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黒い傘は、花嫁の手をひく。  作者: 乾為天女


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第5話 町工場の朝は早い

 翌朝、黒瀬傘店の目覚まし時計は、五時四十分に鳴った。

 鳴った、はずだった。

 賢人がそれに気づいたのは、六時二十二分である。

 畳の上で横倒しになっていたスマートフォンが、充電ケーブルを半分抜かれたまま震えていた。古い目覚まし時計は枕の下に埋まり、ベルの音を布団の綿に吸われていた。賢人は片目だけ開け、天井の染みを見た。雨漏りの跡が、寝起きの頭には地図のように見える。

 真鍋製作所、朝七時。

 叶一が昨日、まっすぐな紙を広げながら言った時刻が、ようやく脳の中で形になった。

 「……いける」

 布団から上半身だけ起こし、賢人は唱えた。

 「まだいける。たぶんいける」

 そこで、昨日の花の声が耳の奥に戻った。

 自己暗示は三回まで。

 賢人は三回目を飲み込み、ほとんど転がるように布団から出た。洗面所の鏡には、寝癖で片側だけ屋根のように跳ねた髪と、目の下に残った眠気が映っている。歯ブラシをくわえたまま作業着を探し、黒いTシャツを裏返しに着て、気づかないまま玄関まで行った。

 店の奥に置いた黒い傘が目に入る。

 反射テープの端は、夜のうちにまた少し浮いていた。蓄光塗料のムラは、乾いたせいで余計に目立つ。昨日の夕方、作業台を囲んだ花、海太、叶一の顔が、その傘の内側にぼんやり重なった。

 賢人は玄関の敷居をまたぐ直前、引き返した。

 傘を布袋へ入れ、花の安全確認表と、叶一が置いていった図面を鞄に押し込む。伝票の束が邪魔をして、ファイルの角が折れそうになった。慌てて手で押さえ、昨日より少しだけ丁寧に入れ直す。

 「危ないところから作る」

 メモ帳の一行を声に出すと、眠気がほんの少しだけ引いた。

 商店街はまだ半分眠っていた。

 シャッターの隙間から、仕込みの匂いだけが漏れている。豆腐屋の前には水を張った桶が並び、新聞配達の自転車が遠くで軋んだ。貸衣装店の前を通ると、ガラスの向こうに白いマネキンが立っていた。昨夜、衣代が布をかけ忘れたのか、朝の薄い光の中で、何かを待っている人のように見えた。

 尚の店の前では、すでに暖簾が半分だけ出ていた。

 「黒瀬くん」

 裏口から顔を出した尚が、割烹着の袖で目をこすりながら呼んだ。

 「朝から顔が死んでる」

 「死んでないです。起きてます」

 「起きてる人は、Tシャツの縫い目が外に出ない」

 賢人は自分の胸元を見た。縫い代が堂々と外を向いている。

 「これは、通気性を上げてるだけです」

 「泣けるくらい苦しい言い訳だね」

 尚はそう言って、小さな紙包みを差し出した。中には塩むすびが二つ入っていた。

 「食べな。町工場の朝は、お腹が空いてる人に厳しいよ」

 「真鍋さんのところ、そんなに厳しいんですか」

 「叶一くんは怒鳴らない。怒鳴らない人のほうが、たまにこわい」

 尚は、なぜか少し涙ぐんでいた。

 「朝早くからちゃんと待ってる人を見ると、亡くなったうちの親父を思い出すんだよ」

 「尚さん、朝から泣くんですか」

 「朝は塩分が足りないから、涙で補ってる」

 賢人は笑い、紙包みを受け取った。塩むすびはまだ温かかった。

 古い私鉄の線路沿いを十分ほど歩くと、商店街の看板が切れ、町工場の並ぶ通りに入る。灯町は、駅前の再開発ビルだけを見れば新しく見える。だが川へ近づくと、鉄骨の倉庫、油の匂いのする小さな工場、青いトタン屋根の作業場が、昔からの肩幅で並んでいた。

