第7話 理想のデートは実地確認
翌朝、賢人は目覚まし時計に勝った。
正確に言えば、目覚まし時計を止めるために店の入口まで歩いたところで、足元に置いていた修理済みのビニール傘につまずき、シャッターの内側に額を軽くぶつけた。その音で完全に目が覚めた。
黒瀬傘店の天井には、昨夜の雨で広がった染みが丸く残っている。店の奥からは湿った木と古い布の匂いがした。五月の終わりから少しずつ濃くなっていた空気は、六月の半ばに入り、いよいよ水を含んだ布団のように重い。
賢人は額を押さえながら、入口の棚に置いた紺色の折りたたみ傘を見た。
花の傘だ。
十年前、駅のホームに置き忘れた言葉の代わりにはならない。けれど、今は店を開けて、預かったものを渡せる場所にいる。
「よし」
誰もいない店内に向かって言った。自己暗示ではない。言わないと、また寝間着のまま修理台に座り込みそうだったからだ。
シャッターを上げると、商店街の朝がゆっくり入ってきた。パン屋の換気扇から甘い匂いが流れ、魚屋の前では発泡スチロールの箱を動かす音がした。向かいの薬局の自動ドアはまだ閉まっているが、奥で蛍光灯だけがついている。
その真ん中を、杏侑子が走ってきた。
片手に紙袋、もう片手に丸めた模造紙を抱えている。髪は結び損ねたように片側だけ跳ね、首から下げた名札は裏返っていた。
「開いてる! すごい! 黒瀬傘店が朝から開いてる!」
「珍獣を見たみたいに言うな」
「だって昨日まで、午前中はだいたい修理中か睡眠中だったじゃないですか」
「修理中は仕事だろ」
「睡眠中は?」
「夢の中で構想を練ってた」
杏侑子は、賢人の顔をじっと見てから、紙袋を作業台に置いた。
「嘘が雑になってきましたね。成長です」
「どういう褒め方だよ」
「黒瀬さん、今日、歩けます?」
「歩く? どこへ」
杏侑子は模造紙を広げた。そこには太いペンで、灯町商店街紹介記事、と書かれている。その下に、駅前地下道、川沿い小道、旧ひかり座前、団地坂、灯町歩道橋、きぬよ衣裳室、尚ちゃん、と線でつながっていた。
いちばん上には、やけに大きな文字で、理想のデートコース、と書かれていた。
賢人は黙って模造紙を畳もうとした。
杏侑子が両手で押さえる。
「待ってください。逃げる前に説明を聞いてください」
「逃げるって言うな。これは明らかに罠だろ」
「罠ではありません。灯町商店街連合会の、若い人にも町を歩いてもらうための紹介記事です。商店街の店だけじゃなくて、地下道とか歩道橋とか、雨の日に困る場所も載せたいんです。そこで黒い傘の確認も一緒にできます」
最後の一文だけ、声の調子が変わった。
賢人は、模造紙の線を見直した。確かに、花や海太に何度も言われていた確認箇所が並んでいる。駅前地下道の濡れた階段。川沿いの狭い道。旧ひかり座の軒下の暗がり。団地坂の手すり。歩道橋の踊り場。どれも、黒い傘が本当に役に立つか試すには避けて通れない場所だった。
「で、なんで題名が理想のデートコースなんだよ」
「読まれるからです」
「もっとまともな理由を用意しろ」
「花さんも来ます」
賢人は模造紙から手を離した。
杏侑子は、勝った顔でうなずく。
「非番だそうです。もちろん消防士としての確認ではなく、町に住む人として、雨の日に歩きにくい場所を見てもらうだけです。念のため、海太さんには今日の確認内容を共有済みです。無理なことはしません。走りません。人を集めません。黒い傘は一本だけ。撮影は、顔が分からない角度だけ」
「そこまで言えるなら、題名も変えろよ」
「理想の実地確認コース、だと誰も読みません」
賢人は反論しようとして、やめた。
花が来る。
それだけで、昨日送った文面が頭の奥で光った。今度は置いていかない。自分で打ったくせに、今朝になってから何度も思い出しては、布団をかぶり直したくなっていた。
