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黒い傘は、花嫁の手をひく。  作者: 乾為天女


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第6話 うれしいであいは、十年遅れ

 六月の終わりが近づくと、灯町の雨は遠慮をやめた。

 朝から空は低く、黒瀬傘店の軒先に吊るした古い風鈴は、鳴るより先に雨粒を受けて黙っていた。商店街のアーケードはところどころ継ぎ目から水を落とし、八百屋の前には、段ボールを避けるための小さな島ができている。駅へ向かう人は首をすくめ、帰ってくる人は傘を閉じる場所を探して立ち止まる。

 賢人はその立ち止まり方を見る癖がついていた。

 以前なら、傘の開き方だけを見ていた。骨が外へ曲がっているか、布が張りすぎていないか、持ち手がゆるんでいないか。今は、その傘を持つ人の足まで目に入る。片手に荷物を持っている人は、閉じるときに体を少し横へ逃がす。高齢の人は、傘の先を床へつけてから一呼吸置く。子どもは雨粒を払おうとして、隣の人の服に水を飛ばす。

 そのたびに、賢人の頭の中で黒い傘の持ち手が少しずつ形を変えた。

 朝六時五十分の真鍋製作所通いは、三日目にして一度だけ六時五十二分になり、叶一に何も言われず作業台の上へ赤鉛筆で二分と書かれた。何も言われないほうがつらいと知った賢人は、四日目から五分前に着くようになった。杏侑子はその話を聞き、「黒瀬さんが時刻に勝った」と商店街の掲示板に貼ろうとしたが、花に止められた。

 その花は、勤務の都合で毎日は来ない。けれど、来るときは必ず試作品を握り、濡れた床の上で一歩ずつ動いてみる。賢人が「どう?」と聞いても、すぐには答えない。閉じる。開く。腕の高さを変える。子どもをかばうように半身をずらす。自分が濡れることは気にせず、隣にいる誰かの肩へ傘が当たらないかを確かめる。

 その姿を見るたび、賢人は十年前の花を思い出した。

 高校の廊下で、雨の日に濡れた床を見つけると、花は何も言わずに雑巾を取りに行った。文化祭の片づけで重い箱を持つとき、自分が先に持つのではなく、相手の指が挟まらない位置を探した。目立つことはしなかったが、誰かが困る前に、困る場所を見つける人だった。

 その花に、賢人は何も言わず町を出た。

 その事実は、持ち手の溝よりもしつこく、手のひらに残っていた。


 昼すぎ、黒瀬傘店の入口に、尚が顔を出した。

 小料理屋「尚ちゃん」は夜からの店だが、尚本人は昼間から商店街を歩いていることが多い。買い出しの途中で誰かに呼び止められ、話を聞き、涙ぐみ、ついでに煮物を渡す。そういう人だった。

 今日は片手に紙袋、もう片方に細長い布包みを持っている。

 「賢人くん、いる?」

 「いますけど、泣く用件ですか」

 「今日は泣かない。たぶん」

 「たぶんが一番信用できないんですよ」

 尚は笑いながら店に入り、布包みを作業台の上へ置いた。雨の匂いに混じって、ほんの少しだけ出汁の香りがした。紙袋のほうには弁当が入っているらしい。

 「忘れ物の整理をしてたの。うちの座敷の奥、昔から何でも放り込まれるでしょ。黒瀬のおじいちゃんの道具も少しあったから返そうと思って」

 「祖父のですか」

 「それと、たぶん花ちゃんの」

 賢人の手が止まった。

 尚は布包みをほどく。中から出てきたのは、紺色の折りたたみ傘だった。柄の部分に小さな白い花の絵があり、布の端は少し擦り切れている。袋はなく、留め具のボタンは糸一本でかろうじてついていた。

 賢人はそれを見た瞬間、店の雨音が遠くなった。

 「これ……」

 「見覚えある?」

 見覚えがあるどころではない。

 高校三年の夏、花がいつも鞄に入れていた傘だった。急な雨の日、駅のホームで開いていた。花火の夜、人混みの端で、花が片手に持っていた。白い花の絵が薄闇の中で小さく浮かんでいて、賢人はそれを見ながら、言うべき言葉を探していた。