 真鍋製作所は、その一番奥にあった。

 看板は白地に黒い文字で、少し錆びている。入口の脇には、金属の端材が種類ごとに箱へ分けられ、ほうきが二本、柄の長さをそろえて壁に掛けられていた。工場の中から、規則正しい機械音が聞こえる。大きすぎず、乱れてもいない。雨の前の川音よりも、ずっと人の手に近い音だった。

 賢人が門の前で時計を見ると、七時三分。

 遅刻である。

 叶一は、すでに入口に立っていた。

 「おはようございます」

 「おはようございます。三分遅れました」

 賢人が先に言うと、叶一は腕時計を見た。

 「はい」

 「すみません」

 「次から、六時五十分に着くつもりで来てください。七時に着くつもりで来ると、七時三分になります」

 怒鳴らない。

 確かに、怒鳴らない。

 そのぶん、言葉がまっすぐ作業台に置かれた定規のように胸へ来る。

 賢人は頭を下げた。

 「明日は六時五十分に来ます」

 「明日も来る気があるなら、入ってください」

 叶一の口調は淡々としていたが、突き放す色はなかった。

 工場の中は、思っていたより明るかった。天井の高い作業場に、旋盤、ボール盤、曲げ加工用の機械、細長い作業台が並んでいる。壁には工具が影絵のように掛けられ、それぞれの位置に薄い線で輪郭が描かれていた。一本でも戻し忘れれば、空白がすぐ分かる。

 黒瀬傘店の作業台とは、まるで違う。

 あちらは、祖父の記憶と賢人の言い訳が積み重なった場所だ。こちらは、昨日やったことを今日の手元へ渡すために整えられている。

 叶一は作業台の上に三枚の紙を置いた。

 一枚目には「今日やること」と書かれている。

 二枚目には「測ること」。

 三枚目には「捨てる案」。

 賢人は三枚目を二度見した。

 「捨てる案、最初からあるんですか」

 「あります。残す案を決めるために、捨てる案を先に置きます」

 叶一は、黒い傘の布袋を受け取ると、作業台へ慎重に置いた。

 「思いついたものを全部抱えると、手がふさがります。避難する人の手をふさぐ道具を作るのは困ります」

 「それ、昨日から刺さる言い方ばっかりですね」

 「刺さらない言葉は、作業場では床に落ちます」

 叶一は本気で言っているようだった。賢人は笑っていいのか迷い、結局、塩むすびを一口かじった。尚の塩加減が、胃にしみる。

 「まず、これです」

 叶一は、傘の持ち手を指した。

 「賢人さんは、黒い傘を開いたときの見え方を気にしています。花さんは、濡れた手で持つ人を気にしています。海太さんは、人と人が近づきすぎる動きを気にしています。三つとも正しいです。ただ、同時に直すと、何が効いたのか分かりません」

