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黒い傘は、花嫁の手をひく。  作者: 乾為天女


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18/18

第18話 あなたの花嫁

 九月下旬の灯町は、雨の匂いをまだ持っていた。

 八月末の豪雨から三週間ほど経っても、川沿いの欄干には泥の筋が細く残り、歩道橋の手すりには、町の人たちが貼った注意書きの跡が白く浮いていた。灯町役場は、夏祭りの夜に人が止まりかけた場所を一つずつ確認し、消防署は、黒い傘を使った誘導の記録を訓練資料へまとめていた。商店街では、杏侑子が「黒い傘を開くときは、周りを見てから」という紙を作り、尚の店の暖簾の横にも、衣代の店の鏡の横にも、真鍋製作所の出入口にも貼った。

 黒瀬傘店の朝は、前より早くなった。

 賢人は、シャッターを最後まで上げてから、店先のたたきを雑巾で拭く。最初の一週間は、商店街の人たちが入れ替わり立ち替わり見に来た。二週間目になると、見張りの人数は少し減った。三週間目になると、尚だけが小料理屋の仕込み前に通りかかり、「今日は上がってる」と涙ぐむようになった。

 「シャッターを上げるだけで泣かれると、商売がしづらいんですけど」

 賢人が言うと、尚は玉ねぎの入った袋を抱えたまま目元を拭いた。

 「いいのよ。人は成長を見ると泣くの。玉ねぎはまだ切ってないのに、もう目に来るわ」

 「それ、俺のせいじゃなくて玉ねぎのせいでは」

 「両方よ」

 尚はそう言い切って、向かいの店へ歩いていった。

 賢人は苦笑しながら、作業台へ戻った。

 机の上には、修理待ちの傘と、黒い傘「ミチシルベ」の点検票が並んでいる。共同製造の話は、まだ決まっていない。クレスト安全との二度目の打ち合わせでは、叶一が部品の強度表を出し、晃煕が災害時の優先供給の確認を求め、花と海太が訓練以外で使う場合の注意点を並べた。賢人は、話の途中で焦って頷かないよう、左手の親指で作業台の傷を押さえていた。

 以前なら、相手の勢いに合わせて笑い、あとで困っていた。

 今は、分からないところはその場で聞く。決められないところは持ち帰る。安くなると言われても、壊れたときの直し方を先に確認する。花に褒められたわけではない。けれど、打ち合わせのあと、花が「今日は途中で逃げなかった」とだけ言ったので、賢人はその夜、修理台の前で少し長く笑ってしまった。

 その朝、黒瀬傘店に衣代が来た。

 いつものように背筋を伸ばし、手には分厚いファイル、肩には布見本の入った大きな袋をかけている。店の入り口で足を止めると、彼女は店内を見回し、開口一番、こう言った。

 「賢人くん。九月の雨は、写真にするとたいへんよろしいわ」

 賢人は、骨の曲がった傘を手にしたまま固まった。

 「おはようございます。何の話から始まってるんですか」

 「衣裳室の新しい撮影見本。雨の日の商店街で、白い衣装と黒い傘を合わせるの。名前はもう決めたわ。『あなたの花嫁』」

 賢人は、手元の傘を取り落としかけた。

 店の奥で、祖父の工具箱がかすかに鳴った。何もしていないのに、叱られた気がした。

 「……誰の」

 「店の見本よ」

 衣代は少しも動じない。

 「雨の日でも写真を撮れる、じゃなくて、雨の日だから残せる写真。黒い傘の内側に水滴が光るでしょう。白い衣装に、あの黒がよく合うの。傘を商品として見せるのではなく、その人の節目に持つ道具として見せるの」

 そこまで聞いて、賢人はようやく息を吐いた。

 衣代は、ただ華やかなものが好きなだけの人ではない。成人式の振袖を選ぶ子には、写真に残る色だけでなく、十年後に見返したときの顔まで考えている。七五三の小さな袴を整えるときは、本人が苦しくないよう帯の締め方を変える。卒業式の袴には、歩く距離を聞く。

