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黒い傘は、花嫁の手をひく。  作者: 乾為天女


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12/18

第12話 黒い傘が止まる日

 八月に入った灯町は、朝から湿った熱を抱えていた。

 黒瀬傘店のガラス戸を開けると、夜のあいだにこもった布と油の匂いが、外の蒸し暑さへゆっくり溶けていく。賢人はシャッターを上げきる前に、店先の鉢植えを少し動かした。祖父が置いていた古い鉢で、何の花が咲くのかも分からない。葉だけがやけに元気で、雨の前になると青く濃く見えた。

 店の壁には、まだ紙が貼ってある。

 朝、開ける。

 褒められた言葉だけ拾わない。

 手書きの文字は、一晩たって少し反っていた。賢人は端を押さえ、養生テープを足した。

 「よし」

 誰に聞かせるでもなく言ってから、作業台の上を見た。

 黒い傘が七本、きれいに並んでいる。昨日までに十二本を見直したうち、五本は叶一の工場へ戻した。持ち手の滑り具合、骨の重さ、内側の線の角度。ひとつ直せば、別のひとつが気になった。気になったものを見なかったことにしないだけで、作業の時間は倍になった。

 倍になったのに、早くなった気もした。

 迷う時間が、少し減ったのだと思う。

 賢人は一番手前の傘を開いた。黒い布が、店の低い天井の下で静かに丸く広がる。内側の薄い線は、昼間の光ではほとんど目立たない。窓から差した光が角度を変えると、細い川のように一瞬だけ浮かび、それからまた沈んだ。

 昨日の商店街訓練で、子どもが書いた字が頭の奥に残っている。

 ミチはこわくない。でも、ころんだらいやだ。

 賢人は傘の骨を一本ずつ指で押し、ゆがみを確かめた。布の張りに指を滑らせ、縫い目のわずかな盛り上がりを探る。祖父の作業台は、何十年も同じ場所で同じ音を聞いてきたせいか、賢人が手を止めると、それだけで叱られているような気配がした。

 ガラス戸が軽く鳴った。

 「開いてる?」

 花ではなかった。杏侑子が、首に汗拭き用のタオルを巻いて立っていた。手には、分厚い紙の束と、折れかけのうちわを持っている。

 「開いてます。今日は紙、何枚貼る気?」

 「今日は貼らない。配る」

 杏侑子は胸を張り、紙束を作業台の端へ置いた。

 表紙には、黒い傘の使用説明と、今日の雨天確認の流れが印刷されている。見出しだけがやたら大きい。

 ――黒い傘ミチシルベ 雨の日確認のお願い。

 その下には、晃煕が赤字で直したらしい小さな注意書きがびっしり並んでいた。

 一般の通行は止めます。

 走りません。

 傘同士を無理につなぎません。

 指示があったらすぐ止まります。

 不安を感じたら手を上げます。

 賢人は紙を一枚めくり、苦笑した。

 「晃煕さんの文字、強いな」

 「昨日の夜、役場で三回直された。『魅力的な言い方より、止まれる言い方にしてください』って」

 杏侑子は口調までまねた。

 それが少し似ていて、賢人は笑った。

 「笑ってる場合じゃないよ。今日、雨、来るって」

 「分かってる」

 「本物の雨で、初めてだよ」

 「分かってるって」

 言いながら、賢人は手元の傘を閉じた。

 本物の雨。

 今までの暗幕、霧吹き、バケツの水、濡らした床。どれも雨に似せたものだった。だが、雨は似せるとおとなしい。実際には、斜めから吹きつけ、足元へ跳ね、荷物を濡らし、人の声を消す。人は傘を差すだけで片手を失い、足早になる。濡れたくない気持ちは、予想より簡単に順番を乱す。

 花は、昨日の夕方から店へ来ていなかった。

 黒瀬傘店、開いてるなら。

 そう言って渡された聞き取り用紙を、賢人は全部読んだ。褒めている紙も、不便を書いた紙も、同じように作業台へ並べた。花に謝る言葉も考えた。考えすぎて、一周して短くなった。