 叶一は持ち手を外し、ノギスで太さを測った。

 「今の持ち手は、手袋なしなら握れます。濡れた軍手だと滑ります。高齢者の手だと、力が入りにくい。子どもだと、太すぎる」

 「全部だめじゃないですか」

 「全部ではありません。普通の雨の日に、普通の大人が持つなら使えます。ただ、あなたが作りたいのは、普通の雨の日だけの傘ではないんですよね」

 あなたが作りたい。

 その言葉に、賢人は作業台の上の黒い傘を見た。祖父の紙片から始まったものなのに、叶一は賢人のものとして尋ねている。

 「はい」

 賢人は短く答えた。

 「駅前の地下道で、人が止まったのを見ました。出口はあるのに、みんなの足が止まって、前の人の背中しか見えなくなる。あれを、少しでも動かしたいです」

 言ってから、自分で驚いた。

 昨日までは、「祖父の未完成品を直す」と言っていた。「花に見せる」と言っていた。「町で何かできるかも」と、ごまかしていた。

 だが今、口から出たのは、人の足を動かしたい、という言葉だった。

 叶一はうなずき、三枚の紙の横にもう一枚、白紙を置いた。

 「では、持ち手からやります。布は午後。紐は明日以降」

 「布、今日じゃないんですか」

 「今日やることに、布は入っていません」

 「でも、光り方が一番目立つじゃないですか」

 「目立つところから直すと、直した気になります」

 また刺さった。

 賢人は塩むすびの残りを口に押し込み、言い返す代わりに袖をまくった。

 作業は、地味だった。

 まず、既存の持ち手を外す。次に、いくつかの太さの円柱を握る。乾いた手で握る。水に濡らした手で握る。軍手をして握る。軍手を濡らして握る。力を入れずに持つ。急いで持ち替える。傘を開いたつもりで腕を上げる。閉じたつもりで下げる。

 叶一は、そのたびに時間と感想を書く。

 賢人は最初、「これはいける」「これはだめ」「これは気持ち悪い」と言っていたが、叶一に止められた。

 「気持ち悪い、を分けてください」

 「分ける?」

 「太いのか、角が当たるのか、滑るのか、力を入れる方向がずれるのか。言葉が大きいと、直す場所が見えません」

 賢人は濡れた軍手のまま、木の試作持ち手を握り直した。

 「……親指のここに、角が来ます。握った瞬間はいいけど、引っ張られると手の中で回ります」

 「それは使えます」

 「え、だめって意味ですけど」

 「だめな理由が使えます」

 叶一は紙に書く。

 賢人は、その字を見た。まっすぐで、小さいが読みやすい。花の確認表の字とも違う。海太の短い線とも違う。人が違えば、危ない場所の見え方も違うのだと、今さらのように分かった。

 昼前、工場の入口から明るい声が飛んできた。

 「町を変える黒い傘の現場、差し入れでーす!」

 杏侑子だった。

 両手に紙袋を提げ、肩からは小さなカメラを下げている。髪をひとつに結び、胸元には「今日こそ十件営業」と手書きした札が安全ピンで留められていた。

 叶一は、機械の電源を落としてから振り向いた。

 「撮影は、作業台の上を片づけてからです」

 「えっ、撮る前提で話してくれるんですか。真鍋さん、意外と話が早い」

 「撮っていい場所と、だめな場所を分けます。危ないので」

 「はい、分けます。分けるの得意です。昨日、目標も三つに分けました」

 「昨日の目標は、今日も続いていますか」

 杏侑子は胸元の札を手で隠した。

 「続く気持ちはあります」

 賢人は吹き出しそうになった。叶一は表情を変えない。

 「気持ちは、落とすと機械に挟まるので、紙に書いてください」

 「真鍋さん、言葉が工場仕様ですね」

 杏侑子は感心したように言い、紙袋を作業台から離れた机に置いた。中身は総菜パンと、冷たい麦茶だった。

 「黒瀬くん、どう? もう町の顔になりそう?」

 「まだ持ち手で揉めてる」

 「顔より先に手なんだ」

 「顔がよくても、手から落ちたら終わりだそうです」

 賢人が叶一を見ると、叶一は静かにうなずいた。

 「その通りです」

 杏侑子はカメラを構えかけたが、花の名前が出る前に自分で止めた。

 「あ、花ちゃんに怒られるやつだ。まだ外へ出す段階じゃないんだよね」

 「よく覚えてたな」

 「怒られたことは、三日は覚えてる」

 「短い」

 「でも三日の間に人を集められるから」

 杏侑子は胸を張った。その言葉は冗談のようで、半分は本当だった。昨日も彼女が騒がなければ、商店街の人たちは黒瀬傘店をただの古い店として通り過ぎていたかもしれない。始める瞬間の火力だけで、誰かの手を動かす人もいる。