十五分後、花は店の前に現れた。
私服だった。薄い紺のシャツに、動きやすそうな黒いパンツ。髪は低く結んでいる。消防服のときよりも輪郭がやわらかく見えるのに、足の置き方や周囲を見る目は、いつもの花だった。
賢人は、入口の棚から紺色の折りたたみ傘を取った。
「預かってた」
「ありがとう」
花は傘を受け取り、骨の部分をそっと開いた。昨日まで歪んでいた親骨はまっすぐ戻り、布の折り目も整っている。花は指で露先を押し、軽く閉じた。
「ちゃんと直ってる」
「傘屋だからな」
「朝も開いてる」
「傘屋だからな」
「それは、まだ様子見」
賢人は何か言い返そうとしたが、花の口元が少しだけ上がっているのを見て、やめた。
杏侑子が二人の間へ体を滑り込ませた。
「では、灯町の雨の日に歩きやすい道、歩きにくい道を確認しながら、紹介記事用の写真を撮ります。黒瀬さんと花さんは自然に歩いてください」
「自然にって言われると、不自然になるだろ」
「黒瀬さんはだいたい不自然なので大丈夫です」
「失礼だな」
花が小さく笑った。
その音だけで、賢人は修理台の上に残した反射テープの切れ端まで明るくなった気がした。
最初に向かったのは、駅前地下道だった。
昼前の地下道は、通勤の混雑が過ぎている。それでも、買い物帰りの人や、学校へ遅れて向かう学生、ベビーカーを押す母親が通る。階段の端には、昨夜の雨がしつこく残っていた。壁の白いタイルは、蛍光灯の光をぼんやり返している。
賢人は黒い傘の第二試作を持っていた。まだ完成ではない。内側には反射材を細く貼り直し、持ち手には仮の溝を入れてある。外側は、ただの黒い傘に見える。
花は階段の下で立ち止まり、周囲を見た。
「ここで人が止まる理由、分かる?」
「出口が二つあるから?」
「それもある。あと、音がこもる。雨の日は靴音と排水の音で、呼びかけが聞き取りにくい。階段の上が明るいと、下からは人の影だけが見える。前の人が止まると、後ろも理由が分からないまま止まる」
賢人は傘を半分だけ開き、階段の下から上へ向けた。内側の線は、蛍光灯だけでは弱い。花が携帯用の小さなライトを当てると、細い反射材が淡く光った。
「見えるけど、少し上に逃げるな」
「角度の問題?」
「うん。傘を持つ人の身長で変わる。子どもが持つと、もっと低い」
花は傘を受け取り、自分の肩の高さで傾けた。賢人はその横顔を見ながら、仕事の話を聞くべきだと自分に言い聞かせる。けれど、彼女の手元が濡れた階段の光を拾うたび、十年前の花火の夜の手が重なった。
「聞いてる?」
「聞いてる。身長で、角度が変わる」
「じゃあ、今の顔は?」
「真剣に聞いている顔」
「嘘が雑」
「今朝も言われた」
花は傘を返しながら、少しだけ呆れた顔をした。
杏侑子は階段の上で、二人の顔が写らないように足元と傘だけを撮っている。何度も位置を変え、最後には自分の靴を滑らせかけ、花に腕をつかまれた。
「杏侑子さん、写真より足元」
「はい。すみません。理想の紹介記事、初手で転倒するところでした」
「題名から変えたほうがいいと思う」
花の声は低いが、責めてはいない。賢人は、地下道で初めて再会した日のことを思い出した。あの日も、花は怖がる人を急がせなかった。ただ、進むための順番を作っていた。
この傘も、そういうものにしたい。
誰かを急かすのではなく、止まった足が、次の一歩を見つけられるようにするもの。
賢人はメモ帳を取り出し、反射材の角度と身長差、と書いた。字は少し曲がったが、破らずに残した。
地下道を出ると、空はまだ曇っていた。
