第4話 自己暗示は三回まで
翌朝、黒瀬傘店のシャッターは、午前八時四十七分に上がった。
正確に言えば、賢人は八時半に開けるつもりでいた。作業台の横に置いた古い目覚まし時計は七時に鳴ったし、携帯電話も七時十五分、七時半、七時四十五分と律儀に震えた。だが、三つ目の震動で賢人がしたことは、起きることではなく、枕の下へ携帯電話を押し込むことだった。
それでも九時前に開いたのだから、昨日までの黒瀬賢人に比べれば、歴史的な前進である。
賢人はそう自分に言い聞かせながら、シャッターを肩で支えた。
「八時半開店、ほぼ成功」
誰も聞いていない店先でつぶやくと、背後から紙をめくる音がした。
「ほぼ、を取ったら失敗ね」
杏侑子だった。昨日貼ったばかりの厚紙の横に、もう新しい紙を貼っている。そこには太いペンで、黒瀬傘店・朝型化作戦、と書いてあった。
賢人は反射的にその紙をはがそうとしたが、粘着力が強く、端だけが破れた。
「勝手に増やすな。うちは掲示板じゃない」
「でも、店が開いてるって分かるもの。閉まってる店に目標は貼れないでしょう」
そう言われると、反論の場所が見つからない。杏侑子は満足げにうなずき、手提げ袋からコンビニのサンドイッチを二つ出した。
「食べながら作業したら危ないから、食べてから作業。花ちゃんに怒られる前に」
「もう怒られる前提かよ」
「昨日の顔、怒る人の顔だったもの」
杏侑子は悪気なく言い、商店街の事務所へ走っていった。店先に残ったのは、朝型化作戦の紙と、卵サンドと、昨日より少し重い空気だった。
賢人はサンドイッチを半分だけ口に押し込み、作業台へ向かう。
黒い傘は、開かれたまま台の上に横たわっていた。祖父が残した未完成品ではなく、昨日の夜に賢人が別の骨組みへ黒布を張り直した一本である。大切な原型を壊す勇気がなかったので、まずは修理待ちの処分品に近い傘を使った。
「いける、まだいける」
口の中の卵を飲み込みながら、賢人は反射テープを引き出した。
最初の案は単純だった。内側の骨に沿って細い反射テープを貼る。車のライトや懐中電灯が当たれば、線が浮かぶ。出口の方角へ線を集めれば、人はそちらへ進みやすい。
言葉にすると、いかにも発明らしい。
実際に貼ると、学芸会の小道具になった。
「……いや、暗くすれば違う。たぶん」
賢人は店の蛍光灯を消し、入口のすき間から入る光も段ボールでふさいだ。薄暗くなった店内で懐中電灯を当てる。反射テープは、思った以上に元気よく光った。人を導くというより、傘の内側から全力で目立ちたがっている。
まぶしい。
黒い傘が、黒である意味を失っている。
賢人は目を細めた。
「いける。角度の問題。まだいける」
反射テープを貼り替える。細く切る。斜めにする。途中で粘着面が指に絡み、爪の間へ銀色の端が入った。切ったテープは作業台、床、肘、サンドイッチの包装にまで貼りついた。
昼前、衣代が店の前を通った。
「賢人くん、ずいぶんきらびやかね」
「傘がですか」
「あなたが」
言われて見ると、賢人の頬に短い反射テープが一本ついていた。はがそうとして、今度は髪に移った。
衣代は笑いをこらえるでもなく、きちんと笑った。
「花ちゃんが見たら、救助対象にするわよ」
「そこまでひどくないです」
「鏡、見る?」
差し出された手鏡に映った賢人は、片頬だけ夜道の自転車のように光っていた。
その午後、賢人は反射テープをいったん諦め、蓄光塗料へ手を出した。祖父の箱に残っていた古い糸は量が足りない。ならば、塗ればいい。内側の布へ細い線を描き、暗くなれば淡く光る。派手すぎず、濡れた夜にだけ役目を見せる。
考えは悪くないはずだった。
塗料のふたを開けた瞬間、鼻をつく匂いが店いっぱいに広がった。賢人は窓を開け、新聞紙を敷き、細筆を持つ。最初の線はきれいだった。二本目で少し太くなった。三本目で塗料が玉になり、四本目で筆先が布に引っかかった。
乾かすために傘を立てかけたら、塗料がゆっくり垂れた。
まるで黒い傘が、内側で泣いている。
「いける、まだいける、たぶんいける」
口に出した瞬間、店の入口で小さな咳払いがした。
花が立っていた。
制服ではない。紺色の薄い上着に、動きやすそうな靴。髪はきちんとまとめられている。仕事帰りなのか、勤務前なのか、賢人には分からなかった。ただ、花の視線が作業台から床へ、床から賢人の頬へ、最後に塗料の垂れた傘へ移るにつれ、自分が今どう見えているかだけは分かった。
