第17話 人生が変わった日
翌朝、灯町はまだ濡れていた。
商店街のアーケードには、夜の雨が細い線になって残っている。シャッターの下に吹き込んだ落ち葉が、茶色く貼りついていた。屋台で使われるはずだった赤い提灯は、半分ほどが軒下へ回収され、残りのいくつかはしぼんだ風船のように紐へぶら下がっている。
花火の灰は落ちなかった。代わりに、町じゅうの地面へ雨水の跡が残った。
黒瀬傘店の奥で、賢人は作業台に突っ伏していた。
眠った記憶はない。いつ座ったのかも覚えていない。夜のうちに、黒い傘を使えるもの、修理が必要なもの、使用を止めるものへ分けた。濡れた説明紙を広げ、読めるものだけを残した。安全紐の外れた回数を、海太の表へ書き写した。持ち手の滑りを確認し、叶一が持ち帰る部品を箱へ入れた。
そこまでは覚えている。
そのあと、尚が置いていった味噌汁を飲もうとして、椀を持ったまま寝たらしい。
目の前の作業台に、味噌汁の椀はなかった。代わりに、椀の下へ敷かれていたらしい紙に、丸い染みが残っている。
賢人はゆっくり顔を上げた。
首が痛い。肩も痛い。右手の親指に、小さな傷がある。爪の間に黒い泥が入っていた。
店の外から、がらがらと台車の音がする。
「黒瀬くーん、生きてる?」
杏侑子の声だった。
返事をする前に、半分開いたシャッターの下から、丸めた青いビニールシートが押し込まれた。その後ろから、杏侑子の顔がのぞく。髪はひとつに結ばれているが、昨日の雨でくせが出たのか、耳の横が跳ねていた。
「生きてます」
賢人が答えると、杏侑子は胸に手を当てた。
「よかった。昨日、最後のほう、顔が土偶みたいだったから」
「土偶は生きてないでしょう」
「だから心配したの」
杏侑子は台車を押して入ってきた。台車には、濡れた腕章、回収した説明紙、誰かの忘れ物らしいタオル、そして黒い傘が三本載っていた。
「駅前の案内所に残ってた分。あと、これ」
杏侑子はスマートフォンを掲げた。画面には、昨夜の歩道橋の写真が映っていた。
暗い雨の中、黒い傘が列を作っている。傘の内側が光を受け、細い線になって橋の上へ続いていた。人の顔はほとんど写っていない。けれど、足元の濡れた舗装と、手すりにつかまる手と、傘の内側の光だけで、その場にいた人たちがどちらへ進んでいたのか分かる。
賢人は画面を見つめた。
「……誰が撮ったんですか」
「歩道橋の上にいた高校生。商店街の共有用に送ってくれたの。勝手に外へ出してないよ。顔が写ってるものもあるから、晃煕さんに確認してもらう」
「杏侑子さんが、その確認を待てるなんて」
「待てるよ。三分くらいなら」
「短い」
「でも、昨日の黒い傘は、ちゃんと待ったほうがいい気がしたの」
杏侑子は画面を伏せた。
その言い方が、いつもより少しだけ静かだった。
「売れるとか、町の顔になるとか、そういうのも思ったよ。思ったけど、昨日、歩道橋でおばあちゃんが手すりをつかんで、黒い傘の線を見ながら一歩ずつ歩いてるのを見たら、先に言うことが違うなって」
「何を言うんですか」
「助かった人がいるかどうかを、先に確かめる」
賢人は、作業台の端を指でなぞった。
古い木の傷に、雨の湿気が入り込んでいる。
「……そうですね」
そう答えたとき、店の電話が鳴った。
古い黒電話ではない。祖父の代から使っていた留守番機能つきの電話だ。ベルの音だけが、やけに大きく店に響いた。
賢人は受話器を取る。
「黒瀬傘店です」
『昨日、商店街で黒い傘を借りた者なんですけど』
年配の女性の声だった。
『返すのを忘れてしまって。朝、玄関に置いてあったのを見つけて。すみません、濡れたままで』
「大丈夫です。お怪我はありませんか」
『ええ。あの、うちの孫が、あの線がきれいだったって。怖かったけど、あの線を見たら歩けたって言ってました。だから、返す前にお礼を言いたくて』
賢人は、受話器を持つ手に力を入れた。
「ありがとうございます。傘は、乾いてからでも大丈夫です」
『修理代は』
「いりません。昨日は試験導入なので」
『試験で、あんなに助けてもらっていいのかしら』
賢人は、少しだけ目を閉じた。
「まだ試験です。だから、教えてください。使いにくいところはありましたか」
電話の向こうで、女性が黙った。
それから、遠慮がちに言う。
『持ち手が、少し太かったかもしれません。私は持てたけれど、孫の手には大きくて』