 昨日は悪かった。

 まず、それだけでいいのだと思う。

 それなのに、花の顔を見る前から、喉の奥が妙に乾いていた。

 「花ちゃん、今日、来るよ」

 杏侑子が、紙の束をそろえながら言った。

 賢人は少しだけ手を止めた。

 「消防署の立ち会いだから、来るだろ」

 「そうじゃなくて」

 「何が」

 「ううん。言わない。私が言うと、全部軽くなるから」

 杏侑子はうちわで自分の顔をあおぎ、すぐに店の外へ向かった。

 「じゃあ、あとで閉鎖通路ね。遅れないで。今日は遅刻したら、海太さんの顔が石になるよ」

 「いつも石だろ」

 「今日は墓石」

 「縁起でもないこと言うな」

 杏侑子は笑って、アーケードの向こうへ走っていった。

 賢人はもう一度、傘を見た。

 昨日の成功で、町は少し浮いている。杏侑子は浮くと早い。尚は浮く前から泣く。衣代は浮きながら布を測る。晃煕は浮かないように紙を増やす。叶一は浮いたものを机へ戻す。

 花は、浮かない。

 人が喜んでいるときほど、足元を見ている。

 賢人は、それを分かっているつもりで、昨日、忘れかけた。

 作業台の隅に置いた名刺が目に入った。クレスト安全の水上から渡されたものだ。叶一に捨てるなと言われ、工具箱のふたの上に置いてある。白い紙の角は、昨日、賢人が握りしめたせいで少し曲がっていた。

 賢人は名刺を裏返し、その上に聞き取り用紙の束を重ねた。

 価値があるかどうかは、あとでいい。

 今日は、止まれるかどうかだ。


 午後三時、灯町商店街の古いアーケードの一角に、立ち入りを止める赤いコーンが並んだ。

 ここは、普段なら八百屋の台車と自転車と買い物帰りの人が、遠慮しながらすれ違う通路だった。数年前に隣の金物屋が閉じてから、午後は人通りが少なく、雨の日には天井のひびから水が落ちる。今日だけは、商店街の協力で両側の入口を閉じ、参加者以外は入れないようにしてあった。

 空は、昼すぎから低くなっていた。

 風がアーケードの端を鳴らし、遠くの雷が、腹の底で鳴るように一度だけ響いた。夏の雨は、来る前から匂いを変える。乾いた埃の上に、水の気配がふくらんでいく。

 賢人が黒い傘の入ったケースを運び込むと、叶一はすでに作業台代わりの長机を出していた。工具箱、予備の紐、持ち手の滑り止め、濡れた布を拭くタオル。順番に並べられたそれらを見ただけで、賢人の背中が少し伸びた。

 「遅れてはいないな」

 叶一が時計を見ずに言った。

 「三分前」

 「三分前は、遅刻しかけだ」

 「町工場の朝の物差しで午後を測るなよ」

 叶一は答えず、ケースの留め具を開けた。

 海太は消防署の青い雨具を着て、通路の中央に立っていた。足元の水はけ、コーンの位置、参加者の立つ場所を確かめている。手にはクリップボード。顔は杏侑子の言ったとおり、かなり石に近い。

