第3話 この秘密は二人のもの
翌朝、黒瀬傘店のシャッターは、いつもより少し早く上がった。
早い、と言っても、商店街の豆腐屋が湯気を出し終え、パン屋の二度目の焼き上がりを知らせる匂いが路地まで届き、尚の店の前に仕込み用の青いコンテナが積まれたころである。世間では十分に朝だった。賢人にとっては、奇跡に近い時刻だった。
半分だけ開けたシャッターの下をくぐるとき、賢人は腰をぶつけた。
「痛っ」
誰も見ていないのに、慌てて背筋を伸ばす。
昨夜は、ほとんど眠っていない。祖父の未完成の黒い傘を開き、閉じ、内側の糸を指でなぞり、蛍光灯を消して懐中電灯を当て、また明かりをつけて紙片を読み返した。糸は古く、光るというより、光を思い出しているだけのように頼りなかった。それでも、傘を少し傾けると、内側の線が片側へ流れて見える角度があった。
賢人はその角度を見つけるたび、作業台の上の古いチラシの裏に丸や矢印を描いた。夜明け前に見返すと、丸も矢印も酔っぱらいの落書きにしか見えなかった。
それでも、捨てられなかった。
店の入口に、紙袋が置かれている。中には、尚の店の弁当箱と、小さなメモが入っていた。
――朝に開けたら偉い。開けなくても偉い。でも弁当は返せ。
賢人は笑いそうになり、すぐに目頭が重くなるのをこらえた。尚は酒が入らなくてもこういうことをする。泣くより先に食わせる人間だった。
弁当を作業台の端へ寄せ、賢人は祖父の黒い傘をもう一度開いた。
外側は、どこにでもある黒だった。葬式にも、会社にも、駅前の雑踏にも紛れる色である。内側だけが違う。骨に沿うように縫い込まれた青緑の糸が、布の奥でかすかに浮く。新品の反射材のような強さはない。だが、傘の内側に目を入れると、線は自然と先端へ集まる。
人は明るいものだけを見るわけではない。
昨日の地下道で、賢人はそれを見た。赤い非常灯よりも、濡れた人の背中よりも、花の声と、傘の広がった輪郭に人の目が寄った瞬間があった。
「輪郭……」
口に出すと、言葉が店の中で小さく転がった。
そのとき、商店街側から軽い足音が近づいてきた。シャッターの隙間から、杏侑子が顔をのぞかせる。手には今日の目標を書いた厚紙を持っていた。
「黒瀬さん、早い! これはもう、奇跡ではなく方針ですね。貼りましょう。『黒瀬傘店、朝から開ける店へ』」
「貼らない。絶対に貼らない」
「では小さめで」
「大きさの話じゃない」
杏侑子はすでに店へ半歩入っていた。目が作業台の黒い傘へ向かう。賢人はとっさに傘を閉じた。
「何ですか、今の」
「祖父の古い傘」
「ただの古い傘を、そんなに慌てて閉じます?」
「湿気に弱い」
「ここ傘屋ですよ」
まったく正しいことを言われ、賢人は言葉に詰まった。
杏侑子は疑わしそうに目を細めたが、追及はしなかった。代わりに厚紙を壁に当て、「ではこれは保留で」と言って、貼らずに持ち帰った。三日後には別の目標に変わっているだろう。けれど、その瞬間の熱だけは本物なので、賢人は少しだけありがたかった。
午前中、賢人は修理の仕事をした。昨日の雨で持ち込まれた透明傘、骨の曲がった紺の傘、柄が取れかけた子ども用の黄色い傘。一本ずつ開くと、壊れ方にその人の昨日が残っている。風にあおられて骨が反った傘。駅の改札前で誰かとぶつかったらしい傘。急いで閉じようとして指を挟み、持ち手を乱暴に引いた跡のある傘。
賢人の指は、考えるより早く傷みを探した。
東京で企画書の数字を眺めていたときには、何度見ても見えなかったものが、傘の骨ならすぐに分かる。何が先に負けたのか。どこを直せばもう一度開くのか。
昼過ぎ、灯町消防署へ電話をかけた。