賢人は、机の上の濡れたメモを引き寄せた。
「子ども用の持ち手、検討します」
『あと、閉じるときに、どこを押せばいいか迷いました』
「分かりました。印を付けます」
電話を切ったあと、賢人はしばらくメモを見ていた。
助かった、という言葉は嬉しい。けれど、その次に出てきた「使いにくい」が、胸の奥へまっすぐ届いた。昨日で終わりではない。昨日始まったのだと、はっきり分かる。
杏侑子が、にやにやしながら覗き込む。
「黒瀬くん、今、ちょっと職人の顔してる」
「眠い顔です」
「いや、逃げない顔」
賢人は返事をしなかった。
逃げない顔、という言葉はくすぐったい。けれど、否定するほどの元気もなかった。
午前八時を過ぎると、商店街の人たちが次々に顔を出した。
衣代は、濡れた腕章を洗って干すために持ってきた。赤い布の端には泥がついている。彼女はそれを見て、「泥も思い出だけど、衣装に使うなら落とすわよ」と言った。
尚は、大鍋で作った味噌汁を店先へ運んできた。涙は出ていない。けれど鍋を置いた瞬間、「昨日の子ども、泣かなかったのよ」と言って、結局泣いた。
叶一は、濡れた部品箱を抱えて現れた。
「外れた紐を全部預かる。変形を見たい」
「お願いします」
「あと、仮止めした一本。あれは黒瀬の手柄にするな」
「え」
「祖父さんの修理癖と、うちの金具と、海太さんの止める判断があっての仮止めだ。ひとりでやった顔をすると、次に危ない」
賢人は、口を開きかけたが、やめた。
「分かりました」
叶一は頷いた。
「分かった顔だけは早いな」
「そこ、褒めるところじゃないですか」
「まだ褒めてない」
叶一は作業台の上に部品を並べる。濡れた金具、引っ張られて白くなった紐、外れた留め具。どれも昨日の雨を吸って、くすんで見えた。
賢人はそのひとつを手に取った。
金具の角に、ほんの小さな傷がある。荷物カートに引かれたものではない。歩道橋の手すりへ当たった跡だろう。もし外れなかったら、傘を持つ人の手首へ負担がかかっていたかもしれない。
背筋が冷えた。
叶一は、その表情を見て、紙を差し出した。
「冷えたなら、書け。怖かったことは、忘れる前に表へ入れる」
賢人は鉛筆を握った。
昨日までなら、怖かったことはできるだけ小さくしたかった。成功した部分を大きく見せ、失敗しかけた部分は「でも大丈夫だった」と丸めたかった。
今は違う。
怖かったところを見ないまま、この傘を増やすのが一番怖い。
賢人は書いた。
歩道橋手すり接触。外れなければ手首負担の可能性。持ち手のサイズ、大人基準。子ども用検討。閉じる位置の表示不足。
書き終わるころ、店の入口に花が立っていた。
作業服ではない。紺色のシャツに、動きやすそうな黒いズボン。髪はきちんと結ばれている。非番ではなく、勤務前に寄ったのだろう。肩から斜めに下げた鞄の端に、雨粒が少しだけ残っていた。
店の中の声が、少しだけ小さくなる。
尚が泣き止み、杏侑子が口を閉じ、衣代が腕章を持つ手を止めた。
花は、みんなの顔を順に見た。
「昨日の記録を確認しに来ました。黒瀬さん、使用中止にした一本を見せてください」
「はい」
賢人は、作業台の下から黒い傘を出した。
花は感情を顔に出さず、傘を受け取る。骨、布、持ち手、紐、留め具。順番に見る。指先が速い。けれど雑ではない。
「怪我の報告は、今のところなし。濡れて滑った人が一人。転倒はしていない。迷子は二人。どちらも保護済み。救急搬送は別件で一件、黒い傘の使用とは関係なし」
花は淡々と言った。
賢人は頷きながら、記録用紙へ書き足す。
「黒い傘を見て進めたという声は、消防署にも届いています。ただし、見えたから安全、ではありません。人が増えたとき、傘が視界をふさぐ場面もありました。説明紙を読めなかった人もいた。配布場所が一か所に寄ったのも改善点です」
「はい」
「黒瀬さん」
花が名前を呼ぶ。
賢人は顔を上げた。
花の目は、昨日の雨の中と同じだった。厳しい。けれど、切り捨ててはいない。
「昨日、黒い傘は役に立ちました。だから、ここからが本番です」
店の中で、誰かが小さく息を吐いた。
賢人は、頷いた。
「はい」
それだけしか言えなかった。
それでも花は、少しだけ口元を緩めた。
「返事、早くなったね」
「十年分、急いでるので」
尚がそこで泣きそうな声を出したので、衣代がすぐに手ぬぐいを投げた。