 誰かがその日に何を身につけ、何を手に持つか。

 衣代は、そこにずっと耳を澄ませてきた人だった。

 「それでね」

 衣代は、布袋から白いレースの一部を取り出した。

 「見本役を、花ちゃんにお願いしたいの」

 賢人は、今度こそ傘を落とした。

 床に当たった傘の石突きが、乾いた音を立てる。

 衣代は、にこりと笑った。

 「落ち着きなさい。非番の日よ。消防署の広報写真は作業服で別に撮る。白い衣装の写真は、うちの衣裳室の見本。仕事と店の線引きは、花ちゃん本人にも、消防署にも確認するわ。晃煕さんにも見てもらった」

 「そこまで済んでるんですか」

 「済ませてから言うほうが、賢人くんは逃げないでしょう」

 「逃げませんよ」

 「昔は逃げた」

 衣代は、やさしい声でそれだけ言った。

 賢人は反論できず、床に落ちた傘を拾った。

 昔の話を、町の人たちは覚えている。十年前の花火の日、賢人が何も言えずに町を出たことを、誰も大声では責めない。けれど、商店街の古い店は、雨染みのように過去を壁に残す。見えないふりをしても、湿った日には浮いてくる。

 「花は、引き受けるって言ったんですか」

 「渋ったわ」

 衣代は即答した。

 「三回渋った。四回目に、仕事の線引きを確認してからなら、と言った。五回目に、白い衣装は似合わないと言った。六回目に、採寸だけならと座った。そこからは早かった」

 「結局、衣代さんが押し切ったんですね」

 「押し切ってないわ。背中の位置を整えただけ」

 賢人が口を開きかけたところへ、花が店の前に現れた。

 私服だった。

 淡い灰色のシャツに、濃紺のパンツ。髪はいつもより少しだけ柔らかく結ばれている。消防署の制服でも、訓練の装備でもない花を見るたび、賢人はまだ一瞬、言葉の置き場所に困る。

 花は店へ入るなり、床の傘と賢人の顔を交互に見た。

 「何か壊した?」

 「壊してない。落としただけ」

 「それを、世間では壊す前段階と言う」

 衣代が手を叩いた。

 「はい、朝から夫婦漫才を始めない」

 「夫婦ではありません」

 花の声が低くなった。

 賢人も同時に言う。

 「漫才でもありません」

 二人の声が重なり、店の外から杏侑子の笑い声がした。

 どうやら、もう来ていたらしい。杏侑子は店先の柱の影から顔を出し、首から古いカメラを下げていた。

 「今の、撮りたかった」

 「撮らないで」

 花が即座に言う。

 「大丈夫。撮ってない。まだレンズキャップついてた」

 「それはそれで心配です」

 賢人が言うと、杏侑子は真顔でカメラを見下ろした。

 「本当だ。黒い傘以前に、黒い画面しか撮れないところだった」

 衣代はため息をつき、花の肩を軽く押した。

 「採寸の仕上げをするわよ。賢人くんは傘を二本選んで。見本用に、内側の水滴がいちばんきれいに残るものと、持ち手の傷が少ないもの」

 「新品じゃなくていいんですか」

 「新品も撮る。でも、私は少し使ったものが好き。道具は、誰かの手に馴染んでから顔が出るから」

 花が、その言葉に少しだけ目を伏せた。

 賢人は、作業台の奥に立てかけてあった黒い傘を一本ずつ開いた。内側の細い線を確かめ、骨のしなりを指で追う。あの日の豪雨で使ったもののうち、一本だけ、光の出方がやわらかい傘があった。反射材の角度がほんの少し違う。歩道橋へ向けたとき、花の声の先に光が流れた一本だった。

 賢人はそれを選んだ。

 もう一本は、祖父の未完成品を直した黒い傘にした。正式な試験導入には使わなかった。安全紐も今の形ではない。けれど、内側に縫い込まれた古い光る糸は、灯町の雨を長く待っていたように見える。

 「それも撮るの?」

 花が聞いた。

 「店の見本には使わないかもしれない。でも、置いておきたい」

 賢人が答えると、花は少しだけ頷いた。

 「おじいさん、喜ぶね」

 「どうかな。『縫い目が曲がってる』って言いそう」

 「言いそう」

 二人は、同じ顔で笑った。

 午後、撮影は衣代の店の前から始まった。

 「きぬよ衣裳室」の古い看板は、白い布で軽く拭かれ、入り口の横には、黒い傘が三本、花瓶のように立てられていた。アーケードの天井からは、朝の小雨がまだぽたりぽたりと落ちている。灯町の商店街は、晴れの日には少し古びて見える。けれど雨の日には、看板の文字も、石畳の欠けも、店先の明かりも、全部が濡れた色を帯びる。