次は川沿いの細道だった。灯町の真ん中を流れる川は、普段は浅く、子どもが覗き込んで小魚を探すような流れだ。けれど、梅雨の水を含むと、欄干の下で茶色く膨らみ、いつもより低い音を立てる。
歩道は狭い。片側に古い欄干、反対側に民家の塀がある。傘を差した人同士がすれ違うには、どちらかが少し傾けなければならない。
賢人が黒い傘を開くと、花がすぐに言った。
「ここでは広げすぎないほうがいい」
「雨の日に傘を広げないって、傘の存在理由が危うくないか」
「人に当たる。あと、欄干側へ傾けると、川を見ようとして足元がずれる人がいる」
「そこまで見るのか」
「見る。転ぶ人は、転ぶ直前に別のものを見てる」
花はそう言って、欄干の水滴を指で払った。その仕草に無駄がなかった。賢人は、黒い傘の先端を少し下げる。
花は彼の歩幅を見た。
「黒瀬くん、歩くの速い」
「そうか?」
「考えごとしながら前だけ見てると速くなる。後ろの人が高齢者や子どもなら、離れる」
賢人は立ち止まり、花の隣に戻った。
「これくらい?」
「もう少し遅く」
花が歩き出す。賢人は合わせる。
ただそれだけのことが、妙に難しかった。
東京にいたころ、賢人はいつも急いでいた。会議に遅れないように、上司の顔色を読み損ねないように、誰かの案に乗り遅れないように。急いでいたのに、何も前に進んでいない感じだけが残った。
灯町へ戻ってからも、逃げた自分を追い抜くように、軽口だけを先に走らせていた。
今は、花の半歩横を歩いている。速く歩けばいいわけではない。遅すぎても、人の流れは詰まる。隣の人の速さを見て、自分の足を変える。
「こういうのを、記事ではどう書くんだろうな」
「雨の日でも歩きやすい、川沿いのしっとり散歩道、みたいな感じじゃない?」
「実際は、傘がぶつかる、欄干が滑る、足元注意の細道だけど」
「杏侑子さんが泣くから、少しやわらかくしてあげて」
後ろで写真を撮っていた杏侑子が、聞こえています、と手を上げた。
川の向こうで、電車が短く鳴った。黒い傘の内側に、曇り空の白が薄く映る。花はその内側を見上げ、言った。
「外は黒いのに、中は思ったより暗くないね」
「祖父の紙に、黒い傘の内側なら前を見る、って書いてあった」
「おじいさん、変なことを真面目に考える人だったんだね」
「たぶん、俺より真面目に変だった」
花は笑った。
賢人は、傘を少しだけ花のほうへ傾けた。曇り空なのに、花の肩に水滴が落ちそうな気がしたからだ。
「雨、降ってないよ」
「実地確認だから」
「便利な言葉だね」
「理想のデートよりは便利だろ」
花は答えず、歩道の先を見た。
耳だけが、少し赤かった。
旧ひかり座は、商店街の外れにある古い映画館跡だった。看板の文字は半分落ち、入口にはシャッターが下りている。軒下だけが広く、雨宿りにはちょうどいい。そのせいで、夕立のときは人がたまりやすい。
杏侑子は、ここを若者向けの写真映え場所にしたいらしく、シャッターの錆びた模様を熱心に撮っていた。
「ここ、夜は暗いな」
賢人が言うと、花はうなずいた。
「人が立ち止まる場所があるのは悪くない。ただ、出口と入口が重なると詰まる。雨宿りしている人と、通り抜けたい人がぶつかる」
「傘で流れを分ける?」
「できるかもしれない。でも、傘を持ってる人が偉そうに指示すると、かえって反発される」
「じゃあ、どうする」
「言葉を短くする。前へどうぞ、足元気をつけて、ここは空けます。それくらい」
花は、実際に軒下へ立ち、雨宿りしている人がいる位置を示した。賢人は傘を閉じ、開き、また閉じた。狭い場所での開閉は、思ったより布が人の顔へ近づく。
「閉じるときが危ないな」
「そう。開くときより閉じるときに、気が抜ける」
賢人は持ち手を見た。濡れた手で閉じるなら、手元が滑らない形にしたい。叶一に相談することがまた増えた。