昼前、晃煕が役場の封筒を抱えて来た。
いつも通り、背筋がまっすぐで、靴は泥を落としてから店へ入った。昨日の夜も遅くまで動いていたはずなのに、目の下の疲れ以外は乱れていない。
「まず、昨夜の件について、関係各所で確認を進めています。現時点で、黒い傘の試験導入に関して重大な事故の報告はありません」
「よかった」
杏侑子が言うと、晃煕は頷いた。
「よかった、で終わらせないために来ました」
彼は封筒から紙を出した。
「町内備蓄品として、少数から検討します。すぐに大量購入ではありません。まずは、駅前地下道、商店街、川沿いの避難案内で使う場合の保管場所、管理者、点検頻度、使用後の回収方法、破損時の連絡先を決めます」
賢人は、紙を受け取った。
文字が多い。項目も多い。以前なら、その時点で目が滑っていた。
けれど今日は、ひとつずつ読めた。
保管場所。管理者。点検頻度。回収方法。破損時の連絡先。
全部、昨日の雨のあとに必要だったものだ。
「黒瀬傘店だけで受けると、いずれ回らなくなります」
晃煕は言った。
「真鍋製作所、商店街、消防署、役場で役割を分ける必要があります。防災用品会社との話があるなら、契約条件も慎重に。町外へ広げる場合、灯町での使い方が雑に扱われないようにしてください」
その言葉で、賢人は昨夜から忘れかけていた名刺を思い出した。
クレスト安全。
前に来た男は、権利の買い取りを持ちかけた。店の修繕費を考えれば、魅力的な話だった。祖父の道具を守る金、黒瀬傘店を続ける金、自分の生活を立て直す金。目の前でちらついた。
午後、そのクレスト安全から電話が来た。
杏侑子が「ほら来た」と小声で言い、尚が「電話で泣いたらだめよ」と賢人に言い、叶一が「条件を聞く前に頷くな」と釘を刺し、花は何も言わずに壁際へ下がった。
賢人は受話器を取った。
相手は、昨夜の写真を見たと言った。正式な協力の形を相談したいと言った。前回の買い取りではなく、共同製造も考えられると言った。
以前の賢人なら、そこで声が上ずっていたかもしれない。
全国へ。大量生産。人生が変わる。そう言われたら、足元の泥を見ずに、光っている言葉だけを追ったかもしれない。
賢人は、作業台の上を見た。
濡れた紐。傷のついた金具。子どもの手には大きかった持ち手。閉じる場所が分からなかったというメモ。花が置いた使用記録。晃煕の確認項目。叶一の試験表。
そして、祖父の古い工具。
「共同製造の話なら、条件があります」
賢人は言った。
店の中が静かになる。
電話の向こうで、相手が少しだけ黙った。
賢人は続けた。
「使用者への説明を省かないこと。災害時に優先供給する先を事前に決めること。修理体制を作ること。壊れたものを使い続けない点検方法を入れること。灯町の真鍋製作所で作っている部品を、価格だけで切らないこと。あと、黒瀬傘店は売りっぱなしにはしません。修理と改善の窓口として残します」
自分で言っていて、少し手が震えた。
相手は、すぐに良いとも悪いとも言わなかった。社内で検討すると答えた。賢人は、急ぎの契約は受けないと伝え、電話を切った。
受話器を置いた瞬間、膝から力が抜けそうになった。
尚が泣いた。
「賢人が、条件を出した」
「泣くところですか」
「泣くところよ。あんた、昔は弁当の注文も『なんでもいいです』しか言えなかったじゃない」
「それは関係ないでしょう」
衣代が腕章を干しながら笑った。
「関係あるわよ。人生は、昼ごはんの選び方にも出るんだから」
杏侑子は壁に新しい紙を貼った。
大きな字で、「黒い傘、売る前に守る」と書いている。
「それ、目標ですか」
「うん。三日は貼っておく」
「三日」
「今回は一週間いけるかも」
その場にいた人たちが笑った。
花だけは、静かに賢人を見ていた。
夕方、店の前に薄い西日が差した。
雨は完全には乾いていない。アーケードの端から、まだ水が落ちている。けれど空の雲は切れ、川のほうから涼しい風が入ってきた。
賢人は、使用後の傘を一本ずつ開いて干した。黒い傘の内側には、細い線がまだ残っている。乾いた場所では、それはほとんど目立たない。雨と光がなければ、ただの地味な黒い傘に見える。
それでいい。
いつも派手に光っていたら、人は疲れる。必要なときだけ、必要な向きへ、進むための線が見えればいい。
花が、店先へ出てきた。
「研修候補の返事、出してきた」
