、謝る機会をまた逃した。
いや、逃したのではない。
仕事の場で謝って、軽くしたかったのだ。
今日の失敗を、自分の気持ちの整理に使おうとしていたのだ。
そのことに気づいて、賢人は傘のケースを強く握った。
夕方、黒瀬傘店へ戻ると、店内がやけに狭く見えた。
濡れた傘を広げる場所は限られている。賢人は床に新聞紙を敷き、試作品を一本ずつ置いた。黒い布から落ちる水滴が、新聞紙に丸い跡を作る。雨天確認の説明用紙に印刷された自分の店名が、濡れた足跡で少し汚れていた。
今日使った傘の内側は、どれもきれいだった。
光の線は、雨の中で確かに人の目を前へ送った。高齢者も、子ども会の保護者も、最初は安心した顔をした。そこまでは、嘘ではない。
嘘ではないものが、危ないものを消してくれるわけではない。
賢人は作業台の椅子に座った。
手を伸ばせば、濡れた傘に触れられる。
けれど、指が動かなかった。
いつもなら、まず骨を見る。次に布を見る。壊れ方を見る。そうすれば、何かが分かる。分かれば、手が動く。
今日は、見る前から怖かった。
自分の作ったものの中に、誰かを転ばせる形が入っている。それを指で見つけることが、怖かった。
賢人は椅子にもたれ、天井を見た。
雨漏りの跡がある。祖父が修理しようとして、そのままになっている薄い輪。五月に戻ってきたとき、その跡を見て、店も自分も似たようなものだと思った。どこかが傷んでいるのに、見ないふりをして、雨が降るまで放っておく。
東京にいたころのことが、勝手に浮かんだ。
会議室の白い机。売上予測の表。誰かの提案へ乗ったふりをして、あとで文句を言う自分。自分の案が通らないと、どうせ分かってない、と心の中で腐る自分。失敗しそうになると、先に距離を置く自分。
戻ってきた理由は、祖父の店を守るため。
そう言えば、少し聞こえがよかった。
でも本当は、東京で続けられなかった自分を、祖父の死と古い店のせいにして隠したかっただけではないのか。
傘の修理なら、指が覚えている。
商店街なら、誰かがかまってくれる。
失敗しても、灯町なら笑ってもらえる。
そんな甘えを、どこかで持っていたのではないか。
今日、傘は止まった。
止まったのは、傘だけではなかった。
賢人は、作業台の上の工具を見た。
祖父の丸やっとこ、古い目打ち、布用の小さなはさみ。どれも使えば答えてくれる道具だ。だが、今日の賢人には、道具を使う資格が一段遠くなったように見えた。
ガラス戸が鳴った。
賢人は動かなかった。
また鳴った。
「開いてるんだろ。紙、貼ってあったぞ」
尚の声だった。
賢人は返事をしなかったが、尚は勝手に戸を開けた。両手に弁当の袋を下げている。雨で肩が濡れ、髪が少ししぼんでいた。
「鍵、かけてないじゃん。危ないよ」
「閉め忘れた」
「それを危ないって言ってるんだよ」
尚は店の中を見回し、濡れた傘を避けながら入ってきた。
「うわ、黒いのが並ぶと迫力あるね。お通夜みたい」
「縁起でもない」
「ごめん。言ってから思った」
尚はすぐに謝り、作業台の空いたところへ弁当を置いた。
「食べな。商店街の弁当屋さんが、売れ残りじゃなくて、ちゃんと作ってくれた。売れ残りも入ってるけど」
「どっちだよ」
「ちゃんと作った売れ残り」
賢人は、少しだけ息を漏らした。
尚は泣いていなかった。
それがかえって、賢人にはこたえた。
「尚さん、今日のこと」
「聞いた。見てもいた。麦茶配ってたし」
「俺、だめだった」
「うん」
軽い相づちだった。
慰めるでもなく、叱るでもない。
賢人は、かえって続きを言わされる形になった。
「事故になってないって言った」
「言ってたね」
「花に、あんなこと言わせた」
「花ちゃんは、自分で言うことを選んだんだよ」
「でも、俺が」
「賢人」
尚が、弁当の袋をほどく手を止めた。
「言い訳してるうちは、まだ諦めてないってことじゃない」
賢人は顔を上げた。
尚は、箸を二膳出しながら続けた。
「本当に諦めた人って、言い訳もしないよ。あれは駄目でした、はい終わり、って顔をする。賢人は今日、必死に自分を守ろうとしてた。見苦しかったけど」
「そこは少し包んでくれよ」
「包むと食べられないでしょ」
尚は弁当のふたを開けた。煮物と卵焼きと、少し焦げた鮭が入っている。湯気はもう立っていない。
「見苦しいってことはさ、まだ格好つけたいんだよ。まだ、ちゃんとしたいんだよ。なら、明日、格好悪いまま行けばいい」
「工場に?」
「どこでも。花ちゃんのところでも、叶一くんのところでも、海太くんの石の前でも」
「石って言うな」
「今日、ほんとに石だったもん。私、麦茶渡すとき、供え物かなって思った」