 晃煕は役場の腕章をつけ、商店街側の説明係と話していた。言葉は丁寧だが、手元の紙には赤い線がいくつも引かれている。注意点を増やしたのだろう。

 衣代は雨に濡れないよう、傘の説明用に縫った小さな腕章を袋から出していた。白地に黒い糸で、ミチシルベ確認中、とある。余白に、なぜか小さな花の刺繍が一つ入っている。

 「衣代さん、これ、花の刺繍いる?」

 賢人が聞くと、衣代は針山をしまいながら顔を上げた。

 「いるわよ。文字だけだと緊張するでしょう」

 「緊張する場なんじゃ」

 「緊張しすぎると転ぶの」

 言い切られて、賢人は言葉を引っ込めた。

 尚は、参加者に渡す麦茶の入ったクーラーボックスを抱えて来た。すでに目が潤んでいる。

 「まだ始まってないのに」

 賢人が言うと、尚はクーラーボックスを置きながら鼻をすすった。

 「始まる前が一番泣けるんだよ。始まったら働くから」

 「泣く配分がおかしい」

 「人生は配分どおりに泣けない」

 妙に立派なことを言って、尚は紙コップを並べ始めた。

 賢人は笑いかけたが、その笑いは途中で止まった。

 アーケードの入口から、花が入ってきた。

 消防署の雨具に、髪を低くまとめている。濡れた床を見るときの目で、まず足元を見た。次にコーンの位置を見た。それから海太と短く言葉を交わし、参加者の列へ視線を移した。

 最後に、賢人を見た。

 ほんの一秒だった。

 それでも、昨日より遠いか近いかくらいは分かった。

 遠い。

 だが、向こうを向いてはいない。

 賢人は傘を一本持ち、花のほうへ歩いた。

 「昨日は」

 そこまで言ったところで、海太の声が通路に響いた。

 「確認を始めます。参加する方は、こちらへ集まってください」

 花は賢人から視線を外し、すぐに参加者へ向き直った。

 「あとで」

 短く言った声は、仕事の声だった。

 賢人はうなずいた。

 あとで。

 今は、傘の時間だ。


 今日の参加者は、商店街の店主、高齢者クラブの三人、子ども会の保護者二人、役場職員、消防署員、そして黒瀬傘店と真鍋製作所の関係者に限られていた。一般の買い物客は入れない。通路の両端には、杏侑子と商店街の若手が立ち、うっかり入ろうとする人を止めている。

 晃煕が、紙を持って説明を始めた。

 「本日の確認は、灯町商店街の閉鎖した通路内で行います。黒い傘を実際の雨に近い状況で開き、誘導線の見え方、持ち手の扱いやすさ、紐の取り外し、歩行時の安全性を確かめます。避難訓練ではありません。危険を感じた場合は、ただちに止めます」

 いつもの柔らかい言い回しより、少し固い。

 花が参加者の前に立った。

 「今日は、うまく進むことより、止まることを大事にします。誰かが怖いと思ったら止めます。足元が不安なら止めます。分からなければ、手を上げてください。速く歩く必要はありません」

 子ども会の保護者が、小さくうなずいた。

 高齢者クラブの一人が、「止まってばっかりでもいいのかい」と笑った。

 花はその人へ目線を合わせた。

 「止まれる道具かどうかを見ます。止まれるなら、次に進めます」

 賢人は、胸の奥が小さく痛むのを感じた。

 止まれるなら、次に進める。

 それは、花が昨日の自分にも言っていたのだと、今さら分かった。

 海太が手順を読み上げる。

 最初は傘をつながない。

 次に、二人一組で短い安全紐を使う。

 そのあと、荷物を持った人を混ぜる。

 最後に、アーケードの端から実際の雨が入り込む状況で、見え方を確かめる。

 賢人は傘を配った。一本渡すたび、持ち手を確認してもらい、重さを聞く。昨日の聞き取り用紙が頭にあるせいか、相手の顔を前より長く見るようになった。

 「ちょっと太いけど、握りやすいね」

 「濡れたらどうかしら」

 「黒いのに中がきれいだねえ」

 「閉じると普通なんだ」

 言葉が増えていく。

 賢人は頷きながら、紙に書いた。褒め言葉も、迷いも、全部。

 外で雷がもう一度鳴った。

 直後、雨が来た。

 アーケードの屋根を、無数の指で叩くような音が覆った。乾いていた通路の端に、斜めから細かい水が吹き込み、コンクリートの色が濃くなっていく。風が入口のビニール幕を膨らませ、杏侑子が慌てて押さえた。

 「始めます」

 海太の声が、雨音の中でもはっきり通った。

 最初の確認は、うまくいった。

 参加者が傘を開くと、黒い内側に仕込まれた線が、外から入る白い光を拾って細く浮かぶ。暗い通路の中で、派手すぎない光が、自然に前へ視線を向ける。高齢者クラブの三人は、花の声に合わせてゆっくり歩いた。子ども会の保護者も、傘の縁が人に当たらない角度を覚えると、少し表情をゆるめた。