 花は、店の奥からなかなか出てこなかった。

 賢人は外で、傘を握ったまま立っていた。杏侑子はカメラのレンズキャップを何度も確認し、尚は手ぬぐいを三枚持ってきた。叶一は「持ち手が濡れていると滑る」と言いながら、布で傘の柄を拭いている。海太は勤務明けらしく、腕を組んで壁際に立ち、目だけで周囲の動線を確認していた。晃煕は役場の記録用に来たと言いながら、なぜかネクタイを整えている。

 「晃煕さん、今日は役場資料じゃなくて衣裳室の見本ですよ」

 杏侑子が言うと、晃煕は丁寧に頷いた。

 「承知しています。ただ、雨の日の商店街を使った撮影が、今後の歩行動線の確認にも役立つ可能性があります」

 「仕事に逃げてる」

 尚が小声で言った。

 「賢人と同じ種類だわ」

 「俺を巻き込まないでください」

 賢人が言うと、尚はもう泣きそうな顔で笑った。

 「巻き込むわよ。今日はみんなで巻き込まれる日よ」

 そのとき、衣代の店の奥の暖簾が揺れた。

 白い衣装の裾が、先に見えた。

 雨の日の明かりは弱い。アーケードの薄い光と、店内の暖色の灯りが重なって、白は真っ白ではなく、少しだけ生成りに見えた。花は、いつものように背筋を伸ばしていた。けれど、肩は硬い。手は、体の横で少し迷っている。仕事の現場で人を導くときの花なら、こんな迷い方はしない。

 衣代が後ろから小さく言う。

 「足元、いつもより半歩小さく」

 花は頷き、店先へ出た。

 賢人は、何も言えなかった。

 黒い傘の骨なら、どこが先に曲がったか分かる。濡れた布の張りなら、指で触れれば直し方を思いつく。けれど、白い衣装を着た花が雨の匂いの中に立つ姿を前にすると、言葉の骨が全部外れたみたいになった。

 尚が泣いた。

 「早い」

 海太が言った。

 「まだ何も始まっていない」

 「始まる前から泣く日もあるのよ」

 尚は手ぬぐいで目元を押さえる。

 杏侑子は拍手した。レンズキャップを外すのを忘れ、叶一に無言で指摘されて慌てて外した。

 晃煕は一枚撮ろうとして、衣代に止められた。

 「役場資料じゃないって言ったでしょう」

 「失礼しました」

 花は、顔を赤くして賢人のほうを見た。

 「何か言って」

 その声は、少し低い。照れを隠すときの声だった。

 賢人は、黒い傘を握りしめた。

 「……似合う」

 花の眉が少し上がる。

 「十年前よりは早い」

 「かなり早くなった」

 「でも、もう一言くらい言えるでしょ」

 周囲の視線が一斉に賢人へ向いた。

 賢人は咳払いをした。店の前に残っていた雨水が、靴の横で小さく揺れる。衣代が満足そうに頷き、尚が涙をこらえ、杏侑子がカメラを構え直す。

 「きれいだ」

 賢人は言った。

 言ったあとで、自分の耳まで熱くなるのが分かった。

 花は、一瞬だけ目を伏せた。

 それから、黒い傘のほうへ手を伸ばした。

 「傘、貸して」

 賢人は、歩道橋の夜に使った一本を渡した。

 花が開くと、黒い布の内側に残っていた小さな水滴が揺れた。アーケードの端から入る光が、その粒に触れ、淡い線を浮かべる。豪雨の夜ほど強くはない。人の流れを導くための光ではなく、すぐそばの顔を照らすほどの、控えめな明るさだった。

 衣代は、花の立ち位置を整えた。

 「傘は少しだけ賢人くん側へ。そう、内側の線が顔にかかりすぎないように。花ちゃん、顎を引いて。海太さん、そこに立つと避難経路みたいになるから一歩下がって」

 海太は黙って下がった。

 「叶一さん、持ち手の角度を気にしない」

 「気になる」

 「あとで見せるから、今は見ない」

 叶一は不満そうに目を細めたが、部品箱を抱え直して黙った。

 商店街の人たちが、少しずつ集まってきた。豆腐屋の夫婦、文具店の店主、団地の坂で黒い傘を使った高齢の女性、夏祭りの夜に泣いていた子どもと母親。誰も大声を出さない。ただ、衣代の店の前で白い衣装と黒い傘を見て、静かに立ち止まる。

