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黒い傘は、花嫁の手をひく。  作者: 乾為天女


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第2話 消防士の花

 駅前へ向かう道は、まだ雨を知らない人たちで詰まりかけていた。

 商店街のアーケードを抜けると、再開発ビルのガラスに低い雲が映っている。風は川のほうから斜めに吹き、コンビニの前に立ててあったのぼりをばたばたと鳴らした。賢人は直したばかりの黒い傘を片手に、靴底で湿った舗道を蹴る。

 消防車のサイレンは、駅前広場の手前で止まっていた。

 人だかりの向こうに、地下道へ下りる階段が見える。駅前の大通りをくぐって、バス乗り場と川沿いの遊歩道をつなぐ古い地下道だ。子どものころは近道だった。高校の帰りには、雨の日の自転車を押して、花と並んで通ったこともある。

 今は、入口付近で何人も立ち止まっていた。

 「すみません、通ります」

 賢人は肩を小さくして、人のあいだを抜けた。誰かの濡れたビニール傘が頬に触れる。まだ降り出していないのに、地下道から上がってくる空気は水を含んでいた。排水の匂いと、ブレーキの焼けたような匂いが混ざっている。

 階段の途中で、照明が一度、ふっと消えた。

 息を呑む声が、地下道の奥へ波のように広がる。

 すぐに非常灯が点いた。赤みのある細い明かりが壁際に残り、人の顔を下から照らす。奥のほうで子どもが泣き出した。ベビーカーを押した若い母親が、立ち止まった列の中で身動きできなくなっている。杖を持った高齢の男性は、濡れた階段を見て、降りるべきか戻るべきか分からない顔をしていた。

 賢人は反射的に傘を抱え直した。

 ここで自分に何ができるのか。そもそも、ここに来てよかったのか。消防の邪魔になるだけではないのか。

 迷った瞬間、地下道の奥から、低く短い声が飛んだ。

 「右の手すり、空けてください。上がる人を先に通します」

 その声に、賢人の足が止まった。

 聞き覚えがある。十年前より少し低い。けれど、言葉の先がまっすぐ人の胸へ届く感じは変わらない。

 非常灯の赤い光の中、濃紺の活動服を着た消防士が、膝を折って子どもの目線に合わせていた。ヘルメットの下から、雨に濡れた前髪が頬に張りついている。泣いている子どもに何かを言い、母親へ小さく頷く。それから、すぐに立ち上がり、通路の先へ視線を走らせた。

 花だった。

 灯町消防署の腕章が、非常灯の光を受けて白く浮かんでいる。

 賢人は、名前を呼びそうになって、喉で止めた。

 花は仕事中だった。こちらに気づいたとしても、昔話をする場所ではない。

 「濡れているところを踏まないで。左側、少し水が上がっています。足元を見て、ゆっくり」

 花は、焦っている人へ急げと言わなかった。走ろうとする学生の肩に手を出し、進む向きを変えさせる。ベビーカーの母親には、近くの男性へ短く頼んで、階段の上まで持ち上げる手伝いをつけた。高齢の男性には、杖を持つ手と反対側へ回り、急がせずに手すりへ誘導する。

 賢人は、ただ見ていた。

 東京の会社で作っていた企画書には、ターゲット、導線、視認性、購買動機という言葉が並んでいた。きれいな矢印を入れた資料も何度も作った。けれど、今この地下道で、どちらへ一歩出せばいいか分からず固まっている人たちの前では、紙の上の矢印など、何も光らない。

 また照明が瞬いた。

 今度は、奥の蛍光灯が数本消えたまま戻らなかった。非常灯の下で、黒っぽい傘の群れが揺れる。外へ出ようとする人と、雨を避けて地下へ入ってきた人が、階段の下でぶつかりかけた。

 「入る人、止まってください。出る人が先です」

 花の声が響く。

 だが、入口側の人たちには奥の様子が見えない。後ろから押され、前の人が止まり、また不安が広がる。

 賢人は手に持った黒い傘を見た。

 さっき直したばかりの傘だ。普通の黒。内側も、ただの黒。人を導く力などない。

 それでも、傘は開けば面になる。面になれば、人の目に入る。

 「すみません、ここ、少し広げます」

 賢人は入口脇の濡れていない場所で傘を開いた。黒い面がぱっと広がり、階段の手前に小さな境目ができる。

 「こっちは上がる人です。降りる人、右の壁側で一回止まってください。消防の人の声、聞こえますか。出る人が先です」

 自分の声は、花ほど低くも強くもない。途中で裏返りそうになる。それでも、近くの人が顔を上げた。

 「そっち、出られるの?」

 「出られます。足元、水があります。ゆっくりで」

 賢人は傘を少し傾け、出口側を示した。黒い傘の縁が、非常灯の赤い光を受けて、ぼんやりと輪郭を作る。人は言葉だけより、動くものに目を向ける。賢人はそれを、傘の売り場ではなく、今ここで知った。

