第18話 あなたの花嫁
九月下旬の灯町は、雨の匂いをまだ持っていた。
八月末の豪雨から三週間ほど経っても、川沿いの欄干には泥の筋が細く残り、歩道橋の手すりには、町の人たちが貼った注意書きの跡が白く浮いていた。灯町役場は、夏祭りの夜に人が止まりかけた場所を一つずつ確認し、消防署は、黒い傘を使った誘導の記録を訓練資料へまとめていた。商店街では、杏侑子が「黒い傘を開くときは、周りを見てから」という紙を作り、尚の店の暖簾の横にも、衣代の店の鏡の横にも、真鍋製作所の出入口にも貼った。
黒瀬傘店の朝は、前より早くなった。
賢人は、シャッターを最後まで上げてから、店先のたたきを雑巾で拭く。最初の一週間は、商店街の人たちが入れ替わり立ち替わり見に来た。二週間目になると、見張りの人数は少し減った。三週間目になると、尚だけが小料理屋の仕込み前に通りかかり、「今日は上がってる」と涙ぐむようになった。
「シャッターを上げるだけで泣かれると、商売がしづらいんですけど」
賢人が言うと、尚は玉ねぎの入った袋を抱えたまま目元を拭いた。
「いいのよ。人は成長を見ると泣くの。玉ねぎはまだ切ってないのに、もう目に来るわ」
「それ、俺のせいじゃなくて玉ねぎのせいでは」
「両方よ」
尚はそう言い切って、向かいの店へ歩いていった。
賢人は苦笑しながら、作業台へ戻った。
机の上には、修理待ちの傘と、黒い傘「ミチシルベ」の点検票が並んでいる。共同製造の話は、まだ決まっていない。クレスト安全との二度目の打ち合わせでは、叶一が部品の強度表を出し、晃煕が災害時の優先供給の確認を求め、花と海太が訓練以外で使う場合の注意点を並べた。賢人は、話の途中で焦って頷かないよう、左手の親指で作業台の傷を押さえていた。
以前なら、相手の勢いに合わせて笑い、あとで困っていた。
今は、分からないところはその場で聞く。決められないところは持ち帰る。安くなると言われても、壊れたときの直し方を先に確認する。花に褒められたわけではない。けれど、打ち合わせのあと、花が「今日は途中で逃げなかった」とだけ言ったので、賢人はその夜、修理台の前で少し長く笑ってしまった。
その朝、黒瀬傘店に衣代が来た。
いつものように背筋を伸ばし、手には分厚いファイル、肩には布見本の入った大きな袋をかけている。店の入り口で足を止めると、彼女は店内を見回し、開口一番、こう言った。
「賢人くん。九月の雨は、写真にするとたいへんよろしいわ」
賢人は、骨の曲がった傘を手にしたまま固まった。
「おはようございます。何の話から始まってるんですか」
「衣裳室の新しい撮影見本。雨の日の商店街で、白い衣装と黒い傘を合わせるの。名前はもう決めたわ。『あなたの花嫁』」
賢人は、手元の傘を取り落としかけた。
店の奥で、祖父の工具箱がかすかに鳴った。何もしていないのに、叱られた気がした。
「……誰の」
「店の見本よ」
衣代は少しも動じない。
「雨の日でも写真を撮れる、じゃなくて、雨の日だから残せる写真。黒い傘の内側に水滴が光るでしょう。白い衣装に、あの黒がよく合うの。傘を商品として見せるのではなく、その人の節目に持つ道具として見せるの」
そこまで聞いて、賢人はようやく息を吐いた。
衣代は、ただ華やかなものが好きなだけの人ではない。成人式の振袖を選ぶ子には、写真に残る色だけでなく、十年後に見返したときの顔まで考えている。七五三の小さな袴を整えるときは、本人が苦しくないよう帯の締め方を変える。卒業式の袴には、歩く距離を聞く。
誰かがその日に何を身につけ、何を手に持つか。
衣代は、そこにずっと耳を澄ませてきた人だった。
「それでね」
衣代は、布袋から白いレースの一部を取り出した。
「見本役を、花ちゃんにお願いしたいの」
賢人は、今度こそ傘を落とした。