 昼休み、賢人は工場の外の縁石に座り、麦茶を飲んだ。真夏にはまだ早いが、アスファルトはじわりと熱を持ち始めている。遠くで電車の音がし、川のほうから湿った風が来た。

 叶一は、隣に腰を下ろさず、立ったまま自分の弁当を食べていた。

 「座らないんですか」

 「座ると、午後の立ち上がりが遅くなります」

 「俺、もう座ってますけど」

 「知っています」

 賢人は麦茶を吹きそうになった。

 少し離れた場所で、杏侑子が「町工場の朝は早い」という見出し案を手帳に書いている。続けて、「黒い傘、まずは握り心地から」と書き、その横に小さな星を三つ描いた。

 「真鍋さん」

 賢人は、布袋から祖父の紙片の写しを出した。

 「祖父は、どういう人でしたか」

 叶一は箸を止めた。

 「黒瀬のじいさんですか」

 「俺が東京へ行ってから、あんまり話してないんです。帰ってきたら、工具と伝票ばっかり残ってて」

 言いながら、賢人は自分の言葉が少し軽いことに気づいた。ばっかり、ではない。祖父は、その工具と伝票で毎日の雨に向き合っていた。

 叶一は弁当箱の蓋を閉じ、しばらく工場の中を見た。

 「急ぎの仕事ほど、急いでいる顔をしない人でした」

 「祖父が?」

 「はい。台風のあと、骨の折れた傘が何十本も来たときも、一本ずつ持ち主の話を聞いていました。こちらは部品だけ急いで作ればいいと思っていたんですが、黒瀬のじいさんは、どの傘を先に直すか、使う人の明日で決めていました」

 「明日」

 「明日、病院へ行く人。明日、面接へ行く人。明日、孫を迎えに行く人。傘の値段ではなく、明日濡れたら困る順です」

 賢人は、麦茶のペットボトルを握ったまま黙った。

 祖父の店に戻ってから、古い伝票は厄介な紙束に見えていた。だがそこには、誰かの明日が書かれていたのかもしれない。

 「この黒い傘も」

 叶一は、賢人の隣に置いた布袋を見た。

 「見栄えより先に、誰の明日に使うのかを決めたほうがいいです」

 午後、作業台には持ち手の試作品が五種類並んだ。

 丸いもの、少し角を落としたもの、溝の深いもの、手のひらに沿うよう湾曲したもの、子ども用に少し短いもの。どれもまだ粗く、完成品には見えない。だが朝に見た既製品より、手の中で理由を持っている。

 そこへ、花と海太が来た。

 花は勤務明けなのか、髪を後ろで結び、いつものように背筋を伸ばしている。海太は片手に水筒を持ち、工場の床の油染みを避けて歩いた。

 「早いね」

 花が賢人の顔を見る。

 「寝癖は直したんだ」

 「直した。Tシャツも、昼に杏侑子さんに言われて直した」

 「朝は裏返しだったんだ」

 「通気性を上げてた」

 花は小さく息を漏らして笑った。

 その笑いが、工場の機械音よりも少し近く聞こえた。

 海太は試作品をひとつずつ握った。感想を言わない。ただ握り、腕を上げ、横へ引かれたときの動きを確かめる。叶一はそれを黙って見ている。

 「三番」

 海太が言った。

 「濡れた手なら三番。ただ、子どもには太い」

 花も三番を握る。続けて、一番、五番を握った。

 「高齢者の手だと、溝が深すぎると痛いかも。急いでいるときに、ここへ指を合わせようとして遅れる人がいる」

 「じゃあ、三番の溝を浅くして、五番の短さを少し足す?」

 賢人は思わず言った。

 叶一がこちらを見る。

 「なぜですか」

 「え」

 「今の直感を、言葉にしてください」

 賢人は試作品を見た。三番の太さ。五番の短さ。花の指の動き。海太の腕の上げ方。地下道で子どもを先に通した花の姿。高齢の男性が手すりを探していた手。

 いくつもの場面が、頭の中で重なった。

 「握る場所を探さなくても、手の中に収まる形がいい。でも細すぎると、濡れた手で回る。長すぎると、子どもが引きずる。だから、三番の太さを少し落として、五番みたいに端を短くする。溝は、指を入れるためじゃなくて、滑ったときに止まるくらいでいい」