 「お兄さん、これ、持ってて」

 近くにいた男子高校生が、自分の透明傘を差し出した。

 賢人は一瞬戸惑ったが、受け取って、階段の上がり口に立てる。透明な傘を横にして、降りてくる人の足を止める目印にした。

 「ここから先、少し待ってください。上がる人が通ります」

 さらに、バス待ちの女性が折りたたみ傘を出した。買い物袋を持った男性が、濡れた傘を閉じて手すり側に立つ。傘が二本、三本と増え、急ごしらえの目印ができていった。

 花がこちらを見た。

 非常灯の赤のせいか、ほんの一瞬だけ、十年前の夏祭りの提灯の下にいるように見えた。高校の制服姿で、傘を持って、何かを言いかけていた花。返事を待っていた花。背を向けた自分。

 今の花は、すぐに視線を戻した。

 「入口側、そのまま分けて。上がる人を先に」

 名前は呼ばれなかった。だが、指示は来た。

 賢人は頷き、傘を掲げ直した。

 雨は、そのとき一気に落ちてきた。

 地下道の入口の外で、アスファルトを叩く音が膨らむ。さっきまで灰色だった空が、突然、桶をひっくり返したように水を落とした。駅前広場の人たちが屋根の下へ走り、地下道へ避けようとして押し寄せる。

 「入らないでください! 今、出る人が先です!」

 賢人は黒い傘を横へ広げた。腕に雨粒が当たる。入口に立っているだけなのに、ズボンの裾が濡れていく。

 「なんでだよ、濡れるだろ」

 スーツ姿の男性が苛立った声を出した。

 賢人は一瞬、言い返す言葉を探した。理屈を並べれば、相手はさらに苛立つ。ここで押し返されたら、階段の下が詰まる。

 「すみません。下に子どもがいます。三十秒だけ、ここで待ってください」

 自分でも驚くほど、言葉が短く出た。

 男性は舌打ちしたが、止まった。後ろの人も、つられて止まる。

 その三十秒で、ベビーカーの母親が階段を上がった。子どもはまだ泣いていたが、花が上着を脱いで小さな肩へかけていた。濡れた活動服の下、花の腕が雨を受けて光る。

 「大丈夫。泣けるなら、息できてる。えらい」

 花は子どもにそう言った。

 叱らない。急がせない。ただ、次の一歩だけを置いていく。

 賢人は、その声を聞きながら、胸の奥に変な痛みを覚えた。高校のころ、花はよく弱音を言う前に、ノートの端を指でこすっていた。進路のこと、家のこと、部活のこと。賢人は、聞いているつもりで、最後のところでは逃げた。

 今、花は誰かを逃がすために、逃げずに立っている。

 地下道の混乱は、十分ほどで落ち着いた。排水ポンプの一時不調と短い停電が重なっただけで、大きな事故にはならなかった。消防隊員と駅員が通路の水を確認し、警察官が人の流れを整理する。雨はまだ強いが、最初の激しさは過ぎていた。

 賢人は、入口脇で傘を閉じた。黒い布から水が筋になって落ちる。自分のシャツは背中まで湿っていて、靴下の中にも水が入っていた。

 「黒瀬」

 背後から呼ばれた。

 名字だった。十年前にはあまり聞かなかった呼び方だった。

 振り向くと、花がヘルメットを片手に立っていた。頬に雨のしずくが残り、睫毛の先にも小さな水滴がついている。賢人が覚えていた花より、目元が少し鋭くなっていた。けれど、泣きそうな子どもを見るときの柔らかさは、どこか昔のままだった。