床に当たった傘の石突きが、乾いた音を立てる。
衣代は、にこりと笑った。
「落ち着きなさい。非番の日よ。消防署の広報写真は作業服で別に撮る。白い衣装の写真は、うちの衣裳室の見本。仕事と店の線引きは、花ちゃん本人にも、消防署にも確認するわ。晃煕さんにも見てもらった」
「そこまで済んでるんですか」
「済ませてから言うほうが、賢人くんは逃げないでしょう」
「逃げませんよ」
「昔は逃げた」
衣代は、やさしい声でそれだけ言った。
賢人は反論できず、床に落ちた傘を拾った。
昔の話を、町の人たちは覚えている。十年前の花火の日、賢人が何も言えずに町を出たことを、誰も大声では責めない。けれど、商店街の古い店は、雨染みのように過去を壁に残す。見えないふりをしても、湿った日には浮いてくる。
「花は、引き受けるって言ったんですか」
「渋ったわ」
衣代は即答した。
「三回渋った。四回目に、仕事の線引きを確認してからなら、と言った。五回目に、白い衣装は似合わないと言った。六回目に、採寸だけならと座った。そこからは早かった」
「結局、衣代さんが押し切ったんですね」
「押し切ってないわ。背中の位置を整えただけ」
賢人が口を開きかけたところへ、花が店の前に現れた。
私服だった。
淡い灰色のシャツに、濃紺のパンツ。髪はいつもより少しだけ柔らかく結ばれている。消防署の制服でも、訓練の装備でもない花を見るたび、賢人はまだ一瞬、言葉の置き場所に困る。
花は店へ入るなり、床の傘と賢人の顔を交互に見た。
「何か壊した?」
「壊してない。落としただけ」
「それを、世間では壊す前段階と言う」
衣代が手を叩いた。
「はい、朝から夫婦漫才を始めない」
「夫婦ではありません」
花の声が低くなった。
賢人も同時に言う。
「漫才でもありません」
二人の声が重なり、店の外から杏侑子の笑い声がした。
どうやら、もう来ていたらしい。杏侑子は店先の柱の影から顔を出し、首から古いカメラを下げていた。
「今の、撮りたかった」
「撮らないで」
花が即座に言う。
「大丈夫。撮ってない。まだレンズキャップついてた」
「それはそれで心配です」
賢人が言うと、杏侑子は真顔でカメラを見下ろした。
「本当だ。黒い傘以前に、黒い画面しか撮れないところだった」
衣代はため息をつき、花の肩を軽く押した。
「採寸の仕上げをするわよ。賢人くんは傘を二本選んで。見本用に、内側の水滴がいちばんきれいに残るものと、持ち手の傷が少ないもの」
「新品じゃなくていいんですか」
「新品も撮る。でも、私は少し使ったものが好き。道具は、誰かの手に馴染んでから顔が出るから」
花が、その言葉に少しだけ目を伏せた。
賢人は、作業台の奥に立てかけてあった黒い傘を一本ずつ開いた。内側の細い線を確かめ、骨のしなりを指で追う。あの日の豪雨で使ったもののうち、一本だけ、光の出方がやわらかい傘があった。反射材の角度がほんの少し違う。歩道橋へ向けたとき、花の声の先に光が流れた一本だった。
賢人はそれを選んだ。
もう一本は、祖父の未完成品を直した黒い傘にした。正式な試験導入には使わなかった。安全紐も今の形ではない。けれど、内側に縫い込まれた古い光る糸は、灯町の雨を長く待っていたように見える。
「それも撮るの?」
花が聞いた。
「店の見本には使わないかもしれない。でも、置いておきたい」
賢人が答えると、花は少しだけ頷いた。
「おじいさん、喜ぶね」
「どうかな。『縫い目が曲がってる』って言いそう」
「言いそう」
二人は、同じ顔で笑った。
午後、撮影は衣代の店の前から始まった。
「きぬよ衣裳室」の古い看板は、白い布で軽く拭かれ、入り口の横には、黒い傘が三本、花瓶のように立てられていた。アーケードの天井からは、朝の小雨がまだぽたりぽたりと落ちている。灯町の商店街は、晴れの日には少し古びて見える。けれど雨の日には、看板の文字も、石畳の欠けも、店先の明かりも、全部が濡れた色を帯びる。