 賢人は、胸の奥で息を止めていたことに気づいた。

 「いいぞ」

 杏侑子が小声で言った。

 「黙って」

 衣代が小声で止めた。

 「でも、いいぞ」

 「黙って喜びなさい」

 そのやり取りに、賢人は少し笑いそうになった。

 花は笑わなかった。濡れた床の端、傘の先、参加者の靴の向き、人と人との間隔を見ている。海太も同じだった。

 次に、短い安全紐を使った確認が始まった。

 傘の持ち手の下に取り付けられた小さな輪へ、ゆるく紐をかける。強い力がかかったら外れるようにする、というのが賢人と叶一の案だった。まだ完全ではないが、昨日の時点では、ゆるい列を保つ助けになると判断していた。

 二人一組では問題なかった。

 高齢者と付き添い役。保護者と子ども役。花と海太が左右から見守り、ゆっくり進む。紐は引っ張られすぎず、歩幅がずれたときだけ軽く揺れた。

 「悪くない」

 海太が言った。

 賢人は、その言葉を聞いて初めて肩の力が抜けた。

 悪くない。

 海太の口から出ると、それはかなり大きな褒め言葉だった。

 「次、荷物ありで確認します」

 晃煕が紙を見て言った。

 商店街の八百屋が、空の荷物カートを持ってきた。普段、野菜の箱を運ぶための小さな二輪カートで、持ち手の横に曲がった金具がついている。中身は空だが、濡れた床を押すと車輪が少し引っかかる。

 賢人は一瞬、胸の奥に小さな違和感を覚えた。

 金具。

 紐。

 でも、これは確認項目にある。荷物を持つ人を混ぜる。実際の雨の日には、買い物袋もカートも杖もベビーカーもある。ここで見ないと意味がない。

 花が、カートを押す八百屋へ近づいた。

 「速く押さないでください。傘とカートの間を空けてください」

 「分かった分かった。ゆっくりね」

 八百屋は笑った。商店街の人間らしい軽さだったが、花は笑い返さず、車輪の向きを見た。

 賢人は叶一のほうを見た。

 叶一も金具を見ていた。眉が少しだけ寄っている。

 「一度、紐なしで」

 賢人が言いかけたのと、海太が「待機」と言ったのは、ほぼ同時だった。

 しかし、その声より半歩早く、参加者の一人が傘を動かした。

 雨音で聞き取りづらかったのかもしれない。後ろの人が前へ進んだと勘違いしたのかもしれない。傘につながった短い紐が、ふわりと横へ流れた。

 その先が、カートの金具に触れた。

 引っかかった。

 大きな力ではなかった。カートも倒れていない。人も転んでいない。

 それでも、紐が引かれた瞬間、つながれた傘の持ち手が不自然に傾いた。高齢者クラブの女性が、驚いて足を止める。後ろの人が、その背中にぶつかりそうになる。

 花が動いた。

 「止まって」

 声は低かった。

 「全員、その場で止まって」

 海太が同時に前へ出て、カートの車輪を押さえた。叶一は紐を見て、工具を出すより早く手で外した。晃煕は入口側に向かって腕を上げ、外から入ろうとした人を止める杏侑子へ合図した。