 花は、最初こそ肩に力を入れていた。けれど、子どもが小さく手を振ると、いつものようにしゃがみかけ、衣代に「あ、裾」と止められた。

 その様子に笑いが起きる。

 花も笑った。

 その瞬間、杏侑子のカメラが音を立てた。

 「撮れた。今の、たぶん撮れた。レンズキャップない。たぶん」

 「たぶんを減らしましょう」

 晃煕が言う。

 「はい」

 杏侑子は珍しく素直に返事をした。

 撮影は、衣代の店先から、アーケードの中央、尚の店の前、川へ向かう細道へと移った。賢人は、予備の傘を持ってついていく。花の白い衣装が濡れないように、衣代が何度も裾を持ち上げた。尚は移動のたびに泣き、海太は足元の段差を確認し、叶一は傘の骨に雨粒がどう残るかを見ていた。

 古い映画館跡の前で、花は少し立ち止まった。

 そこは、第七話の町歩きで、賢人と花が黒い傘の閉じる場所を確認したところだった。看板はもう外され、ガラス戸には曇った商店街の景色が映っている。

 「ここ、覚えてる?」

 花が聞いた。

 「覚えてる。杏侑子さんが『理想のデートコース』って言い張って、俺たちがずっと仕事だって言い張った日」

 「仕事だったよ」

 「仕事だった」

 「でも、傘を傾ける角度は、少し優しかった」

 賢人は、予備の傘を持つ手に力を入れた。

 「ばれてた?」

 「濡れなかったから」

 花は、黒い傘の内側を見上げた。

 「現場では、傘ひとつで守れることなんて限られてる。でも、守ろうとして角度を変える人がいるだけで、少し歩きやすくなるんだと思った」

 賢人は返事を探した。

 雨が、アーケードの外で細く降り始めている。九月の雨は、夏の豪雨とは違い、音がやわらかい。けれど足元を濡らし、古い道の匂いを立ち上げる力は同じだった。

 「花がいたから、作れた」

 賢人は言った。

 「私だけじゃないよ」

 「分かってる。花だけじゃない。叶一さんも、海太さんも、晃煕さんも、杏侑子さんも、衣代さんも、尚さんも、町の人もいる。でも、最初に、俺が逃げないように見てくれたのは花だった」

 花は、少し黙った。

 衣代が遠くから「二人とも、顔が本気になりすぎ」と言ったが、賢人はそちらを見なかった。

 十年前、駅のホームで何も言わずに背を向けた。

 言えなかったのではなく、言って返事を聞くのが怖かった。戻ると約束できない自分を見られたくなかった。花に残ってほしいと思いながら、自分は町を出た。そのずるさを、ずっと「若かった」で包んでいた。

 今なら、包まずに持てる。

 恥ずかしい。重い。格好は悪い。

 けれど、それを持ったままでも、人は進める。

 「花」

 賢人は呼んだ。

 花が黒い傘を少し下げる。

 「次の花火は、試験でも仕事でもなく、ちゃんと隣で見たい」

 周囲の気配が止まった。

 杏侑子のカメラも、尚のすすり泣きも、叶一が持ち手を見る目も、海太の咳払いも、晃煕の丁寧な沈黙も、一瞬だけ遠くなった。

 花は、賢人を見た。

 十年前の駅のホームで、答えを待っていた目ではなかった。夏祭りの豪雨の中で、人の列を前へ進ませた目でもなかった。今の花は、白い衣装で黒い傘を持ち、雨の匂いの中に立っている。ただひとりの人として、賢人の言葉を受け止めていた。