花は、店の奥からなかなか出てこなかった。
賢人は外で、傘を握ったまま立っていた。杏侑子はカメラのレンズキャップを何度も確認し、尚は手ぬぐいを三枚持ってきた。叶一は「持ち手が濡れていると滑る」と言いながら、布で傘の柄を拭いている。海太は勤務明けらしく、腕を組んで壁際に立ち、目だけで周囲の動線を確認していた。晃煕は役場の記録用に来たと言いながら、なぜかネクタイを整えている。
「晃煕さん、今日は役場資料じゃなくて衣裳室の見本ですよ」
杏侑子が言うと、晃煕は丁寧に頷いた。
「承知しています。ただ、雨の日の商店街を使った撮影が、今後の歩行動線の確認にも役立つ可能性があります」
「仕事に逃げてる」
尚が小声で言った。
「賢人と同じ種類だわ」
「俺を巻き込まないでください」
賢人が言うと、尚はもう泣きそうな顔で笑った。
「巻き込むわよ。今日はみんなで巻き込まれる日よ」
そのとき、衣代の店の奥の暖簾が揺れた。
白い衣装の裾が、先に見えた。
雨の日の明かりは弱い。アーケードの薄い光と、店内の暖色の灯りが重なって、白は真っ白ではなく、少しだけ生成りに見えた。花は、いつものように背筋を伸ばしていた。けれど、肩は硬い。手は、体の横で少し迷っている。仕事の現場で人を導くときの花なら、こんな迷い方はしない。
衣代が後ろから小さく言う。
「足元、いつもより半歩小さく」
花は頷き、店先へ出た。
賢人は、何も言えなかった。
黒い傘の骨なら、どこが先に曲がったか分かる。濡れた布の張りなら、指で触れれば直し方を思いつく。けれど、白い衣装を着た花が雨の匂いの中に立つ姿を前にすると、言葉の骨が全部外れたみたいになった。
尚が泣いた。
「早い」
海太が言った。
「まだ何も始まっていない」
「始まる前から泣く日もあるのよ」
尚は手ぬぐいで目元を押さえる。
杏侑子は拍手した。レンズキャップを外すのを忘れ、叶一に無言で指摘されて慌てて外した。
晃煕は一枚撮ろうとして、衣代に止められた。
「役場資料じゃないって言ったでしょう」
「失礼しました」
花は、顔を赤くして賢人のほうを見た。
「何か言って」
その声は、少し低い。照れを隠すときの声だった。
賢人は、黒い傘を握りしめた。
「……似合う」
花の眉が少し上がる。
「十年前よりは早い」
「かなり早くなった」
「でも、もう一言くらい言えるでしょ」
周囲の視線が一斉に賢人へ向いた。
賢人は咳払いをした。店の前に残っていた雨水が、靴の横で小さく揺れる。衣代が満足そうに頷き、尚が涙をこらえ、杏侑子がカメラを構え直す。
「きれいだ」
賢人は言った。
言ったあとで、自分の耳まで熱くなるのが分かった。
花は、一瞬だけ目を伏せた。
それから、黒い傘のほうへ手を伸ばした。
「傘、貸して」
賢人は、歩道橋の夜に使った一本を渡した。
花が開くと、黒い布の内側に残っていた小さな水滴が揺れた。アーケードの端から入る光が、その粒に触れ、淡い線を浮かべる。豪雨の夜ほど強くはない。人の流れを導くための光ではなく、すぐそばの顔を照らすほどの、控えめな明るさだった。
衣代は、花の立ち位置を整えた。
「傘は少しだけ賢人くん側へ。そう、内側の線が顔にかかりすぎないように。花ちゃん、顎を引いて。海太さん、そこに立つと避難経路みたいになるから一歩下がって」
海太は黙って下がった。
「叶一さん、持ち手の角度を気にしない」
「気になる」
「あとで見せるから、今は見ない」
叶一は不満そうに目を細めたが、部品箱を抱え直して黙った。