代表番号を押すだけで、やけに喉が渇いた。仕事の邪魔になるかもしれない。私用と受け取られたら迷惑だろう。何より、花が出なかった場合に、用件をどう説明すればいいのか分からない。
呼び出し音のあと、落ち着いた男性の声が出た。
「灯町消防署です」
「あ、黒瀬傘店の黒瀬です。昨日、駅前で、その、傘を」
言葉が早くも崩れた。
相手は一拍置いてから、「花への伝言ですか」と言った。声の端に、少しだけ記憶がある。昨日、地下道で花の横にいた背の高い消防士だと気づき、賢人の背中に汗がにじんだ。
「勤務の邪魔でなければ、で大丈夫です。古い傘を見つけたので、花さんに、いや、消防士として見てほしいというか、でも正式な話ではなくて」
「正式でないものを消防士として見せたい?」
声が平らだった。怒ってはいない。怒っていないから、余計に怖い。
「……言い方を間違えました。現場で使うとか、そういう話ではありません。昨日の地下道を見て、祖父が考えていたらしい傘があって、その危ないところを、まず知りたいんです」
電話の向こうで、紙をめくるような音がした。
「花は夕方まで勤務です。伝えるだけ伝えます。来るかどうかは本人が決めます」
「あ、はい。ありがとうございます」
「それと」
「はい」
「人を守る道具という言葉を使うなら、思いつきで広げないでください」
電話は丁寧に切れた。
賢人は受話器を置いたあと、しばらく動けなかった。名乗られなかったが、あれが海太なのだろう。花の同僚。昨日も、花の少し後ろで周囲の足元と天井を見ていた人だ。
思いつきで広げないでください。
その一言は、作業台の黒い傘の上へ重く落ちた。
賢人は古い紙片をもう一度読んだ。祖父の字は震えているようで、線だけは強い。
傘は頭を守るだけではない。迷った足を、少し前へ出す道具にもなる。
人を前へ出すなら、前へ出した先が安全でなければならない。
そんな当たり前のことを、賢人は昨日から何度も考えているのに、考えるたびに足元がすくむ。自分は今まで、何かを最後まで担いだことがあっただろうか。東京では、誰かが会議をまとめ、誰かが資料を整え、誰かが謝りに行った。賢人はおもしろい案を出すことはできた。けれど、その案が人の手に渡る最後の場面から、いつも少しずつ逃げた。
夕方、雨は上がっていた。
黒瀬傘店の前のアーケードには、ところどころ水滴が残り、通りを歩く人の靴音が湿っている。店の奥で蛍光灯を一本だけつけ、賢人は黒い傘を作業台に置いた。祖父の紙片、昨夜の落書き、古い糸、針、反射テープの切れ端。店は散らかっていたが、今日はその散らかり方に理由があった。
「まだ開いてる」
入口から声がした。
花が立っていた。活動服ではなく、紺色の薄い上着に、黒いリュックを背負っている。髪は後ろで簡単にまとめられ、顔には仕事の疲れが残っていた。けれど、目ははっきりしている。
賢人は立ち上がろうとして、膝を作業台にぶつけた。
「痛っ」
「昨日もどこかぶつけてなかった?」
「これは店の構造上の問題」
「店のせいにするの、十年ぶりに聞いた」
花はそう言いながら、入口で靴の泥を落とした。店へ入る前に、床が濡れていないかを見る。その視線だけで、彼女がどこでも人の足元を気にしているのが分かる。
賢人は作業台の前に立ち、黒い傘を手に取った。
「昨日、店に戻ってから見つけた。祖父のものだと思う」
「おじいさんの?」
花の声が少し柔らかくなる。黒瀬の祖父は、商店街の多くの人にとって、傘を直す人であり、雨の日に余計な一言を言わず傘を貸す人だった。
賢人は傘を開いた。
蛍光灯の下では、内側の線はほとんど目立たない。花は近づき、手を伸ばしかけて、いったん止めた。
「触っていい?」
「もちろん」