 雨音が、大きくなった気がした。

 賢人は、傘を握ったまま立っていた。

 ほんの数秒。

 本当に、数秒の出来事だった。

 誰も倒れていない。怪我もない。カートも無事。紐も外れた。

 だが、花の顔を見た瞬間、賢人は分かった。

 これは、無事だったから続けられる、ではない。

 無事だったから、止めるのだ。

 海太がクリップボードを閉じた。

 「中止」

 誰かが息をのんだ。

 賢人の口が、勝手に動いた。

 「待ってくれ。今のは、声が聞こえにくかっただけで」

 海太は振り向かなかった。

 「中止だ」

 「紐の長さを変えれば」

 「今日は中止」

 「でも、事故にはなってない」

 言った瞬間、自分で自分の言葉を聞いた。

 事故にはなってない。

 その言い方は、昨日の「成功したら文句ないだろ」と同じ場所から出ていた。

 花が賢人の前に来た。

 雨具の肩に、アーケードの端から吹き込んだ細かな雨がついている。

 「黒瀬さん」

 苗字だった。

 仕事の場だから当然なのに、その一音で胸が冷えた。

 「今、参加者が足を止めました。後ろの人が詰まりました。荷物に紐が絡みました。怪我がなかったのは、全員が見ていたからです」

 「分かってる」

 「分かってるなら、続けない」

 「続けるって言ってるんじゃなくて、原因を」

 「原因はあとで確認します。今は止めます」

 花の声は荒くなかった。怒鳴ってもいなかった。それなのに、賢人の言い訳は、ひとつずつ床に落ちていく。

 「でも、ここで止めたら」

 「止めるために、今日やっています」

 賢人は口を閉じた。

 花は参加者へ向き直った。

 「驚かせてすみません。確認はここまでです。傘は閉じずに、そのまま係の者へ渡してください。足元が濡れています。急がず、出口まで案内します」

 その声で、空気が少し戻った。

 高齢者クラブの女性が、「大丈夫よ、びっくりしただけ」と言った。八百屋は、申し訳なさそうにカートの持ち手を握っている。子ども会の保護者は、傘の紐を見つめたまま黙っていた。

 賢人は、何も言えなかった。

 昨日の聞き取り用紙にあった子どもの字が、もう一度浮かぶ。

 ころんだらいやだ。

 転ばなかった。

 だからいい。

 そう言いかけた自分が、何より怖かった。


 片づけは、静かに進んだ。

 雨は本降りになり、アーケードの外は白く煙っている。通路の端から流れ込む水を、商店街の若手がモップで押し戻した。杏侑子は説明用紙を濡らさないよう抱えている。衣代は参加者の腕章を回収し、一枚ずつ布で拭いた。尚は麦茶を配ったが、いつものように泣き声を混ぜなかった。

 花は参加者を出口まで送り、濡れた床で滑りそうな人の足元を最後まで見た。海太は、絡んだ紐とカートの金具を写真に撮り、現物を袋へ入れた。叶一は紐の切れ方ではなく、外れなかった角度を何度も再現していた。

 賢人は傘を一本ずつ受け取った。

 濡れた布が手のひらに重い。内側の線は、雨水を含むときれいに浮かぶ。今日の確認でも、それは確かに見えた。見えたからこそ、余計に悔しい。

 使えるかもしれない。

 でも、危ないかもしれない。

 その二つは、同じ傘の内側にあった。

 晃煕が近づいてきた。

 手に持ったファイルの角が、湿気で少し曲がっている。

 「黒瀬さん」

 「はい」

 賢人は、もう反射的に背筋を伸ばした。

 晃煕は、いつもの丁寧な声で言った。

 「現時点で、この形のまま公的な使用へ進めることはできません」

 分かっていた。

 分かっていたのに、言葉になって届くと、腹の底に落ちた。

 「はい」

 「誘導線の見え方、持ち手の評価は良いです。ですが、連結紐は、荷物、杖、ベビーカー、自転車のハンドル、店先の金具など、想定する対象を増やして確認する必要があります。外れる構造も、力の向きによって動きが変わるようです」

 晃煕は、紙を一枚めくった。

 赤い線が、雨で少しにじんでいる。

 「責任範囲も、今日のような閉鎖した通路と、実際に人が混じる場所では違います。夏祭りで使う場合、配布方法、説明者、回収、破損時の対応、使用中止の判断者を改めて決める必要があります」