「三回目」
花は言った。
「何が」
「いける、って三回言った。三回目が出たら、たぶん止まったほうがいい」
「いや、これはまだ途中で」
「途中で人を転ばせる道具は、完成しても危ない」
言い方は静かだった。だが、昨日の地下道で人の流れを切り替えた声と同じ芯があった。
賢人は筆を置いた。置いたはずなのに、指についていた塗料が作業台に丸く残った。
花は店内へ入り、傘の内側をのぞく。濃く光るところ、光らないところ、塗料が垂れたところを、ひとつずつ確認した。
「まず、まぶしい線はいらない。人が怖がっているときに、目の前がちらちらすると足が止まる」
「目立たないと、見えないだろ」
「目立つことと、進む方向が分かることは違う」
花は傘を閉じ、持ち手を握った。濡れていない手で握り、次に入口脇の水道で指を濡らしてからもう一度握る。
「滑る」
「それは祖父の古い持ち手だから」
「使う人は、持ち手の事情なんて知らない」
賢人は言い返そうとして、言葉を飲み込んだ。昨日も似たようなことを言われた。現場で使う人は、作った側の都合など知らない。焦っている人は説明書を読まない。怖い人は丁寧に開かない。手が濡れていれば滑るし、暗ければぶつかる。
花は閉じた傘を肩の高さで横にした。
「狭い通路だと、ここが人に当たる。傘を持っている人が急に振り返ると危ない」
次に、傘を閉じたまま下へ向ける。
「水がここから落ちる。足元へ落ちたら滑る。特に地下道の階段。昨日みたいな場所なら、傘を閉じる位置も決めないと」
賢人は作業台の上のメモ帳を引き寄せた。
「待って。今の、もう一回」
「反論するんじゃないの」
「反論はする。あとで。今は忘れるほうが怖い」
花が一瞬だけ黙った。賢人はその沈黙に顔を上げたが、花はすぐにいつもの調子へ戻った。
「傘を開く場所。閉じる場所。濡れた手で握れる持ち手。人に当たりにくい骨の長さ。光は、足を出す方向だけ分かればいい。あと、連結するなら絶対に外れるようにすること」
「連結?」
「子どもや高齢の人が列から離れないように、傘同士を軽くつなげる案があるなら、引っかかったときに外れないと危ない」
「あるならって、よく分かったな」
「あなた、昔から紐を使いたがるから」
高校時代の文化祭で、賢人は教室の入口に紙の旗を吊ろうとして、天井から壁まで紐を張り巡らせた。結果、最初に引っかかったのは自分だった。そのことを花が覚えているとは思わなかった。
賢人が妙な顔をすると、花は視線をそらした。
「覚えてるの、そこかよ」
「転び方が派手だったから」
「人の青春を事故記録みたいに言うな」
「事故記録に残すほどではありません」
花は真顔で返した。賢人は笑ってしまった。花もほんの少しだけ口元をゆるめた。
その空気を裂くように、入口で低い声がした。
「楽しそうなところ悪いが、それは現場に持ち込めない」
海太だった。大柄な体を店の入口で少し斜めにし、濡れてもいない靴底を一度だけ拭いてから入ってくる。手には薄いファイルを持っていた。
「海太さん、いつから」
賢人が聞くと、海太はファイルを作業台へ置いた。
「お前が青春を事故記録にされたあたりから」
「そこは聞かなかったことにしてください」
「記録には残さない」
花が横で小さく笑った。賢人は、二人が同じ職場で働いている時間の長さを少しだけ思い知る。
海太は傘を手に取り、開閉を二度繰り返した。音を聞き、骨の動きを見て、持ち手を握る。それだけで、賢人の笑いは引っ込んだ。
「まず重い。暗い場所で片手がふさがる人には負担になる。次に、内側の光が強すぎる。前を見るためのものが目に残ったら意味がない。三つ目、布に塗ったものが雨でどうなるか確認していない。水で流れたら床が滑る。四つ目、壊れたときにどこが飛ぶか決まっていない」
「壊れたときに、どこが飛ぶか?」
「人を守る道具は、壊れないことだけを考えても足りない。壊れるなら、危なくない壊れ方にしろ」
海太の声には、賢人を責める響きはなかった。責めるより先に、当然のことを並べているだけだった。その当然が、賢人には重かった。
「思いつきで人を守れるほど、現場は軽くない」
海太は言った。