花は布を引っ張らず、縫い目だけを指でなぞった。次に骨の位置、石突、持ち手、開閉の動きを見る。懐かしむ顔ではなく、確認する顔だった。
「きれいだけど、これだけだと目印としては弱い」
最初の言葉は、容赦がなかった。
賢人は思わず笑った。
「もう少し、昔話から入ってくれてもいいんだけど」
「消防士として呼んだんでしょ」
「正式ではないけど」
「正式じゃないから、なおさら言う。目印にするには弱い。濡れた床で傘を持つと、手元が滑る。傘を見ながら歩くと、足元を見落とす。傘同士が近いと、人の目に当たる。混んだ場所で開くなら、開いた瞬間に周りへ当たる。あと、これを見て進んだ人が段差で転んだら、誰の責任になるのかも考えないといけない」
言葉は淡々としている。責めるためではない。順番に危ない場所を置いていく声だった。
賢人は昨夜の落書きの裏に、慌てて書き始めた。
「待って、もう一回。手元が滑る、足元を見落とす、目に当たる、段差、責任」
「それから、光りすぎるのも駄目。人は強い光を見ると、そっちに意識が寄りすぎる。暗い場所では助かることもあるけど、濡れた階段では危ない」
「光ればいいってものじゃないのか」
「光ればいいなら、消防の道具は全部ぴかぴかにする」
「それはそれで見てみたい」
花が少しだけ口元を動かした。
「現場で笑われるよ」
「俺も笑う」
「笑ってる場合じゃない」
「はい」
賢人が素直に返事をすると、花は少し驚いた顔をした。昔の賢人なら、たぶんもっと軽い冗談を重ねていた。怒られないように笑わせ、笑わせた隙に逃げていた。
花は作業台に置かれた祖父の紙片を見つけた。
「読んでいい?」
賢人は頷いた。
花はゆっくり紙片を読んだ。読み終えてから、しばらく何も言わなかった。店の外で、自転車のベルが鳴る。アーケードの水滴が、ひとつ落ちる音がした。
「おじいさんらしいね」
「分かる?」
「うん。雨の日に、前を向けって言うんじゃなくて、前を向けるものを渡す感じ」
賢人は胸の奥を押されたような気がした。
祖父は、励ます言葉をあまり使わない人だった。泣いている子どもに「泣くな」とは言わず、折れた傘を直しながら「これで帰れる」とだけ言った。困っている大人に「頑張れ」とは言わず、安い修理代で傘を返した。
前を向けと言うのではなく、前を向けるものを渡す。
それは、賢人が昨夜から言葉にできなかった感覚に近かった。
「昨日の地下道でさ」
賢人は黒い傘を見たまま言った。
「人が止まっただろ。出口はあるのに、見えてるのに、雨と暗さと人の多さで、誰も一歩目を出せなかった。あのとき、花の声で動いた。消防士だから当たり前って言われたらそうなんだけど、俺、初めて分かったんだ。進むって、気合いじゃないんだなって」
花は黙って聞いている。
「進める形がいる。見えるものとか、握れるものとか、誰かが大丈夫って言わなくても、体が少しだけ動くもの。祖父は、たぶんそれを作ろうとしてた」
「賢人は?」
その呼び方に、賢人の指先が止まった。
十年前、花は当たり前のように名前で呼んでいた。昨日の地下道では「黒瀬さん」だった。今、店の奥で、作業台の前で、彼女は昔と今の間にある呼び方を選んだ。
「俺は……」
賢人は、軽く言おうとした。祖父の続きかな、とか、商店街の困りごと解決かな、とか、笑える言葉はいくらでも浮かんだ。
だが、花は待っていた。
昔の花も、こうして待つことがあった。駅のホームで、花火の音が遠くに残っていた夜、「戻ってくる?」と聞いて、賢人の答えを待った。賢人は答えず、町を出た。
「俺は、自分が逃げた場所で、逃げないものを一個作りたい」
言ってから、顔が熱くなった。
花は、からかわなかった。