旧ひかり座のガラスに、二人の姿がぼんやり映った。
黒い傘を持つ賢人と、その横に立つ花。
どう見ても仕事の確認だ。花の目は周囲を見ているし、賢人の手にはメモ帳がある。杏侑子は少し離れた場所で、顔が写らない角度を探している。
それなのに、ガラスの中の二人は、休日に町を歩いているだけの男女にも見えた。
賢人は慌てて視線を外した。
「どうしたの」
「いや、シャッターの錆びが、いい味出してるなと」
「黒瀬くんが急に古い建物を褒めるときは、だいたい別のことを考えてる」
「決めつけがすごい」
「十年前から、そこはあまり変わってない」
十年前、という言葉が、軒下の空気を少しだけ重くした。
花はそれ以上言わなかった。賢人も言えなかった。
けれど、沈黙は前ほど怖くなかった。逃げるための沈黙ではなく、次の言葉を選ぶための沈黙だった。
団地坂へ向かう途中で、空が少し明るくなった。
団地坂は、駅から古い集合住宅へ上がる長い坂道だ。手すりはあるが、途中で切れている。雨の日には落ち葉が貼りつき、買い物袋を持った高齢者がゆっくり上がる。
坂の下で、花は黒い傘を賢人に持たせ、自分は少し後ろへ下がった。
「先に歩いて」
「分かった」
賢人はいつもの調子で上がりかけ、すぐに止められた。
「速い」
「さっきより遅いぞ」
「坂ではもっと遅く。後ろの人は、傘の内側を見る余裕がない。足元と息でいっぱいになる」
花は坂を上がりながら、手すりの切れ目で一度立ち止まった。
「ここで不安になる人が多いと思う。手すりが途切れるから」
「傘の線を、手すりの続きみたいに見せる?」
賢人が言うと、花は少し驚いたように彼を見た。
「それ、いいかも」
「本当に?」
「うん。手すりがないところで、視線だけでも次の支えがあると違う」
賢人は急いでメモした。手すりの続き。傘の内側の線。坂道。高齢者。
字がまた曲がる。
「メモ、読める?」
「未来の俺が頑張る」
「未来の黒瀬くんに迷惑をかけないで」
花はそう言いながら、メモ帳を少し支えてくれた。賢人の手と花の指が、一瞬だけ重なった。
どちらも、すぐには離さなかった。
坂の上から、灯町の屋根が見えた。商店街のアーケード、消防署の白い塔、川沿いの木々、黒瀬傘店の小さな看板。東京にいたころには、灯町は戻りたくない場所だった。失敗した自分が見られる場所だと思っていた。
今は、直さなければならない場所がいくつも見える。
面倒で、具体的で、逃げ道がない。
だから、少しだけ安心する。
「黒瀬くん」
「ん?」
「今日、ちゃんと見てるね」
「何を」
「町」
賢人は返事に困った。
花は坂の下へ視線を戻す。
「昔は、早く出ていきたそうに見てた」
「……そう見えてた?」
「うん。駅の時刻表を見るときだけ、目が起きてた」
痛いところを、静かに押された気がした。
賢人は黒い傘の持ち手を握り直す。
「今は、壊れてるところばっかり見える」
「嫌?」
「いや。直せるかもしれないところに見える」
花は何も言わなかった。
けれど、坂を下りるとき、彼女は賢人の半歩横を歩いた。
昼過ぎ、二人と杏侑子は、きぬよ衣裳室へ入った。
店内には、着物の畳紙が棚に並び、奥には白いドレスが布をかけられて吊るされていた。衣代は丸い眼鏡を鼻に引っかけ、帳面に何かを書いている最中だった。
「来た来た。理想のデート、進んでる?」
「実地確認です」
花が即答する。
衣代は笑いながら、お茶を三つ出した。
「言い方は何でもいいのよ。歩いて、見て、気になるところを言える相手がいるなら、それは悪くない時間でしょう」
賢人は湯のみを持ったまま、視線を逸らした。
衣代は黒い傘を受け取り、店の照明の下で開いた。外側を見て、内側を見て、少し傾ける。