 探しているうちに、電車が来た。

 賢人は傘をそっと持ち上げた。骨の一本が内側へ曲がっている。石突きは削れ、布には小さな穴があった。十年分の時間が、派手ではない傷になって残っている。

 「花のですね」

 「やっぱり。宵宮のあと、うちに忘れていったみたい。あの年は雨が降ったりやんだりで、傘が何本も残ってたの。ずっと奥に入ってた」

 尚は、いつものように笑おうとして失敗した顔になった。

 「花ちゃんに返す?」

 「……直してからにします」

 「そう言うと思った」

 尚は紙袋から弁当を出し、作業台の端へ置いた。

 「食べてから直しなさい。空腹で昔のことを思い出すと、たいがい悪いほうに曲がるから」

 「経験談みたいに言わないでください」

 「経験談だからねえ」

 そこで尚の目が少し潤んだ。賢人は慌てて弁当の蓋を開ける。

 「泣かないって言ったばかりです」

 「たぶんって言った」

 卵焼きの端に箸を入れながら、賢人は傘から目を離せなかった。

 花の傘は、黒い傘の試作とはまるで違う。軽く、細く、華奢で、雨を避けるだけの傘だった。だが、十年前の賢人にとっては、花がいる場所を知らせる目印だった。

 あの日、花はその傘を持って、駅のホームに立っていた。


 高校最後の夏祭りの日、灯町の駅前には、まだ今の再開発ビルがなかった。

 古いバス停の屋根の下で、賢人は薄い紙の切符を握っていた。東京の専門学校へ進むことは決まっていた。灯町を出る理由も、いくつか用意していた。もっと広い場所で学びたい。祖父の店をすぐ継ぐより、外を見たほうがいい。傘だけでは食べていけない。

 どれも嘘ではない。

 けれど一番近い本音は、逃げたかった、だった。

 祖父の指先のようには傘を直せない。商店街の人に見られると息苦しい。花の前では、いつも気の利いた人間でいたかったのに、何ひとつ決められない自分が見えてしまう。

 花は、紺色の折りたたみ傘を持って来た。浴衣ではなく、白いブラウスに紺のスカート。髪は今より少し短く、雨で頬に張りついていた。

 「本当に行くんだ」

 花はそう言った。

 責める声ではなかった。確認する声だった。だから、賢人は余計に苦しかった。

 「まあ、決まったし」

 「戻ってくる?」

 その問いに、賢人は笑って答えようとした。

 戻ってくるよ、と言えばよかったのか。分からない、と言えばよかったのか。待ってて、と言う勇気はなかった。待たないで、と言う覚悟もなかった。

 ホームの向こうで、花火の音が遅れて響いた。空には見えない。駅舎の屋根と送電線に隠れて、赤い光だけが雨雲ににじんだ。

 花は傘を畳み、賢人の横へ立った。

 「私、消防士になりたい」

 その言葉を、賢人は初めて聞いた。

 「そうなんだ」

 「うん。灯町で働けるかは分からないけど、人が怖がってるときに、ちゃんと動ける人になりたい」

 花は自分の指を見ていた。爪の端に、屋台のヨーヨー釣りの水が少し残っていた。

 「賢人は?」

 「俺は……」

 電車が来る音がした。

 線路の向こうから光が近づき、雨粒が白く浮かぶ。賢人は切符を握り直した。言わなければならないことはいくつもあった。花のことが好きだということ。戻るかどうか分からないということ。分からないままでも、今ここで黙って行きたくないということ。

 けれど、口から出たのは、ひどく軽い言葉だった。

 「東京で、なんか作ってくる」

 花は一瞬だけ賢人を見た。

 その目に、怒りより先に、置いていかれたような寂しさが浮かんだ。賢人は見ないふりをした。電車の扉が開き、人が降り、人が乗る。発車のベルが鳴る。

 「そっか」

 花はそう言った。

 「じゃあ、いってらっしゃい」

 その声を背中で聞いて、賢人は電車に乗った。

 振り返ればよかった。手を振ればよかった。扉が閉まる前に一言でも言えばよかった。

 窓の外で、花の紺色の傘が見えた。開かれていない傘を、花は胸の前で抱えていた。

 賢人は何も言わなかった。

 だから、十年経っても、あの沈黙だけが錆びずに残っている。


 現在の黒瀬傘店で、賢人は細い骨を一本ずつ外した。

 花の折りたたみ傘は、古いわりに状態が悪くなかった。布の穴は裏から当て布をすれば目立たない。曲がった骨は同じ太さのものが店の奥に残っている。ボタンは付け替えられる。持ち手の白い花の絵は、少し削れていたが、そこだけは触らないことにした。

