第1話 黒い傘の店に帰る
五月の終わり、灯町の川沿いには、まだ梅雨の名札をつける前の湿った風が吹いていた。
黒瀬賢人は、午前十時をすぎても動かない商店街の時計を見上げてから、黒瀬傘店の前で立ち止まった。祖父の葬儀から一週間。線香の匂いは喪服から抜けたのに、店の引き戸に触れる指先には、まだ葬儀場の白い花の冷たさが残っている気がした。
シャッターには、祖父の字で書かれた紙が貼られていた。
――修理承ります。骨折れ、布破れ、持ち手交換。雨の日の前にどうぞ。
その紙の端は、何度も雨を吸って波打っている。賢人は紙をはがそうとして、途中でやめた。はがしたあとに、自分の字で何を書くのか決めていなかった。
「まあ……半分だけなら、開けたうちに入らないだろ」
誰に言い訳しているのか分からない声でつぶやき、シャッターの取っ手を握る。がらがらと音が鳴り、鉄の板が胸の高さまで上がった。そこで止めるつもりだったのに、途中で引っかかり、肩に力を入れた拍子に、思ったより上まで開いてしまう。
黒瀬傘店は、外から見ると細長い店だった。入口の右に傘立て、左に修理見本。奥には作業台と古いレジ。壁一面に、傘の骨、布、持ち手、石突き、小さなネジ、糸巻きが並んでいる。祖父が几帳面だったのか、几帳面になろうとして途中で諦めたのか、棚の札は三種類の筆跡で書き足されていた。
賢人は頭を低くしてシャッターの下をくぐる。開けた瞬間、店の空気が外へ逃げ、ほこりと油と古い布の匂いが鼻に入った。東京で借りていた六畳の部屋にはなかった匂いだった。会社の会議室の乾いた空調とも、満員電車の湿った背広とも違う。誰かが、長い時間、手を動かして生きていた匂い。
その匂いの中に、自分の居場所があるとは、まだ思えなかった。
作業台の上には、修理待ちの傘が七本置かれている。黄色い子ども用の傘、持ち手だけが上等な紳士傘、花柄の折りたたみ傘、骨が一本だけ妙に外へ曲がった黒い傘。伝票はクリップで留められているものもあれば、傘の輪ゴムに挟まれているだけのものもあった。
賢人は一枚目の伝票をめくる。
「山岸さん、骨二本交換。納期……先週の金曜」
自分が読み上げた言葉に、作業台の上の空気まで固まった気がした。
祖父が倒れた時期を考えれば仕方ない。そう言い訳するのは簡単だった。けれど、山岸さんが雨の日にこの傘を持てなかった事実は、言い訳では乾かない。
賢人は腕まくりをした。腕まくりをしたところで、何から手をつければいいのか分からない。東京の雑貨メーカーにいたころ、会議ではよく「まず全体像を」と言われた。全体像を見ようとするほど、目の前の一本を見失った。今も同じだった。
「とりあえず、一か月。店を閉めるかどうかは、それから」
口に出すと、少しだけ本当らしくなる。
だが、その一か月の先に東京へ戻る机はない。退職届は受理され、借りていた部屋も引き払った。上司から最後にもらった言葉は、「黒瀬くんは発想は悪くないんだけど、形にする前に逃げ道を探すよね」だった。
言い返せなかった。悔しいより先に、当たっていると思ってしまった。
賢人は古いマグカップを手に取る。底に茶色い輪が残っていた。祖父が最後に飲んだ茶なのか、自分が通夜の翌日に淹れて忘れたものなのか、見分けがつかない。洗おうとして流しへ向かったところで、天井からぽたりと水が落ちた。
「雨も降ってないのに?」
見上げると、天井板の一部が薄く染みていた。梅雨を前にして、店は傘屋のくせに雨漏りの準備をしているらしい。
賢人が笑うより先に、店の外から声が飛んだ。
「開いてる! 黒瀬傘店、開いてますよ!」
甲高い声に、賢人は肩を跳ねさせた。
入口から身をかがめて入ってきたのは、商店街連合会の臨時職員だと名乗っていた杏侑子だった。葬儀の受付で、祖父の写真に向かって「今年こそ商店街の空き店舗率を下げます」と宣言していた女性である。今日は白いシャツの上に、商店街の名札を首から下げ、片手に色とりどりの付箋を持っている。