商店街の人たちが、少しずつ集まってきた。豆腐屋の夫婦、文具店の店主、団地の坂で黒い傘を使った高齢の女性、夏祭りの夜に泣いていた子どもと母親。誰も大声を出さない。ただ、衣代の店の前で白い衣装と黒い傘を見て、静かに立ち止まる。
花は、最初こそ肩に力を入れていた。けれど、子どもが小さく手を振ると、いつものようにしゃがみかけ、衣代に「あ、裾」と止められた。
その様子に笑いが起きる。
花も笑った。
その瞬間、杏侑子のカメラが音を立てた。
「撮れた。今の、たぶん撮れた。レンズキャップない。たぶん」
「たぶんを減らしましょう」
晃煕が言う。
「はい」
杏侑子は珍しく素直に返事をした。
撮影は、衣代の店先から、アーケードの中央、尚の店の前、川へ向かう細道へと移った。賢人は、予備の傘を持ってついていく。花の白い衣装が濡れないように、衣代が何度も裾を持ち上げた。尚は移動のたびに泣き、海太は足元の段差を確認し、叶一は傘の骨に雨粒がどう残るかを見ていた。
古い映画館跡の前で、花は少し立ち止まった。
そこは、第七話の町歩きで、賢人と花が黒い傘の閉じる場所を確認したところだった。看板はもう外され、ガラス戸には曇った商店街の景色が映っている。
「ここ、覚えてる?」
花が聞いた。
「覚えてる。杏侑子さんが『理想のデートコース』って言い張って、俺たちがずっと仕事だって言い張った日」
「仕事だったよ」
「仕事だった」
「でも、傘を傾ける角度は、少し優しかった」
賢人は、予備の傘を持つ手に力を入れた。
「ばれてた?」
「濡れなかったから」
花は、黒い傘の内側を見上げた。
「現場では、傘ひとつで守れることなんて限られてる。でも、守ろうとして角度を変える人がいるだけで、少し歩きやすくなるんだと思った」
賢人は返事を探した。
雨が、アーケードの外で細く降り始めている。九月の雨は、夏の豪雨とは違い、音がやわらかい。けれど足元を濡らし、古い道の匂いを立ち上げる力は同じだった。
「花がいたから、作れた」
賢人は言った。
「私だけじゃないよ」
「分かってる。花だけじゃない。叶一さんも、海太さんも、晃煕さんも、杏侑子さんも、衣代さんも、尚さんも、町の人もいる。でも、最初に、俺が逃げないように見てくれたのは花だった」
花は、少し黙った。
衣代が遠くから「二人とも、顔が本気になりすぎ」と言ったが、賢人はそちらを見なかった。
十年前、駅のホームで何も言わずに背を向けた。
言えなかったのではなく、言って返事を聞くのが怖かった。戻ると約束できない自分を見られたくなかった。花に残ってほしいと思いながら、自分は町を出た。そのずるさを、ずっと「若かった」で包んでいた。
今なら、包まずに持てる。
恥ずかしい。重い。格好は悪い。
けれど、それを持ったままでも、人は進める。
「花」
賢人は呼んだ。
花が黒い傘を少し下げる。
「次の花火は、試験でも仕事でもなく、ちゃんと隣で見たい」
周囲の気配が止まった。
杏侑子のカメラも、尚のすすり泣きも、叶一が持ち手を見る目も、海太の咳払いも、晃煕の丁寧な沈黙も、一瞬だけ遠くなった。
花は、賢人を見た。
十年前の駅のホームで、答えを待っていた目ではなかった。夏祭りの豪雨の中で、人の列を前へ進ませた目でもなかった。今の花は、白い衣装で黒い傘を持ち、雨の匂いの中に立っている。ただひとりの人として、賢人の言葉を受け止めていた。
「十年前よりは、だいぶ進んだね」
花は言った。
賢人は頷く。
「遅くてごめん」
「遅いのは知ってる」
「今度は、返事を置いていかない」
花の口元が、少し緩んだ。
「じゃあ、聞くけど」
「うん」
「次の花火まで、黒瀬傘店は朝から開いてる?」
賢人は、一瞬だけ答えに詰まった。
質問が甘くない。
花らしいと思った。恋の返事だけを求めるのではなく、その返事の翌日に何をするのかを聞いてくる。
賢人は、胸の奥で自己暗示を探しかけた。
いける、まだいける。