 「夏祭りは」

 賢人の声は、自分でも驚くほど小さかった。

 晃煕は、すぐに答えなかった。

 少しだけ目を伏せ、それから顔を上げた。

 「今日のままでは、無理です」

 その言葉には、逃げ道がなかった。

 「ただし」

 晃煕は続けた。

 「今日、止められたことは、悪い記録ではありません。止める判断ができたことも、確認結果です。改良して、再確認する余地はあります」

 賢人は頷いた。

 けれど、その頷きは、頭を下げただけに近かった。

 改良。

 再確認。

 余地。

 どれも前へ進む言葉のはずなのに、今は遠かった。

 海太が袋に入れた紐を持ってきた。

 「持ち帰るな」

 賢人は顔を上げた。

 「え」

 「真鍋製作所で見る。黒瀬の店で一人で触るな」

 「俺の傘だ」

 「だから一人で言い訳する」

 海太の言葉は短かった。

 賢人は息を飲んだ。

 叶一が横から袋を受け取った。

 「俺が預かる。明日の朝、工場で見る」

 「明日の朝って」

 「七時」

 「……早い」

 「早くない。今日、止まった分だけ、明日始める」

 賢人は笑えなかった。

 叶一は、笑わせるつもりもない顔で続けた。

 「来るなら来い。来ないなら、俺と海太で不具合だけ洗う」

 「俺抜きで」

 「傘は、お前の気分が戻るのを待たない」

 その言葉が、作業台の角のように胸へ当たった。

 花は少し離れたところで、参加者の最後の一人を見送っていた。賢人と目が合いそうになったが、その前に消防署の職員に呼ばれ、そちらへ向いた。

 賢人は、謝る機会をまた逃した。

 いや、逃したのではない。

 仕事の場で謝って、軽くしたかったのだ。

 今日の失敗を、自分の気持ちの整理に使おうとしていたのだ。

 そのことに気づいて、賢人は傘のケースを強く握った。


 夕方、黒瀬傘店へ戻ると、店内がやけに狭く見えた。

 濡れた傘を広げる場所は限られている。賢人は床に新聞紙を敷き、試作品を一本ずつ置いた。黒い布から落ちる水滴が、新聞紙に丸い跡を作る。雨天確認の説明用紙に印刷された自分の店名が、濡れた足跡で少し汚れていた。

 今日使った傘の内側は、どれもきれいだった。

 光の線は、雨の中で確かに人の目を前へ送った。高齢者も、子ども会の保護者も、最初は安心した顔をした。そこまでは、嘘ではない。

 嘘ではないものが、危ないものを消してくれるわけではない。

 賢人は作業台の椅子に座った。

 手を伸ばせば、濡れた傘に触れられる。

 けれど、指が動かなかった。

 いつもなら、まず骨を見る。次に布を見る。壊れ方を見る。そうすれば、何かが分かる。分かれば、手が動く。

 今日は、見る前から怖かった。

 自分の作ったものの中に、誰かを転ばせる形が入っている。それを指で見つけることが、怖かった。

 賢人は椅子にもたれ、天井を見た。

 雨漏りの跡がある。祖父が修理しようとして、そのままになっている薄い輪。五月に戻ってきたとき、その跡を見て、店も自分も似たようなものだと思った。どこかが傷んでいるのに、見ないふりをして、雨が降るまで放っておく。

 東京にいたころのことが、勝手に浮かんだ。

 会議室の白い机。売上予測の表。誰かの提案へ乗ったふりをして、あとで文句を言う自分。自分の案が通らないと、どうせ分かってない、と心の中で腐る自分。失敗しそうになると、先に距離を置く自分。