 尚は弁当を食べ終わるまで黙って見ていた。

 「賢人くん」

 「はい」

 「花ちゃん、昔の話を笑いにするの、あんまり上手じゃないよ」

 「知ってます」

 「賢人くんもね」

 「……それは、今知りました」

 尚はそこで少しだけ笑った。

 「直して返せば、傘は戻る。でも、言葉は直して返すってわけにいかないからねえ」

 賢人は骨を差し替えながら、針金を締めた。細かい作業に集中していると、尚の言葉が少し遅れて胸に入ってくる。

 言葉は直して返せない。

 けれど、言い直すことはできるのだろうか。

 その答えは、傘の修理箱には入っていなかった。

 夕方、雨が少し弱まったころ、花が店に来た。勤務明けらしく、制服ではなく、濃い色のシャツと動きやすいパンツ姿だった。髪はまだ少し湿っている。入口で傘の水を払う仕草に無駄がない。

 「持ち手の試作品、見に来たんだけど」

 花はそう言いかけて、作業台の上で乾かしている紺色の傘を見た。

 時間が止まったように、目がそこへ留まる。

 「それ」

 「尚さんが持ってきた。店の奥にあったって」

 賢人はなるべく普通の声で言った。普通にするほど、普通でないことが伝わる気がした。

 花はゆっくり近づき、傘へ手を伸ばした。触れる直前で一度止まり、指先で白い花の絵をなぞる。

 「まだあったんだ」

 「直した。完全じゃないけど、使える」

 「十年ものだね」

 「年代物って言うと高そう」

 「賢人が言うと、古道具屋に売りそう」

 「売らないよ」

 花は小さく笑った。だが、その笑いは目の奥まで届かない。

 賢人は、作業台の端に置いた黒い傘の試作品へ視線を逃がしかけ、逃がさなかった。

 「あの日のこと、覚えてる?」

 花が先に言った。

 賢人は頷いた。

 「覚えてる」

 「便利だね。忘れてたって言われたら、怒ればよかったのに」

 「怒っていいよ」

 「仕事のあとに怒る体力はあんまり残ってない」

 軽口の形をしていたが、声の底に柔らかくないものがあった。

 賢人は椅子に座らず、作業台の向こうに立ったまま言葉を探す。十年前と同じように探す。けれど今回は、電車のベルは鳴っていない。雨の音だけが、店の外で続いている。

 「あの日、返事しなかった」

 「うん」

 「戻ってくるかって聞かれて、俺、何も言わなかった」

 「東京でなんか作ってくる、とは言った」

 「ひどいな、それ」

 「うん。わりと」

 花は傘を持ち上げた。折りたたみ傘は、昔より少し小さく見えた。花の手が大きくなったのか、時間が傘を縮めたように見せるのか、賢人には分からなかった。

 「私ね、あの日、怒ってたんだと思う」

 花は傘を閉じたまま、作業台へ戻した。

 「でも、賢人が町を出ることに怒ってたわけじゃない。行きたい場所へ行くのは悪いことじゃないから。ただ、何も言わないで、何も決めないで、私のほうだけに待つか待たないかを置いていった感じがした」