そう唱える癖は、まだ完全には消えていない。けれど、今日は口に出さなかった。
「開ける」
賢人は言った。
「寝坊したら?」
「尚さんが泣く前に起きる」
「それは難しい」
尚が泣きながら言った。
「じゃあ、泣かれても開ける」
賢人が言うと、周りに笑いが広がった。
花も笑った。
それから、黒い傘を賢人のほうへ傾けた。
内側の細い線が、二人の間に淡く浮かぶ。水滴が一粒、傘の布を伝い、光を小さく引き伸ばした。
「今度は、返事を置いていかないで」
花が言った。
「うん」
「それから、私の仕事を勝手に自分の返事にしないで」
「うん」
「黒い傘の点検票、明日までに出して」
「……それも今言う?」
「今言う。忘れるから」
賢人は笑った。
「出す」
花は、ようやく頷いた。
「じゃあ、次の花火は隣で」
その返事に、尚が声を上げて泣いた。
杏侑子は拍手しながら写真を撮り、今度はきちんと撮れているか不安になって画面を確認した。衣代は満足そうに腕を組み、海太は「点検票は本当に出せ」とだけ言い、叶一は「持ち手の角度が少し下がった」と呟き、晃煕は「私的な場面ですので記録は控えます」と言って目を逸らした。
商店街の人たちは笑った。
雨は、少しずつ弱くなっていた。
撮影の最後は、歩道橋の下で行われた。
夏祭りの夜、人の足が止まりかけた場所だ。今は水も引き、階段の端に秋の落ち葉が一枚張りついている。空は雲の切れ間から夕方の光を落とし、濡れた手すりが淡く光っていた。
衣代は、花を歩道橋の手前に立たせた。
「ここで、黒い傘を少し上げて。賢人くんは、隣に立って。花嫁見本なんだから、主役は花ちゃん。でも、傘職人も少し写ったほうがいいわ」
「俺も写るんですか」
「当然。黒い傘を作った人の手が入らないと、ただのきれいな写真になるでしょう」
「ただのきれいな写真でいいのでは」
「よくない。これは、雨の日に誰かが前へ進むための写真よ」
衣代の声が、いつになくまっすぐだった。
賢人は何も言えなくなり、花の隣に立った。
黒い傘は、二人の上に開いている。白い衣装の花と、いつもの作業着に近いシャツの賢人。釣り合っているとは言いがたい。けれど花は、傘の柄を少し賢人側へ寄せた。
「濡れる」
「もう雨上がるよ」
「上がるまで」
賢人は、花の手元を見た。
黒い傘の持ち手には、叶一が削った溝がある。濡れた手でも滑らないように、何度も試した形だ。そこに花の指がかかっている。そのすぐ下に、賢人の指が触れた。
重なる。
傘、手、視線、過去と現在。
夏祭りの豪雨の夜には、人の流れを前へ送るために重なったものが、今は二人の小さな未来を覆っている。
杏侑子がシャッターを切った。
今度は、何も騒がなかった。
撮れたのだと、賢人にも分かった。
雨はやんだ。
商店街へ戻るころには、アーケードの向こうに薄い夕焼けが出ていた。黒い傘の内側には、水滴がまだ残っている。夕方の光がそこへ入り、小さな虹のように揺れた。豪雨の夜に見た、歩道橋へ伸びる光ほど大きくはない。けれど、賢人にはそれで十分だった。
大きな光は、必要な夜に出ればいい。
普段は、誰かの手の中で静かに畳まれていればいい。
衣代の店の前へ戻ると、白い衣装を脱ぐ前に、花はもう一度だけ黒い傘を見上げた。
「この傘、店の見本に使うんだよね」
「使うわ」
衣代が答える。
「でも、花ちゃんが嫌なら、顔の分かる写真は奥の見本帳だけにする。表の看板には、後ろ姿でもいい」
花は少し考えた。
「後ろ姿がいい。黒い傘と、歩いてるところ」
衣代は、嬉しそうに頷いた。
「分かった。歩いてるところにしましょう」
賢人は、その言葉に胸の奥が温かくなるのを感じた。
止まった写真ではなく、歩いている写真。
花らしいと思った。