 戻ってきた理由は、祖父の店を守るため。

 そう言えば、少し聞こえがよかった。

 でも本当は、東京で続けられなかった自分を、祖父の死と古い店のせいにして隠したかっただけではないのか。

 傘の修理なら、指が覚えている。

 商店街なら、誰かがかまってくれる。

 失敗しても、灯町なら笑ってもらえる。

 そんな甘えを、どこかで持っていたのではないか。

 今日、傘は止まった。

 止まったのは、傘だけではなかった。

 賢人は、作業台の上の工具を見た。

 祖父の丸やっとこ、古い目打ち、布用の小さなはさみ。どれも使えば答えてくれる道具だ。だが、今日の賢人には、道具を使う資格が一段遠くなったように見えた。

 ガラス戸が鳴った。

 賢人は動かなかった。

 また鳴った。

 「開いてるんだろ。紙、貼ってあったぞ」

 尚の声だった。

 賢人は返事をしなかったが、尚は勝手に戸を開けた。両手に弁当の袋を下げている。雨で肩が濡れ、髪が少ししぼんでいた。

 「鍵、かけてないじゃん。危ないよ」

 「閉め忘れた」

 「それを危ないって言ってるんだよ」

 尚は店の中を見回し、濡れた傘を避けながら入ってきた。

 「うわ、黒いのが並ぶと迫力あるね。お通夜みたい」

 「縁起でもない」

 「ごめん。言ってから思った」

 尚はすぐに謝り、作業台の空いたところへ弁当を置いた。

 「食べな。商店街の弁当屋さんが、売れ残りじゃなくて、ちゃんと作ってくれた。売れ残りも入ってるけど」

 「どっちだよ」

 「ちゃんと作った売れ残り」

 賢人は、少しだけ息を漏らした。

 尚は泣いていなかった。

 それがかえって、賢人にはこたえた。

 「尚さん、今日のこと」

 「聞いた。見てもいた。麦茶配ってたし」

 「俺、だめだった」

 「うん」

 軽い相づちだった。

 慰めるでもなく、叱るでもない。

 賢人は、かえって続きを言わされる形になった。

 「事故になってないって言った」

 「言ってたね」

 「花に、あんなこと言わせた」

 「花ちゃんは、自分で言うことを選んだんだよ」

 「でも、俺が」

 「賢人」

 尚が、弁当の袋をほどく手を止めた。

 「言い訳してるうちは、まだ諦めてないってことじゃない」

 賢人は顔を上げた。

 尚は、箸を二膳出しながら続けた。

 「本当に諦めた人って、言い訳もしないよ。あれは駄目でした、はい終わり、って顔をする。賢人は今日、必死に自分を守ろうとしてた。見苦しかったけど」

 「そこは少し包んでくれよ」

 「包むと食べられないでしょ」

 尚は弁当のふたを開けた。煮物と卵焼きと、少し焦げた鮭が入っている。湯気はもう立っていない。

 「見苦しいってことはさ、まだ格好つけたいんだよ。まだ、ちゃんとしたいんだよ。なら、明日、格好悪いまま行けばいい」

 「工場に?」

 「どこでも。花ちゃんのところでも、叶一くんのところでも、海太くんの石の前でも」

 「石って言うな」

 「今日、ほんとに石だったもん。私、麦茶渡すとき、供え物かなって思った」

 賢人は、笑ってしまった。

 笑いはすぐにしぼんだが、胸の詰まりが少しだけ動いた。

 尚は箸を賢人の前に置いた。

 「店を閉めるなよ」

 その言葉は、急にまっすぐだった。

 賢人は箸を見たまま、黙った。

 「黒い傘が止まったからって、黒瀬傘店まで止めるな。傘の修理、待ってる人いるんだから」

 「今日、触れなかった」

 「今は弁当触れ」

 「尚さん」

 「食べてから落ち込みな。空腹で落ち込むと、だいたい話が大きくなる」

 尚は自分の分の卵焼きを口へ入れ、少し眉を寄せた。

 「しょっぱい」

 「作った人に怒られるぞ」

 「落ち込んでる人用だ。涙で薄まる計算かもしれない」

 「俺、泣いてない」

 「じゃあ、しょっぱいままだね」

 くだらない会話だった。

 でも、くだらない会話をしているあいだ、賢人は濡れた傘から目を離せた。

 逃げたのではない。

 たぶん、戻るために息を吸った。


 弁当を半分ほど食べたころ、雨は少し弱くなった。