「黒瀬さん、シャッターを半分以上開けたら営業です。営業なら目標が必要です」
「いや、まだ掃除を」
「掃除も目標に入ります。閉めるなら閉める、開けるなら開ける。どっちにしても紙に書くと、だいたい三日は続きます」
「三日なんですか」
「三日続けば、四日目に貼り直せます」
杏侑子は返事を待たず、レジ横の壁に付箋を貼った。
――今週中に修理待ち七本確認。
――雨漏り箇所を探す。
――朝、十一時までに開店。
賢人は三枚目を見て眉を寄せた。
「十一時は朝ですか」
「朝です。今の黒瀬さんには」
「いきなり人の生活を見抜かないでください」
「葬儀の日も告別式の日も、黒瀬さんだけ靴下が左右違いました」
そこまで見られていたのか。賢人は足元を見た。今日は同じ黒に見える。ただ、片方にだけ小さな穴があった。
杏侑子は作業台の傘をのぞき込む。
「おじいさん、最後まで預かり票を手放さなかったんですよ。商店街の人、みんな分かってます。だから、急に全部やれとは言いません。でも、開けたなら、誰か一人は助かります」
その言い方は明るかったが、軽くはなかった。賢人は茶化す言葉を探し、見つからないまま頷いた。
そこへ、今度は入口で鈴が鳴った。
古い暖簾を持ち上げて入ってきたのは、貸衣装店「きぬよ衣裳室」の衣代だった。年齢を聞くと必ず「採寸は年齢より正確」と返す人で、今日も首からメジャーをかけている。手には煎餅の袋と、なぜか小さな脚立を持っていた。
「賢人くん、天井、見せてごらん。黒瀬のおじいちゃん、去年からここは危ないって言ってたから」
「衣代さん、うち傘屋です。衣装屋さんに天井を」
「傘屋だから雨漏りを笑いにできないでしょ」
衣代は脚立を立てると、メジャーで天井の染みを測り始めた。幅二十四センチ、長さ三十一センチ。測った数字を、杏侑子が勝手に付箋へ書く。
「雨漏り二十四×三十一。大きくなる前に相談」
「相談先が分からないんですけど」
「それも貼りましょう」
――相談先を探す。
壁の付箋が四枚になった。
賢人は、店が自分のものになったというより、商店街の共有掲示板になっていくのを見ていた。祖父がいたころも、こうだったのだろうか。勝手に入ってきて、勝手に口を出して、勝手に心配する。東京では隣の部屋の人の顔も知らなかった。楽だった。寂しいと思う暇もなかった。
今は、逃げ場所が少ない。
昼すぎには、小料理屋「尚ちゃん」の店主、尚までやって来た。まだ店を開ける時間ではないのに、手には大きな弁当箱がある。
「賢人、食べてるか」
「食べてます」
「何を」
「……昨日、コンビニの」
尚はその場で泣いた。
「黒瀬のおじいちゃんに顔向けできない。あの人、傘の骨は折っても、孫の食生活は折らなかったのに」
「傘の骨は折らないでください、傘屋なので」
「たとえだよ。たとえで泣いてるんだよ」
尚は泣きながら弁当箱を開ける。卵焼き、鮭、ほうれん草の胡麻和え、煮物。商店街の昼飯にしては、妙にきちんとしていた。
「食べろ。食べながら、おじいちゃんの話を聞け」
「食べる前から泣いてる人の話は、消化に悪そうです」
「いいんだよ。泣きたいときに泣ける胃にしておけ」
賢人は箸を受け取った。卵焼きは少し甘く、祖父の味ではなかった。祖父は卵焼きを作ると、必ず焦がした。それでも賢人は、口に入れた途端、目の奥が少し熱くなった。
尚は祖父の話をした。雨の日に迷子を迎えに行ったこと。酔っぱらいが忘れた傘を三年預かっていたこと。結婚式の朝に、壊れた白い傘を直して新婦の家まで走ったこと。話の途中で何度も泣くので、杏侑子が付箋を差し出し、衣代が煎餅を口に押し込み、賢人は笑うしかなかった。
笑いながら、作業台の七本の傘が見えた。
祖父は、これらをただの品物として預かっていたのではない。誰かが次に外へ出る日のために、一本ずつ置いていたのだ。
午後三時、店の中が少し落ち着いたころ、賢人は黒い傘を一本手に取った。伝票には、持ち主の名前と「風で反転、骨一本変形」とある。見た目には、どの骨も同じように歪んでいる。賢人は傘を半分だけ開き、骨の根元に指を滑らせた。