撮影が終わると、町の人たちはそれぞれの店へ戻っていった。尚は夜の仕込みへ戻りながら、まだ少し泣いていた。杏侑子は撮った写真を確認しながら、三枚に一枚は手ぶれしていると落ち込んでいた。叶一は、持ち手の角度を改めて測らせろと言い、海太は明日の訓練時間を花に確認し、晃煕は「歩道橋下の段差、やはり補修依頼を出します」と呟いて役場へ戻った。
灯町の一日は、急に物語の終わりらしく静かにはならない。
豆腐屋は閉店前に木綿豆腐を売り切りたいし、文具店は濡れた段ボールを奥へ運ぶし、真鍋製作所ではまだ機械の音がする。黒瀬傘店にも、修理待ちの傘がある。点検票もある。明日の朝も、シャッターを上げなければならない。
花は白い衣装から私服へ戻り、髪を結び直して店の外へ出てきた。
賢人は、黒い傘を一本持って待っていた。
「送る」
「消防署まで?」
「途中まで。店も閉めないといけないから」
「閉め忘れたら、尚さんが泣く」
「それは避けたい」
二人は笑い、商店街を歩き出した。
雨上がりの石畳は、夕方の光を細く返している。アーケードの先では、空が少しだけ明るい。どこかで揚げ物の匂いがし、尚の店からは出汁の香りが流れてきた。衣代の店の奥では、白い衣装が丁寧にハンガーへ戻されている。
賢人は黒い傘を開いた。
もう雨はほとんど降っていない。けれど、アーケードの端から水が落ちる。花は何も言わず、その傘の下へ入った。
昔なら、賢人は何か気の利いた言葉を探して、結局黙ったかもしれない。
今も、気の利いた言葉は出てこない。
けれど、黙っているだけではなかった。
「花」
「うん」
「明日、点検票を出す」
「うん」
「店も開ける」
「うん」
「来年の花火、隣で見る」
花は、少しだけ歩く速度を落とした。
「うん」
「そのあとも、たぶん、傘を直す」
「たぶんじゃなくて」
「直す」
花は、満足そうに頷いた。
「よし」
賢人は笑った。
黒い傘の内側で、水滴が揺れる。淡い線が、二人の足元へ落ちる。進む方向を示すには小さすぎる光だ。けれど、隣の人の歩幅を見るにはちょうどいい。
黒瀬傘店の前を通り過ぎるとき、賢人は一度だけ振り返った。
シャッターはまだ上がっている。作業台の奥には、祖父の工具がある。修理待ちの傘があり、明日の伝票があり、開きっぱなしの確認表がある。以前なら、それらは賢人を責めるものに見えた。今は違う。
戻る場所ではなく、続ける場所に見えた。
「閉めてから行けば?」
花が言う。
「うん。閉める」
賢人は店へ戻り、灯りを一つずつ消した。作業台だけは最後に見た。祖父の工具箱の上に、古い未完成の黒い傘をそっと置く。今日の撮影で使った傘だった。
「見た?」
賢人は小さく言った。
返事はない。
けれど、工具箱の金具が夕方の光を受け、ほんの少しだけ光った。
賢人はシャッターを下ろした。
半分ではない。最後まで。
そして鍵をかけ、花の待つ傘の下へ戻った。
花は、黒い傘を少しだけ賢人のほうへ傾けていた。
「遅い」
「ちゃんと閉めてた」
「ならよし」
二人は歩き出した。
灯町の商店街は、雨のあとでも騒がしい。尚の泣き声が少し聞こえ、杏侑子の「写真、半分手ぶれだけど半分最高」という声が聞こえ、衣代が誰かに「後ろ姿の看板にするの」と説明している声がした。川のほうからは、涼しい風が流れてくる。
花がふと、傘の内側を見上げた。
「黒い傘って、外から見ると地味だね」
「中から見ると、少し光る」
「賢人みたい」
「それ、褒めてる?」
「さあ」
花は笑った。
賢人も笑った。
雨上がりの商店街を、一つの傘で歩いていく。
誰かに守られるだけでもない。誰かを守るだけでもない。隣にいる人と同じ速さで、濡れた道を選びながら進む。
黒い傘の内側に残った小さな水滴が、夕方の光で淡く光った。
その光は、次の角を曲がるまで、二人の足元を静かに照らしていた。