「外は地味でいいわね。礼服にも普段着にも合う。中の線は、もう少し品が欲しいかな」
「品」
賢人は復唱した。
「光ればいいってものじゃないの。人は怖いときほど、余計なものを見ると疲れる。目がここへ行けばいい、って分かるくらいがいい」
花がうなずいた。
「現場でも、情報が多すぎると迷う」
「じゃあ、線を減らす?」
「減らすというより、残す場所を決めるのよ」
衣代は、傘の内側に指を滑らせた。
「たとえば花嫁さんの衣装も同じ。全部を飾ると、どこを見ればいいか分からない。顔を見てほしいのか、手元を見てほしいのか、歩く姿を見てほしいのか。それで布も飾りも変わる」
「傘の話だよな?」
「傘の話よ。たぶん、人生の話でもあるけど」
杏侑子が、いい言葉です、とメモを取った。
花は傘の内側を見つめていた。白いドレスを背にして立つ彼女に、黒い傘の影が少し重なる。賢人は、なぜか息を止めた。
衣代がそれを見逃すはずがなかった。
「花ちゃん、今度、浴衣を合わせましょう。宵市の警戒で歩くなら、軽くて動けるものを出すから」
「警戒で浴衣は着ません」
「警戒の前後よ。町の人に見せる顔も大事」
「仕事です」
「仕事の人にも、似合う色はあるの」
花は困った顔をした。賢人は笑いかけて、衣代と目が合い、慌てて湯のみを口へ運んだ。熱かった。
「熱っ」
「落ち着きなさい、傘屋さん」
衣代の声に、杏侑子が吹き出した。
最後は、尚の小料理屋だった。
夕方にはまだ早く、暖簾は出ていない。尚はカウンターの中で玉ねぎを刻んでいたが、三人を見るなり包丁を置いた。
「歩いてきたの。偉い。もう泣きそう」
「まだ何も話してないだろ」
「若い人が町を歩いてるだけで泣ける日もあるのよ」
尚はそう言って、冷たい麦茶と小鉢を出した。小鉢には、きゅうりとわかめの酢の物が入っている。
杏侑子は写真の確認を始め、花は歩いた箇所をノートに整理した。賢人は自分のメモ帳を開いたが、曲がった字と急いだ線で、半分ほど解読に時間がかかった。
「未来の黒瀬くん、苦戦してるね」
花が横から覗く。
「現在の俺が助けてるところ」
「自作自演だ」
尚は二人のやり取りを見て、玉ねぎでもないのに目を潤ませた。
「いいわねえ。言い合えるって、いいわねえ」
「泣くには早いです」
花が言う。
「早いときに泣いておかないと、肝心なときに声が詰まるのよ」
尚は麦茶を注ぎ足した。
「言いたいことは、小出しにしたほうがいいの。ためると、変な形で出るから」
賢人は麦茶の表面を見た。
十年前、自分は何も言わなかった。言わなければ、傷つけないと思っていた。実際には、何も言わないことで、花に長い時間を置いていった。
花も、同じことを思い出しているのかもしれない。ノートに視線を落としたまま、しばらく動かなかった。
杏侑子が空気を変えるように、明るく手を上げた。
「今日のまとめです。地下道は反射材の角度、川沿いは傘幅と歩幅、旧ひかり座は開閉時の安全、団地坂は手すりの続きに見える線、衣代さんの店では情報を減らす見せ方。尚ちゃんでは、言葉は小出し」
「最後だけ傘じゃないだろ」
賢人が言うと、尚が首を振った。
「傘よ。閉じたまま置きっぱなしにした気持ちは、だいたい骨が歪むの」
「それ、傘屋としては否定しづらい」
花が小さく笑った。
その笑いで、店の中の空気が少しやわらいだ。
外へ出ると、細い雨が降り始めていた。
傘を差すか迷うくらいの雨だった。けれど、賢人は黒い傘を開いた。内側の線は、夕方の商店街の明かりを受けて、かすかに浮かぶ。
杏侑子は連合会の事務所へ戻ると言い、写真の入ったカメラを抱えて走っていった。走らないで、と花が言う前に、角のところで一度滑りかけ、照れ笑いを残して消えた。