 「……久しぶり」

 賢人は、それしか言えなかった。

 花は、賢人の手元の黒い傘を見てから、地下道の入口を見た。

 「相変わらず、その場しのぎは早いね」

 褒められたのか、刺されたのか、分からない。

 「その場しのぎって、もう少し言い方」

 「違う?」

 「違わないけど、十年ぶりの第一声としては強い」

 花は少しだけ口元を動かした。笑った、というには短い。けれど、賢人はその小さな変化だけで、胸のあたりが忙しくなった。

 「店、開けたんだ」

 「半分だけのつもりだったんだけど、シャッターが勝手に」

 「シャッターのせいにするんだ」

 「だいたい、古いものはこっちの都合を聞かない」

 「人もね」

 花の言葉の終わりに、十年前の駅のホームが差し込まれた気がした。

 賢人は、傘の持ち手を握り直す。

 「あのときのことは」

 言いかけたところで、花の無線が鳴った。短い連絡が入り、花の表情が仕事へ戻る。目の焦点が賢人から外れ、駅員、隊員、地下道の奥へ順に動く。

 「ごめん。まだ確認がある」

 「うん」

 「それと、さっきの傘の使い方。勝手に人を止めるのは危ないこともある。今回はたまたま周りが見えていたからよかったけど」

 「はい」

 思わず返事が敬語になった。

 花は、それを聞いて、ほんの少し眉を上げた。

 「でも、助かった人はいる。そこは、ありがとう」

 短い礼だった。

 賢人は、うまく返せなかった。ありがとうと言われるほどのことをしたのか、自分でも分からない。けれど、花の声が胸の奥に置かれたことだけは分かった。

 「黒瀬傘店、まだ場所は同じ?」

 「うん。雨漏りつきで営業中」

 「雨漏りする傘屋って、信用していいの」

 「店が先にお客さんの気持ちを体験してる」

 花は今度こそ、小さく笑った。

 「変なところだけ、昔のまま」

 その言葉を残して、花は地下道へ戻っていった。活動服の背中が、人の流れの中にまぎれる。賢人は追いかけなかった。追いかけて、今度こそ答えを言えたら格好よかったのだろうが、現実の足はそこまでうまく動かない。

 駅前広場の雨は、細かい粒になっていた。

 賢人は黒い傘を差し、商店街へ戻った。傘の内側は暗い。黒い布の下にいると、外の雨が少し遠くなる。外から見る黒い傘は地味で、どこにでもある。だが、さっき非常灯の下で開いたとき、人は一瞬だけ、その面を目印にした。

 人が進めなくなる瞬間。

 地下道の赤い非常灯、濡れた階段、泣く子ども、花の低い声。それらが、黒い傘の内側に貼りついたまま離れない。

 黒瀬傘店へ戻ると、シャッターは開いたままだった。入口の土間に雨が吹き込んでいる。賢人は慌てて雑巾を取り、床を拭いた。拭きながら、作業台の奥に見えていた木箱を思い出す。

 さっきは、サイレンで手を止めた。

 今度は、店の奥へまっすぐ向かった。

 木箱は、棚の下に押し込まれていた。表には何も書かれていない。持ち上げると、思ったより軽い。ふたには古い雨染みがあり、角の金具は少し錆びていた。

 賢人は作業台に箱を置き、ふたを開けた。

 中には、黒い傘が一本入っていた。

 ただし、普通の黒い傘ではなかった。外側は深い黒。だが、内側に細い糸のようなものが縫い込まれている。白ではない。銀でもない。光が当たる角度によって、うっすら青緑に見える糸だった。傘の骨に沿って、雨粒の流れのような線が何本も走っている。

 布の下には、古い紙片が挟まっていた。

 祖父の字だった。

 ――雨の夜、人は白より黒の内側を見る。

 ――明かりは前に置くより、手の中で進むほうがいい。

 ――傘は頭を守るだけではない。迷った足を、少し前へ出す道具にもなる。

 賢人は紙を持ったまま、しばらく動けなかった。

 祖父は、同じことを考えていたのだろうか。駅前地下道のような場所で、雨と暗さと人の不安が重なる瞬間を、何度も見ていたのだろうか。

 黒い傘の内側へ、店の蛍光灯がかすかに映った。

 糸はほとんど光らない。古い。未完成だ。実際の地下道で役に立つかどうかなど分からない。むしろ、危ないかもしれない。花なら、まずそう言うだろう。海太という同僚がいれば、さらに厳しく止めるかもしれない。

 それでも、賢人の指先は、その傘の骨を確かめていた。

 どこが弱いか。どこが重いか。どう開けば、人の目に届くか。

 東京の会議室で、何度も黙り込んだ自分の頭が、今は勝手に動き始めている。

 雨は、店の外で細く続いていた。シャッターの向こうを、傘を差した人が一人、また一人と通り過ぎる。黒い傘、透明な傘、花柄の傘。どの傘の下にも、家へ帰る人がいる。誰かを迎えに行く人がいる。濡れたくない荷物を抱えた人がいる。

 賢人は祖父の紙片を作業台に置き、未完成の黒い傘をそっと開いた。

 内側の線は、頼りないほど淡かった。

 けれど、非常灯の赤い光の記憶と重なると、それは確かに、前へ伸びる細い道に見えた。

 賢人は携帯を取り出し、連絡先を開いた。

 花の番号は、十年前のまま残っていない。消したのか、機種変更のときに失くしたのかも覚えていない。それでも、灯町消防署の代表番号なら調べられる。仕事中にかけるわけにはいかない。用件も、まだ言葉になっていない。

 賢人は携帯を伏せた。

 先に、見せられる形にしなければならない。

 作業台の上には、祖父の未完成品と、駅前から持ち帰った雨の匂いと、花の「ありがとう」が残っていた。

 賢人は濡れたシャツのまま、工具箱を引き寄せた。

 逃げるために戻ってきた町で、初めて、自分から夜を長く使いたいと思った。



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