 「十年前よりは、だいぶ進んだね」

 花は言った。

 賢人は頷く。

 「遅くてごめん」

 「遅いのは知ってる」

 「今度は、返事を置いていかない」

 花の口元が、少し緩んだ。

 「じゃあ、聞くけど」

 「うん」

 「次の花火まで、黒瀬傘店は朝から開いてる?」

 賢人は、一瞬だけ答えに詰まった。

 質問が甘くない。

 花らしいと思った。恋の返事だけを求めるのではなく、その返事の翌日に何をするのかを聞いてくる。

 賢人は、胸の奥で自己暗示を探しかけた。

 いける、まだいける。

 そう唱える癖は、まだ完全には消えていない。けれど、今日は口に出さなかった。

 「開ける」

 賢人は言った。

 「寝坊したら?」

 「尚さんが泣く前に起きる」

 「それは難しい」

 尚が泣きながら言った。

 「じゃあ、泣かれても開ける」

 賢人が言うと、周りに笑いが広がった。

 花も笑った。

 それから、黒い傘を賢人のほうへ傾けた。

 内側の細い線が、二人の間に淡く浮かぶ。水滴が一粒、傘の布を伝い、光を小さく引き伸ばした。

 「今度は、返事を置いていかないで」

 花が言った。

 「うん」

 「それから、私の仕事を勝手に自分の返事にしないで」

 「うん」

 「黒い傘の点検票、明日までに出して」

 「……それも今言う?」

 「今言う。忘れるから」

 賢人は笑った。

 「出す」

 花は、ようやく頷いた。

 「じゃあ、次の花火は隣で」

 その返事に、尚が声を上げて泣いた。

 杏侑子は拍手しながら写真を撮り、今度はきちんと撮れているか不安になって画面を確認した。衣代は満足そうに腕を組み、海太は「点検票は本当に出せ」とだけ言い、叶一は「持ち手の角度が少し下がった」と呟き、晃煕は「私的な場面ですので記録は控えます」と言って目を逸らした。

 商店街の人たちは笑った。

 雨は、少しずつ弱くなっていた。

 撮影の最後は、歩道橋の下で行われた。

 夏祭りの夜、人の足が止まりかけた場所だ。今は水も引き、階段の端に秋の落ち葉が一枚張りついている。空は雲の切れ間から夕方の光を落とし、濡れた手すりが淡く光っていた。

 衣代は、花を歩道橋の手前に立たせた。

 「ここで、黒い傘を少し上げて。賢人くんは、隣に立って。花嫁見本なんだから、主役は花ちゃん。でも、傘職人も少し写ったほうがいいわ」

 「俺も写るんですか」

 「当然。黒い傘を作った人の手が入らないと、ただのきれいな写真になるでしょう」

 「ただのきれいな写真でいいのでは」

 「よくない。これは、雨の日に誰かが前へ進むための写真よ」

 衣代の声が、いつになくまっすぐだった。

 賢人は何も言えなくなり、花の隣に立った。

 黒い傘は、二人の上に開いている。白い衣装の花と、いつもの作業着に近いシャツの賢人。釣り合っているとは言いがたい。けれど花は、傘の柄を少し賢人側へ寄せた。

 「濡れる」

 「もう雨上がるよ」

 「上がるまで」

 賢人は、花の手元を見た。

 黒い傘の持ち手には、叶一が削った溝がある。濡れた手でも滑らないように、何度も試した形だ。そこに花の指がかかっている。そのすぐ下に、賢人の指が触れた。

 重なる。

 傘、手、視線、過去と現在。

 夏祭りの豪雨の夜には、人の流れを前へ送るために重なったものが、今は二人の小さな未来を覆っている。

 杏侑子がシャッターを切った。

 今度は、何も騒がなかった。

 撮れたのだと、賢人にも分かった。

 雨はやんだ。

 商店街へ戻るころには、アーケードの向こうに薄い夕焼けが出ていた。黒い傘の内側には、水滴がまだ残っている。夕方の光がそこへ入り、小さな虹のように揺れた。豪雨の夜に見た、歩道橋へ伸びる光ほど大きくはない。けれど、賢人にはそれで十分だった。

 大きな光は、必要な夜に出ればいい。

 普段は、誰かの手の中で静かに畳まれていればいい。

 衣代の店の前へ戻ると、白い衣装を脱ぐ前に、花はもう一度だけ黒い傘を見上げた。

 「この傘、店の見本に使うんだよね」

 「使うわ」

 衣代が答える。

 「でも、花ちゃんが嫌なら、顔の分かる写真は奥の見本帳だけにする。表の看板には、後ろ姿でもいい」

 花は少し考えた。

 「後ろ姿がいい。黒い傘と、歩いてるところ」

 衣代は、嬉しそうに頷いた。

 「分かった。歩いてるところにしましょう」

 賢人は、その言葉に胸の奥が温かくなるのを感じた。

 止まった写真ではなく、歩いている写真。

 花らしいと思った。

 撮影が終わると、町の人たちはそれぞれの店へ戻っていった。尚は夜の仕込みへ戻りながら、まだ少し泣いていた。杏侑子は撮った写真を確認しながら、三枚に一枚は手ぶれしていると落ち込んでいた。叶一は、持ち手の角度を改めて測らせろと言い、海太は明日の訓練時間を花に確認し、晃煕は「歩道橋下の段差、やはり補修依頼を出します」と呟いて役場へ戻った。