 賢人は返せなかった。

 正しい言葉を言われると、逃げ道がなくなる。叶一の試験表より正確に、花の言葉は賢人の弱いところへ届いた。

 「ごめん」

 やっと言えたのは、それだけだった。

 花はすぐには頷かなかった。許すとも、許さないとも言わない。濡れたシャツの袖を少しだけ直し、入口のほうへ目を向ける。

 「今さら謝られても、十年前の私は返事できないよ」

 「うん」

 「でも、今の私は聞いた」

 花はそう言って、修理された折りたたみ傘を手に取った。

 「ありがとう。直してくれて」

 そのありがとうは、傘に向けられたものだった。賢人の謝罪に対する返事ではない。けれど、追い返されてもいない。十年分の沈黙の中に、小さな隙間が開いたような気がした。


 そのとき、花の携帯端末が短く鳴った。

 花の表情が変わる。賢人が何か聞く前に、彼女は画面を確認し、折りたたみ傘を置いた。

 「出動要請。駅前の高架下、接触事故。けが人の確認」

 声が低くなる。賢人の前にいる高校時代の花ではなく、灯町消防署の花になる。

 「行って」

 賢人が言うと、花は頷いた。入口へ向かいかけ、ふと振り返る。

 「その傘、ここに置いておいて。勤務のあとで取りに来る」

 「分かった」

 「あと」

 花は一瞬だけ迷ったように見えた。

 「黒い傘の持ち手も、あとで見る。昔の傘より、そっちを先に進めて」

 言い終えると、花は雨の中へ走り出した。

 紺色の傘は作業台に残った。修理したばかりの骨は、きれいに折り畳まれている。賢人は入口に立ち、花の背中が商店街の角を曲がるまで見送った。

 十年前、賢人は電車の中から花を見た。

 今は、花が走っていく背中を、店の入口から見ている。

 置いていく人と、置いていかれる人。その位置が入れ替わったわけではない。花は仕事へ向かっただけだ。だが賢人は、追いかけて引き止めたいとは思わなかった。

 花が進む場所を、止めてはいけない。

 自分は、自分の手元を進めなければならない。

 賢人は作業台へ戻り、黒い傘の試作品を開いた。内側の反射テープは、まだ仮止めのままだ。持ち手は少し短く、濡れた手でも回りにくい形になっている。花の折りたたみ傘を直した指で、それを握る。

 昔の傘は、過去を連れてきた。

 黒い傘は、まだ行き先を決めていない。

 賢人はメモ帳を開いた。

 ――うれしいであいは、十年遅れ。

 書いてから、照れくさくなって線を引こうとした。だが、線は引かなかった。杏侑子が見たら大騒ぎするだろうし、尚が見たら泣くかもしれない。花が見たら、たぶん眉を寄せる。

 それでも、その言葉を消す気になれなかった。

 再会は、最初からうれしい形で来るとは限らない。気まずさや怒りや、言えなかった言葉を一緒に連れてくる。それでも、もう一度会えたから、謝ることができた。もう一度傘を返せる。もう一度、今度は置いていかない言葉を探せる。

 商店街の向こうから、消防車のサイレンが遠く聞こえた。

 賢人は反射テープを貼り直し、持ち手の角を少し削った。削り粉が作業台に落ちる。雨音とサイレンと、やすりの音が重なる。

 花の折りたたみ傘は、作業台の端で静かに乾いている。

 黒い傘は、まだ不格好なまま、賢人の手の中で少しずつ変わっていく。

 その夜、花は傘を取りに来なかった。事故の対応が長引いたのだろう。賢人は紺色の傘を店の一番奥ではなく、入口に近い棚へ置いた。次に来たとき、すぐ渡せる場所だ。

 シャッターを下ろす前、携帯電話が震えた。

 花からだった。

 『今日は戻れない。傘、預かっておいて』

 続けて、もう一通。

 『修理、ありがとう』

 賢人は画面を見つめた。

 返事を考える。長すぎる言葉は違う。軽すぎる言葉も違う。十年前の自分なら、考えすぎて何も送れなかったかもしれない。

 今は、送る。

 『預かる。今度は置いていかない』

 送信したあと、胸が少し痛くなった。言いすぎただろうか。重すぎただろうか。取り消したくなる指を、賢人は握りしめた。

 しばらくして、既読がついた。

 返事は、少し遅れて来た。

 『じゃあ、ちゃんと店を開けておいて』

 賢人は声を出して笑った。

 明日の朝、また雨が降るらしい。黒瀬傘店の天井の染みは、少しだけ広がっている。修理待ちの傘はまだある。黒い傘は完成していない。花に言うべきことも、すべて言えたわけではない。

 それでも、入口に置いた紺色の折りたたみ傘を見て、賢人は思った。

 十年遅れでも、間に合うことがある。

 間に合わせるためには、明日もシャッターを開けなければならない。

 賢人は目覚まし時計を六時に合わせた。今度は枕の横ではなく、店の入口の棚へ置く。止めるには、必ず起きて歩かなければならない場所だ。

 最後に、黒い傘の持ち手をもう一度握る。

 木の角は、まだ少しだけ痛い。

 賢人はその痛みを覚えておくことにした。



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