店の外で、自転車のブレーキ音がした。商店街の午後のざわめきが、急に遠くなる。賢人はメモ帳の端を指で押さえた。そこには花が言った言葉が乱れた字で並んでいる。開く場所。閉じる場所。持ち手。光。外れる紐。水の落ち方。
どれも、昨日までの賢人が考えていなかったことだった。
「じゃあ、やめたほうがいいですか」
口にしてから、卑怯な言い方だと思った。止められたら、賢人は傷ついたふりをして逃げられる。東京で何度も使った道だった。
海太はその道をふさいだ。
「やめるかどうかは知らない。だが、人に見せるなら、危ないところを先に書け」
そう言って、ファイルを開いた。中には簡単な表が印刷されていた。使用場所、想定する人、危険な動き、確認方法、改善案。空欄ばかりの表だった。
「花が作った」
「海太」
花が少しだけ慌てた声を出す。
海太は表情を変えない。
「俺は枠を直しただけだ」
賢人は表を見た。花の字がところどころにある。濡れた床、手すり、子どもの目線、高齢者の歩幅、煙で見えにくい場合。短い言葉が、いくつも並んでいた。
「昨日の夜、作ったのか」
「勤務のあと、少しだけ」
花はそっけなく言った。
少しだけ、の量ではなかった。賢人にはそれが分かった。
胸の奥が、うれしさと申し訳なさで詰まる。軽く礼を言えば軽すぎる。大げさに頭を下げれば、花が困る。賢人は結局、作業台に両手をついた。
「ありがとう。これ、ちゃんと埋める」
花は何か言いかけ、やめた。海太はすでに店の隅を見ている。
「あと、換気しろ。塗料の匂いが強い」
「それは今すぐやります」
賢人が窓をもう一枚開けようとしたとき、店の前に古い軽トラックが止まった。
荷台には金属の棒、細い板、工具箱が積まれている。運転席から降りてきた男は、作業着の袖をきっちり折り、足元を確認してから店の入口をくぐった。賢人より少し年上に見える。髪は短く、額に汗が浮いているのに、持っている紙だけは折れ目ひとつなくまっすぐだった。
「黒瀬賢人さん」
「はい」
「真鍋製作所の真鍋叶一です。黒瀬のじいさんに、昔、だいぶ世話になりました」
名前を聞いて、賢人は祖父の伝票の束を思い出した。真鍋製作所。傘の骨の部品を何度も頼んでいた町工場だ。
叶一は作業台の上を見た。反射テープまみれの布、垂れた蓄光塗料、花の安全確認表、海太の立つ位置、そして賢人の頬にまだ残った銀色の端。
普通なら、笑うところだった。
叶一は笑わなかった。
「形にするなら、まず壊れ方を決めましょう」
海太が、ほんのわずかにうなずいた。
花は賢人を見た。
賢人は、作業台の上の黒い傘へ目を落とす。今朝までのそれは、祖父の紙片から生まれた思いつきだった。昼には、光りすぎる失敗作になった。夕方には、危ないところを書き出すための材料になった。
そして今、町工場の男が、その壊れ方から考えようと言っている。
「お願いします」
賢人は言った。
声が少しだけかすれた。
叶一は持ってきた紙を広げる。そこには、傘の骨の簡単な図と、持ち手の断面らしきものが描かれていた。
「直感は悪くないと思います。ただ、直感が当たっているかどうかは、数字で逃げ道をなくしましょう」
逃げ道。
その言葉に、賢人は苦笑した。自分のために用意されたような言葉だった。
「逃げ道、なくすんですか」
「はい。人が逃げる道を作るために」
叶一は真面目な顔で言った。
花が少しだけ笑い、海太がファイルを閉じ、店の外から杏侑子の声が聞こえた。
「黒瀬傘店、なんか会議っぽいことしてますか。差し入れ、いる?」
「今は、貼り紙以外ならいる」
賢人が返すと、商店街の向こうで杏侑子が笑った。
黒い傘は、まだ人を導ける形には遠い。反射テープは剥がれかけ、塗料は泣いた跡のように固まり、持ち手は濡れた手に滑る。
それでも作業台の周りには、花の表、海太の指摘、叶一の図面、杏侑子の差し入れの気配が集まっていた。
賢人は、いつもの言葉を飲み込んだ。
いける、とは言わない。
まだいける、と唱えて自分をごまかすのもやめる。
その代わり、メモ帳の新しいページに、今日の日付を書いた。
そして、最初の一行にこう書く。
――危ないところから作る。
字はやはり曲がっていた。だが、花はそれを見ても直さなかった。
賢人は少しだけ背筋を伸ばし、黒い傘を作業台の中央へ置いた。
夕方の光が店の奥まで入り、銀色のテープの端を小さく光らせる。今度はまぶしくなかった。ただ、そこに道具があることだけを、静かに知らせていた。