商店街には、夕飯の買い物をする人たちの声があった。魚屋の氷を砕く音、総菜屋の油の音、衣代の店の戸が閉まる音。黒い傘の下だけ、少し狭い。
「駅まで送る」
賢人が言うと、花は傘の外を見た。
「店、閉めっぱなしになるよ」
「すぐ戻る。今日は朝から開けたし」
「一日分の仕事をした顔」
「しただろ。地下道、川沿い、映画館跡、坂、衣装店、尚ちゃん」
「うん。した」
花が素直に認めたので、賢人はかえって言葉に詰まった。
二人は、駅へ向かって歩いた。傘の内側に落ちる雨音は小さい。賢人は花の歩幅に合わせる。花は急かさない。肩が触れそうで触れない距離が続く。
歩道橋の手前で、花が立ち止まった。
「ここ、夕立のときに人が止まりやすい」
「最後に見る?」
「少しだけ」
歩道橋の階段は、雨で黒く濡れていた。上へ行くほど、駅前の明かりが見える。賢人は黒い傘を少し傾けた。内側の線が、階段の先へ向かって細く伸びる。
花はそれを見て、静かに言った。
「こういうのを理想って言う人もいるんだろうね」
「濡れた階段を見ながら?」
「うん。ちゃんと危ないところを見て、どこを歩くか考えて、隣の人の速さに合わせる。派手じゃないけど」
賢人は、気の利いた返事を探した。
花が求めているのが冗談なのか、本音なのか分からなかった。分からないまま、十年前のように黙るのは嫌だった。
「俺は、今日みたいなのがいい」
言ってから、心臓が遅れて跳ねた。
花がこちらを見る。
「今日みたいなの?」
「店から歩いて、危ない場所を見て、途中で熱い茶を飲んで、尚ちゃんに泣かれそうになって、最後に雨が降る。……理想かどうかは分からないけど、俺は、ちゃんと覚えてると思う」
花はしばらく黙っていた。
雨が傘を叩く音だけが、二人の間に落ちる。
「十年前の花火も、覚えてる?」
「覚えてる」
「じゃあ、今度は忘れないで」
「忘れない」
賢人は即答した。
花は黒い傘の内側を見上げた。細い光が、彼女の目の中で一瞬だけ揺れた。
「仕事だから、って言えば、また歩けるね」
「実地確認だからな」
「便利な言葉」
「次は、もっと普通に誘う」
言った瞬間、賢人は自分で驚いた。
花も驚いた顔をした。
けれど、笑った。
「じゃあ、そのときも店を開けておいて」
「そこから?」
「そこから」
花は歩道橋の階段を一段上がった。賢人も隣に並ぶ。傘の内側の線が、二人の足元より少し先を照らしている。
雨は強くならない。
それでも、黒い傘は開いている。
前へ進むための目印としては、まだ弱い。持ち手も、線の角度も、閉じ方も、直すところだらけだ。
けれど賢人は、今日歩いた道を思い出した。地下道の音、川沿いの狭さ、旧ひかり座の暗がり、団地坂の手すり、衣代の言葉、尚の麦茶。花の半歩横を歩いた時間。
理想というには、足元ばかり見ていた。
デートというには、メモを取りすぎた。
それでも、十年遅れの二人には、これくらいがちょうどよかった。
駅の改札前で、花は黒い傘から出た。
「今日はありがとう」
「こちらこそ。確認、助かった」
「うん。……楽しかった」
最後の一言は、小さかった。
賢人が聞き返す前に、花は改札を抜けた。振り返らずに片手を上げる。その手には、修理した紺色の折りたたみ傘が握られている。
賢人は黒い傘を閉じずに、しばらくその場に立っていた。
駅の明かりが、内側の細い線をぼんやり照らす。
理想のデートは実地確認。
そんなふざけた題名を、今日は少しだけ許してもいいと思った。
店へ戻ったら、メモを清書しよう。未来の自分に迷惑をかけないために。叶一に見せても笑われないように。花に、次もちゃんと歩けると思ってもらうために。
賢人は黒い傘を肩に乗せ直し、雨の商店街へ戻った。
歩幅は、朝より少しだけ遅くなっていた。