「それなら、最初に決めて」
「何を?」
「この傘を、誰に見せるか。どこで試すか。誰が止めるか。止める人を最初から決めないと、作る人は止まれなくなる」
賢人は頷いた。
それは、今の自分に一番必要な言葉だった。
「じゃあ、正式に出せる段階になるまでは、広げない。商店街の宣伝にも使わない。杏侑子さんにも、まだ見せない」
「もう見られかけたんじゃない?」
「見られかけた」
「早い」
「朝に開けたせいで油断した」
花は少し笑ったが、すぐに真顔へ戻った。
「消防署に持ち込むのも、今はまだ早い。海太にも話は通ると思うけど、あの人は半端なものを半端って言う。たぶん、賢人が思っている三倍くらい細かく止める」
「電話で一回止められた」
「でしょうね」
花の返事が早すぎて、賢人は笑ってしまった。
花は傘を閉じた。布が重なり、内側の淡い線は見えなくなる。外から見れば、ただの黒い傘だった。
「この秘密は二人のもの、って言えるほど甘いものじゃないよ」
花の声は静かだった。
賢人は傘の持ち手を握り直した。古い木の感触が、手のひらへ残る。
「甘くなくていい。雨の日に使うんだから」
言ってから、自分でも少し気に入った。気に入ったのが顔に出たのか、花が眉を上げる。
「今、うまいこと言ったと思った?」
「ちょっと」
「そういうところは、変わらないね」
「でも、逃げないようにはする」
花はすぐに返事をしなかった。
店の外を、ランドセルを背負った子どもが二人、笑いながら走っていく。濡れた路面を避けて跳ねる足音が、アーケードに響いた。
花はその音を聞きながら、黒い傘をもう一度見た。
「まず、持ち手。濡れた手でも握れるように。次に、内側の線。目を引きすぎず、でも進む方向が分かるように。あと、傘を見せる相手は、今のところ私だけ。海太には、安全の相談をする段階で私から話す。役場はもっと後」
「了解」
「それと、店は開けて」
「そこも?」
「そこも。閉まっている店の奥で、人を進ませる道具を作るって、ちょっと信用しづらい」
痛いところを、迷わず突かれた。
賢人は笑いながら、言い返せなかった。
花はリュックを背負い直した。帰るのだと思うと、賢人は急に何か言わなければならない気がした。十年前も、同じ焦りがあった。言わないと離れる。言わなければ残るものも残らない。分かっていたのに、あのときは背を向けた。
「花」
名前を呼ぶと、花が振り向いた。
「昨日、ありがとう。地下道で。あと、来てくれて」
「昨日も言われた」
「昨日より、ちゃんと言った」
花は目を伏せ、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「じゃあ、昨日よりちゃんと受け取る」
それだけ言って、花は店を出た。
アーケードの向こうへ歩いていく背中は、仕事帰りの一人の女性の背中だった。けれど賢人には、昨日の地下道で人を動かした消防士の背中にも見えたし、十年前の花火の夜に返事を待っていた少女の背中にも見えた。
全部が重なっている。
賢人は黒い傘を作業台へ戻し、壁に貼りかけられていた杏侑子の厚紙の余白へ、新しい言葉を書いた。
――店を開ける。
――持ち手を直す。
――光らせすぎない。
――止める人を決める。
字は相変わらず曲がっていた。だが、昨夜の丸や矢印よりは、少しだけ読める。
その夜、黒瀬傘店の明かりは遅くまで消えなかった。
賢人は祖父の未完成品を分解せず、まず採寸だけをした。壊さない。急がない。思いつきで広げない。花の声と、海太の電話越しの忠告と、祖父の紙片を作業台の上に並べる。
黒い傘はまだ、誰も導けない。
けれど、賢人自身の足だけは、昨夜より半歩だけ前へ出ていた。