 言い終えると、工場が少し静かになった気がした。

 叶一は紙に書き込む。

 花は試作品をもう一度握り、海太は小さくうなずいた。

 「それなら試せる」

 海太の一言は短かった。

 だが、昨日の「思いつきで人を守れるほど、現場は軽くない」という言葉とは違う。賢人の中で、何かがほんの少しだけ持ち上がった。

 夕方までに、仮の持ち手が一本できた。

 荒削りで、表面には細かな線が残っている。色もまだ木のままだ。黒い傘に取り付けると、少し不格好だった。それでも、濡らした軍手で握っても回りにくい。腕を上げても手の中で暴れない。花が握ると、指先が自然に落ち着く。

 「いいかも」

 花が言った。

 賢人は危うく「いける」と言いかけた。

 その前に、叶一が紙を差し出す。

 「今日の結果です。よかったところ、だめだったところ、明日確認するところ」

 紙には、朝からの試験が細かく書かれていた。遅刻三分、という文字まであった。

 「それも残すんですか」

 「はい。朝の遅れは作業の遅れです」

 「厳しい」

 「明日は六時五十分です」

 「分かってます」

 賢人は苦笑しながら、紙を受け取った。

 工場の外へ出ると、夕方の空は鈍い灰色をしていた。雨の匂いが近い。商店街へ戻る道で、杏侑子は今日撮った写真を見せびらかそうとして、花に「まだ出さない」と止められている。海太は黙って歩きながら、道路の段差を一度だけ振り返った。花はその視線に気づき、同じ場所を見る。

 賢人も、そこを見た。

 朝なら、ただの段差だった。

 今は、雨の日に傘を持った人が足を取られる場所に見える。

 世界が急に危なくなったわけではない。見えていなかっただけだ。

 黒瀬傘店に戻ると、シャッターの前に小さな紙袋が置かれていた。中には、衣代からの差し入れの煎餅と、「持つ姿も大事。明日、傘を開いたときの見え方を見ます」と書かれたメモが入っている。

 賢人は笑い、店の鍵を開けた。

 作業台の上に、今日の持ち手を取り付けた黒い傘を置く。朝に見たときより、少しだけ道具らしくなっている。派手な変化ではない。外側は相変わらず地味で、内側の反射テープはまだ剥がれかけている。けれど、手で握る場所が決まっただけで、傘全体の立ち方が変わって見えた。

 賢人はメモ帳を開く。

 昨日の一行の下に、今日の日付を書いた。

 ――誰の明日に使うのかを決める。

 字は少し曲がった。だが、昨日より読みやすかった。

 携帯電話が震えた。花からだった。

 画面には短い文だけが出ている。

 『明日、遅刻しないで。持ち手、もう一回見たい』

 賢人は返信を打とうとして、しばらく指を止めた。

 気の利いた言葉は出てこない。十年前も、こうやって言葉を探しているうちに、言うべきことを置いていった。

 今は、置いていかない。

 『六時五十分に行く。見てほしい』

 送信すると、すぐに既読がついた。

 返事はなかった。

 それでも賢人は、胸のあたりが少し温かくなるのを感じた。

 店の奥で、古い雨漏りの跡が夕方の光に沈んでいく。作業台の黒い傘は、まだ完成から遠い。安全紐も、布の光り方も、役場へ出す書類も、何ひとつ片づいていない。

 それでも今日、賢人の直感は、初めて誰かの手の中に収まる形になった。

 商店街の向こうで、最終電車にはまだ早い踏切の音が鳴る。

 賢人はシャッターを閉めず、店の明かりをつけたまま、明日の準備を始めた。

 まず、目覚まし時計を枕から遠ざける。

 次に、スマートフォンを充電器へつなぐ。

 最後に、紙へ大きく書いた。

 六時五十分、真鍋製作所。

 その紙を入口の内側へ貼る。杏侑子の付箋よりは曲がっていたが、今夜だけは剥がさないでおくことにした。

 黒い傘の持ち手をもう一度握る。

 手の中で、木の試作品が静かに止まった。

 賢人はそこでようやく、小さく笑った。



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