賢人の手が止まる。
黒い傘の水滴が、骨を伝ってぽたりと落ちた。
「……どうしたの」
聞き方が慎重になった。残ってほしいと言いたくなる気持ちが、まだ喉の奥にある。けれど、それを花の返事へ混ぜたくなかった。
花は、店の前の濡れた道を見た。
「一年は、灯町で黒い傘の運用と避難導線の改善を仕上げる。翌年度以降、短期研修で行ける形を希望した」
賢人は、すぐには言葉が出なかった。
嬉しかった。
胸の奥が、分かりやすく跳ねた。けれど、ここで「俺のため?」と聞いたら、昨日まで積んできたものを自分の手で崩す気がした。
賢人は、黒い傘の柄を握り直した。
「花が、そうしたいと思ったんだね」
花は、少し目を丸くした。
それから、小さく笑った。
「うん。私が、そうしたいと思った」
「じゃあ、俺は、その一年で直せるところを全部直す」
「全部は無理」
「じゃあ、直せるところから直す」
「それならよし」
花の声が、雨上がりの商店街に落ちた。
賢人は、照れくさくなって傘を一本取り上げた。内側の線を確かめるふりをする。花は、その横で何も言わなかった。
少し離れたところで、尚が店の暖簾の隙間からこちらを見ていた。杏侑子はその後ろで口を押さえている。衣代は見ていないふりをしながら、完全に見ている。叶一は部品箱を抱えたまま、「その傘、乾いてから触れ」とだけ言った。
賢人は苦笑した。
人生が変わる日というのは、もっと分かりやすいものだと思っていた。
新聞に載るとか、大きな会社から契約書が来るとか、知らない人に名前を呼ばれるとか、店の前に行列ができるとか。そういう、誰が見ても分かる形で来るのだと思っていた。
実際には、朝の電話で子ども用の持ち手をメモし、濡れた紐の傷に冷え、役場の紙を読み、電話口で条件を言い、好きな人の返事を自分の都合へ引っ張らずに受け止める。
そういう小さなことが、ひとつずつ店の床へ置かれていく。
その重みで、逃げる足が止まる。
その重みで、次に進む足が出る。
黒瀬傘店のシャッターは、今日は半分ではなく、最後まで上がっていた。
夕方の光が、作業台の奥まで届いている。祖父の工具が、いつもより少しだけ明るく見えた。
賢人は確認表の最後に、今日の日付を書いた。
八月末翌日。問い合わせ多数。修理依頼あり。改善点多数。共同製造の相談あり。花、灯町で一年仕上げると決める。
そこで鉛筆を止めた。
少し考えてから、もう一行だけ足す。
人生は、変わった。けれど、傘は明日も直す。
「なに書いてるの」
花が覗き込む。
賢人は紙を隠そうとして、失敗した。
花はその一行を読み、ふっと笑った。
「いいんじゃない」
「笑った?」
「笑ってない」
「絶対笑った」
「いいから、傘干して。明日も直すんでしょ」
賢人は、黒い傘を広げた。
乾きかけた内側の水滴が、西日を受けて淡く光った。
昨日の雨の夜ほど強くはない。歩道橋へ伸びる虹のようでもない。ただ、店先に置かれた一本の傘の中で、細い線が静かに浮かんでいる。
それを見て、賢人は思った。
成功は、これで終わりではない。
花火が中止になった翌日の商店街で、濡れた傘を一本ずつ干すこと。電話に出ること。条件を書くこと。使う人の手を想像すること。朝になったら、またシャッターを上げること。
黒い傘が人を前へ進ませた夜のあとで、賢人自身も、ようやく自分の仕事の前に立っていた。
店の外を、花が歩き出す。
消防署へ戻る時間だ。
賢人は、彼女を引き止めなかった。ただ、傘を一本閉じ、入口まで持っていった。
「雨、また降るかも」
「予報では降らない」
「予報が外れたら」
花は、黒い傘を受け取った。
「そのときは使う。ちゃんと説明通りに」
「改善前だから、閉じる場所に迷うかも」
「迷ったら、店に戻る」
その言葉に、賢人は返事を忘れた。
花は少しだけ首を傾ける。
「返事」
「あ、うん。戻ってきて」
「今度は、置いていかないね」
花はそう言って、黒い傘を持ったまま、雨上がりの商店街を歩いていった。
賢人はその背中を見送る。
十年前、駅のホームで置いていった返事が、ようやく少しだけ追いついた気がした。
黒瀬傘店の中では、電話がまた鳴り始めている。
賢人は振り返り、受話器へ手を伸ばした。
逃げるためではなく、続けるために。
灯町の夕方は、まだ湿っている。けれど店の中には、乾き始めた黒い傘の匂いと、明日の仕事の気配が満ちていた。