 灯町の一日は、急に物語の終わりらしく静かにはならない。

 豆腐屋は閉店前に木綿豆腐を売り切りたいし、文具店は濡れた段ボールを奥へ運ぶし、真鍋製作所ではまだ機械の音がする。黒瀬傘店にも、修理待ちの傘がある。点検票もある。明日の朝も、シャッターを上げなければならない。

 花は白い衣装から私服へ戻り、髪を結び直して店の外へ出てきた。

 賢人は、黒い傘を一本持って待っていた。

 「送る」

 「消防署まで?」

 「途中まで。店も閉めないといけないから」

 「閉め忘れたら、尚さんが泣く」

 「それは避けたい」

 二人は笑い、商店街を歩き出した。

 雨上がりの石畳は、夕方の光を細く返している。アーケードの先では、空が少しだけ明るい。どこかで揚げ物の匂いがし、尚の店からは出汁の香りが流れてきた。衣代の店の奥では、白い衣装が丁寧にハンガーへ戻されている。

 賢人は黒い傘を開いた。

 もう雨はほとんど降っていない。けれど、アーケードの端から水が落ちる。花は何も言わず、その傘の下へ入った。

 昔なら、賢人は何か気の利いた言葉を探して、結局黙ったかもしれない。

 今も、気の利いた言葉は出てこない。

 けれど、黙っているだけではなかった。

 「花」

 「うん」

 「明日、点検票を出す」

 「うん」

 「店も開ける」

 「うん」

 「来年の花火、隣で見る」

 花は、少しだけ歩く速度を落とした。

 「うん」

 「そのあとも、たぶん、傘を直す」

 「たぶんじゃなくて」

 「直す」

 花は、満足そうに頷いた。

 「よし」

 賢人は笑った。

 黒い傘の内側で、水滴が揺れる。淡い線が、二人の足元へ落ちる。進む方向を示すには小さすぎる光だ。けれど、隣の人の歩幅を見るにはちょうどいい。

 黒瀬傘店の前を通り過ぎるとき、賢人は一度だけ振り返った。

 シャッターはまだ上がっている。作業台の奥には、祖父の工具がある。修理待ちの傘があり、明日の伝票があり、開きっぱなしの確認表がある。以前なら、それらは賢人を責めるものに見えた。今は違う。

 戻る場所ではなく、続ける場所に見えた。

 「閉めてから行けば?」

 花が言う。

 「うん。閉める」

 賢人は店へ戻り、灯りを一つずつ消した。作業台だけは最後に見た。祖父の工具箱の上に、古い未完成の黒い傘をそっと置く。今日の撮影で使った傘だった。

 「見た?」

 賢人は小さく言った。

 返事はない。

 けれど、工具箱の金具が夕方の光を受け、ほんの少しだけ光った。

 賢人はシャッターを下ろした。

 半分ではない。最後まで。

 そして鍵をかけ、花の待つ傘の下へ戻った。

 花は、黒い傘を少しだけ賢人のほうへ傾けていた。

 「遅い」

 「ちゃんと閉めてた」

 「ならよし」

 二人は歩き出した。

 灯町の商店街は、雨のあとでも騒がしい。尚の泣き声が少し聞こえ、杏侑子の「写真、半分手ぶれだけど半分最高」という声が聞こえ、衣代が誰かに「後ろ姿の看板にするの」と説明している声がした。川のほうからは、涼しい風が流れてくる。

 花がふと、傘の内側を見上げた。

 「黒い傘って、外から見ると地味だね」

 「中から見ると、少し光る」

 「賢人みたい」

 「それ、褒めてる?」

 「さあ」

 花は笑った。

 賢人も笑った。

 雨上がりの商店街を、一つの傘で歩いていく。

 誰かに守られるだけでもない。誰かを守るだけでもない。隣にいる人と同じ速さで、濡れた道を選びながら進む。

 黒い傘の内側に残った小さな水滴が、夕方の光で淡く光った。

 その光は、次の角を曲がるまで、二人の足元を静かに照らしていた。


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