その瞬間、指先が、曲がり方の順番を拾った。
最初に左手前の親骨が押され、次に隣の受け骨がねじれた。風は正面からではなく、斜め下から吹き上げた。たぶん、駅前のビル風。持ち主は慌てて閉じようとして、逆に力をかけた。
賢人は作業台の上で傘を回し、問題の骨を指で押さえる。
「ここだ」
自分の声が、思ったよりはっきり響いた。
杏侑子が振り返る。
「何がですか」
「いや、この骨。一本だけじゃなくて、受け骨も少しねじれてる。これを先に直さないと、また同じところが反る」
「見ただけで?」
「触っただけです」
言ってから、自分でも驚いた。
東京で企画書を作っていたころ、賢人の直感はいつも厄介者だった。根拠は、数字は、資料は、上司はそう聞いた。賢人は答えられず、会議のあとで自分の感覚を恥じた。けれど今、指先に残った感覚は、恥ずかしくなかった。
衣代が目を細める。
「おじいちゃんに似たね」
「似てませんよ。俺、あんなに朝早く起きられない」
「そこは似なくていいの」
尚がまた泣きそうな顔をするので、賢人は慌てて工具を取った。
小さなペンチ。祖父の手に合わせて持ち手が少しすり減っている。賢人の手には、まだなじまない。だが、骨を挟んで少しずつ戻していくと、金属が抵抗しながら元の線を思い出すように動いた。
店の外では、自転車のブレーキ音、肉屋の揚げ物の匂い、遠くで鳴る踏切の音が重なっている。黒瀬傘店の中だけ、時間がゆっくりねじを巻き戻しているみたいだった。
賢人は息を止め、最後の角度を合わせる。傘を開く。布が張り、骨がそろい、黒い面が丸く広がった。
「……直った」
言葉にすると、胸の奥で何かが小さく立ち上がった。
杏侑子が拍手をした。衣代も拍手をした。尚は弁当箱のふたで拍手をしたせいで、店内にぱこん、ぱこんと間抜けな音が響いた。
「大げさです」
「一本直ったんですよ。大げさにしましょう」
杏侑子はまた付箋を貼った。
――一本直した。
賢人は、それをはがそうとして、やめた。壁の付箋は、少しばかり格好悪い。だが、今の自分には、その格好悪さくらいがちょうどよかった。
夕方が近づくと、商店街の色が変わった。再開発ビルのガラスに西日が当たり、川沿いの道から湿った風が上がる。空の底に、灰色の雲がたまり始めていた。雨はまだ降っていない。それでも、雨の前だけが持つ匂いが店の中まで入り込んでくる。
杏侑子は商店街の会議へ戻り、衣代は店の予約電話に呼ばれ、尚は夜の仕込みへ走っていった。嵐のように人が来て、嵐のように帰っていく。残された黒瀬傘店には、作業台の上の黒い傘と、壁に貼られた五枚の付箋と、まだ洗っていないマグカップがあった。
賢人はマグカップをようやく流しへ持っていき、蛇口をひねる。水の音が狭い店に響く。カップの茶色い輪を指でこすりながら、ふと、奥の棚の下に古い木箱があることに気づいた。
祖父の工具箱とは違う。ふたに何も書かれていない。釘で留めてあるわけでもなく、ただ奥へ押し込まれている。
手を伸ばそうとした、そのときだった。
駅前のほうから、消防車のサイレンが聞こえた。
最初は遠く、次第にはっきりと。商店街の上を赤い音が走り、踏切の警報音と重なる。賢人は店先へ出た。まだ雨は落ちていない。けれど風が急に冷たくなり、駅の方角に黒い雲が低く垂れていた。
通りの向こうで、誰かが「地下道のほうだって」と言った。
賢人の手には、さっき直したばかりの黒い傘があった。なぜ持ったのか、自分でも分からない。配達に出る予定はない。消防の邪魔をするつもりもない。ただ、湿った風にあおられた傘の布が、手の中で小さく鳴った。
黒瀬傘店のシャッターは、朝よりも高く開いたままだった。
賢人は一度だけ店の中を振り返る。祖父の工具、修理待ちの傘、付箋、木箱。どれも、戻ってこいとも、行けとも言わない。
それでも、駅前へ向かう人の流れができ始めていた。
賢人は黒い傘を握り直し、商店街の湿った夕風の中へ一歩出た。