 尚は、空の紙コップを片づけるような手つきで弁当のふたを重ねた。

 「花ちゃん、怒ってた?」

 賢人が聞くと、尚は少し考えた。

 「怒ってたよ」

 「やっぱり」

 「でも、賢人にだけ怒ってたわけじゃないと思う」

 「どういうこと」

 「人が転びかけるの、花ちゃんは嫌なんだよ。賢人が相手でも、町の人が相手でも、自分が相手でも」

 尚は店の奥に置かれた祖父の古い椅子を見た。

 「好きな人の作ったものでも、危ないなら止める。そこを曲げないから、花ちゃんは花ちゃんなんじゃないの」

 賢人は箸を置いた。

 好きな人。

 尚は、平気な顔をして爆弾を置く。

 「今、そこ拾う?」

 「拾わないと雨で流れるから」

 「尚さん、たまに雑なのに鋭いよな」

 「雑に刺すから深く入るんだよ」

 そう言ってから、尚は少しだけ笑った。

 賢人は濡れた傘を見た。

 花は、止めた。

 好きかどうかの前に、止めた。

 賢人が本当に向き合わなければいけないのは、そこだった。

 花に許してもらうことではない。

 花が止めなくてもいいものに、傘を直すことだ。

 賢人は立ち上がった。

 傘の一本へ手を伸ばす。指先が、濡れた布に触れた。冷たい。重い。だが、さっきより怖くはなかった。

 骨を押す。

 持ち手を見る。

 紐をつける金具の位置を、指でたどる。

 今日絡んだ紐そのものは叶一が持っていった。だが、同じ位置についた輪はここにもある。輪の角度が、思ったより外へ向いている。傘を持つ手が少しねじれると、紐が横へ逃げる。横へ逃げた先に荷物の金具があれば、絡む。

 分かってしまえば、単純に見える。

 なぜ昨日まで気づかなかったのか。

 賢人はメモを引き寄せた。

 横へ逃げる。

 荷物カート、杖、ベビーカー、自転車、店先フック。

 外れる力の向き、前後だけでなく横。

 手袋、濡れた手、驚いたとき。

 書いているうちに、文字が少し乱れた。

 尚は黙って見ていた。

 「明日、工場、七時?」

 「七時」

 「起きられる?」

 「起きる」

 「自己暗示は?」

 賢人はペンを止めた。

 以前なら、言っていただろう。

 いける。まだいける。たぶんいける。

 でも、今日は違った。

 「目覚ましを三つかける」

 尚は、満足したように頷いた。

 「そのほうが信用できる」

 賢人も頷いた。

 自己暗示より、目覚まし。

 根性より、確認。

 成功より、止まること。

 壁に貼った紙の下に、もう一枚足した。

 止まった理由を、隠さない。

 紙を貼ると、店の中の空気が少し変わった気がした。

 雨音はまだある。濡れた傘は重い。夏祭りに間に合うかどうかも分からない。花に何と言えばいいのかも、まだ決まっていない。

 それでも、何を直すべきかは、少し見えた。

 尚が帰ったあと、賢人は店の鍵をかけた。

 今度は、忘れなかった。

 作業台の上には、メモと、濡れた傘と、空になった弁当箱がある。祖父の工具箱の上には、クレスト安全の名刺が、聞き取り用紙の下で半分だけ見えていた。

 賢人はそれを引き抜かなかった。

 明日の朝、まず工場へ行く。

 水上の名刺より先に、絡んだ紐を見る。

 花へ謝るより先に、花が止めた理由を直す。

 賢人は店の奥へ行き、古い目覚まし時計を棚から出した。スマートフォンのアラームを三つ設定し、祖父の目覚ましを七時より一時間早く鳴るように巻く。

 針を合わせると、ぜんまいの音が小さく鳴った。

 黒い傘は、今日、止まった。

 けれど、止まった場所は、終わりではなかった。

 賢人は濡れた床を拭き、作業台の明かりを消した。

 暗くなった店の中で、黒い傘の内側の線が、外の街灯を受けてほんの少しだけ浮かんだ。進む方向を示すには弱すぎる光だったが、そこにあることだけは分かった。

 明日の朝、その光をもう一度、ちゃんと見る。

 賢人はそう決めて、店の戸を閉めた。



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