賢人は、笑ってしまった。
笑いはすぐにしぼんだが、胸の詰まりが少しだけ動いた。
尚は箸を賢人の前に置いた。
「店を閉めるなよ」
その言葉は、急にまっすぐだった。
賢人は箸を見たまま、黙った。
「黒い傘が止まったからって、黒瀬傘店まで止めるな。傘の修理、待ってる人いるんだから」
「今日、触れなかった」
「今は弁当触れ」
「尚さん」
「食べてから落ち込みな。空腹で落ち込むと、だいたい話が大きくなる」
尚は自分の分の卵焼きを口へ入れ、少し眉を寄せた。
「しょっぱい」
「作った人に怒られるぞ」
「落ち込んでる人用だ。涙で薄まる計算かもしれない」
「俺、泣いてない」
「じゃあ、しょっぱいままだね」
くだらない会話だった。
でも、くだらない会話をしているあいだ、賢人は濡れた傘から目を離せた。
逃げたのではない。
たぶん、戻るために息を吸った。
弁当を半分ほど食べたころ、雨は少し弱くなった。
尚は、空の紙コップを片づけるような手つきで弁当のふたを重ねた。
「花ちゃん、怒ってた?」
賢人が聞くと、尚は少し考えた。
「怒ってたよ」
「やっぱり」
「でも、賢人にだけ怒ってたわけじゃないと思う」
「どういうこと」
「人が転びかけるの、花ちゃんは嫌なんだよ。賢人が相手でも、町の人が相手でも、自分が相手でも」
尚は店の奥に置かれた祖父の古い椅子を見た。
「好きな人の作ったものでも、危ないなら止める。そこを曲げないから、花ちゃんは花ちゃんなんじゃないの」
賢人は箸を置いた。
好きな人。
尚は、平気な顔をして爆弾を置く。
「今、そこ拾う?」
「拾わないと雨で流れるから」
「尚さん、たまに雑なのに鋭いよな」
「雑に刺すから深く入るんだよ」
そう言ってから、尚は少しだけ笑った。
賢人は濡れた傘を見た。
花は、止めた。
好きかどうかの前に、止めた。
賢人が本当に向き合わなければいけないのは、そこだった。
花に許してもらうことではない。
花が止めなくてもいいものに、傘を直すことだ。
賢人は立ち上がった。
傘の一本へ手を伸ばす。指先が、濡れた布に触れた。冷たい。重い。だが、さっきより怖くはなかった。
骨を押す。
持ち手を見る。
紐をつける金具の位置を、指でたどる。
今日絡んだ紐そのものは叶一が持っていった。だが、同じ位置についた輪はここにもある。輪の角度が、思ったより外へ向いている。傘を持つ手が少しねじれると、紐が横へ逃げる。横へ逃げた先に荷物の金具があれば、絡む。
分かってしまえば、単純に見える。
なぜ昨日まで気づかなかったのか。
賢人はメモを引き寄せた。
横へ逃げる。
荷物カート、杖、ベビーカー、自転車、店先フック。
外れる力の向き、前後だけでなく横。
手袋、濡れた手、驚いたとき。
書いているうちに、文字が少し乱れた。
尚は黙って見ていた。
「明日、工場、七時?」
「七時」
「起きられる?」
「起きる」
「自己暗示は?」
賢人はペンを止めた。
以前なら、言っていただろう。
いける。まだいける。たぶんいける。
でも、今日は違った。
「目覚ましを三つかける」
尚は、満足したように頷いた。
「そのほうが信用できる」
賢人も頷いた。
自己暗示より、目覚まし。
根性より、確認。
成功より、止まること。
壁に貼った紙の下に、もう一枚足した。
止まった理由を、隠さない。
紙を貼ると、店の中の空気が少し変わった気がした。
雨音はまだある。濡れた傘は重い。夏祭りに間に合うかどうかも分からない。花に何と言えばいいのかも、まだ決まっていない。
それでも、何を直すべきかは、少し見えた。
尚が帰ったあと、賢人は店の鍵をかけた。
今度は、忘れなかった。
作業台の上には、メモと、濡れた傘と、空になった弁当箱がある。祖父の工具箱の上には、クレスト安全の名刺が、聞き取り用紙の下で半分だけ見えていた。
賢人はそれを引き抜かなかった。
明日の朝、まず工場へ行く。
水上の名刺より先に、絡んだ紐を見る。
花へ謝るより先に、花が止めた理由を直す。
賢人は店の奥へ行き、古い目覚まし時計を棚から出した。スマートフォンのアラームを三つ設定し、祖父の目覚ましを七時より一時間早く鳴るように巻く。
針を合わせると、ぜんまいの音が小さく鳴った。
黒い傘は、今日、止まった。
けれど、止まった場所は、終わりではなかった。
賢人は濡れた床を拭き、作業台の明かりを消した。
暗くなった店の中で、黒い傘の内側の線が、外の街灯を受けてほんの少しだけ浮かんだ。進む方向を示すには弱すぎる光だったが、そこにあることだけは分かった。
明日の朝、その光をもう一度、ちゃんと見る。
賢人はそう決めて、店の戸を閉めた。




