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黒い傘は、花嫁の手をひく。  作者: 乾為天女


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第16話 豪雨の夏祭り

 朝の灯町は、嘘みたいに晴れていた。

 黒瀬傘店の軒先には、前夜に干した黒い傘が十二本、きちんと並んでいた。布の外側は、どれも何の変哲もない黒だった。喪服にも、通勤にも、面接にも、夕立の帰り道にも紛れ込む色。けれど賢人が一本ずつ開くと、内側には細い線がひそかに光を抱いていた。朝の光ではほとんど見えない。目を凝らすと、雨上がりの蜘蛛の糸みたいに、骨から骨へ淡く渡っている。

 賢人は、持ち手を握った。

 溝に指をかける。濡れた手袋でも滑らないよう、叶一が削り直した丸み。安全紐の根元を軽く引く。かち、と小さな音がして、留め具が外れる。

 「一本目、よし」

 声に出して、確認表へ丸をつけた。

 自己暗示ではない。数えるための声だった。

 店の奥から、祖父の古い壁時計が八時を鳴らす。針の音は、いつもより大きく聞こえた。賢人は深呼吸し、二本目を開いた。

 シャッターは、もう全部上げてある。

 五月の終わりに半分だけ開けたときの重さを、指がまだ覚えていた。あのときは、町に帰ってきた自分を誰にも見られたくなかった。東京から逃げたことも、祖父の店をどうするか決めていないことも、花に十年前の返事を置いていったことも、全部、半分のシャッターの陰に隠せるような気がしていた。

 今朝は違った。

 祭りの準備で、商店街は早くからざわついている。氷を積んだ軽トラックが通り、射的屋の男が看板を肩に担ぎ、子ども会の母親たちが段ボールを抱えて歩く。衣代の店の前では、腕章の入った箱が椅子の上に置かれ、杏侑子が「説明紙、説明紙、説明紙」と呪文のように言いながら道を行ったり来たりしていた。

 尚は、小料理屋の前でおにぎりの箱を抱えていた。

 「賢人、朝ごはん」

 「今、手が離せない」

 「手は離さなくていいから、口を開けなさい」

 「親鳥か」

 言い返した瞬間、尚が本当におにぎりを差し出してきた。賢人は傘を閉じずに、片手で受け取った。海苔の香りが、湿った布と機械油の匂いの間に入ってくる。

 「泣いてないんですね」

 「朝から泣いたら塩気が増えるから」

 尚はそう言いながら、もう目のふちを赤くしていた。

 「今日は、何があっても全員帰す日だよ。花ちゃんも、海太くんも、役場の人も、屋台の子も。賢人も」

 「はい」

 賢人は、ふざけずに頷いた。

 尚はそれを見て、少し困った顔をした。

 「そういう返事されると、泣くほうが負けみたいじゃない」

 「泣くのは夜にしてください」

 「夜まで持つかなあ」

 持たないだろうな、と賢人は思ったが、言わなかった。

 午前十時、灯町消防署の小型車が商店街の入口に止まった。

 花は作業服姿で降りてきた。髪はきつくまとめられ、腰のベルトには手袋と小さなライトが収まっている。宵市の浴衣とは違う。白い衣装を着る未来の姿とも違う。今、目の前にいるのは、灯町の夏祭りで、川沿いと駅前と商店街の人の流れを見る消防士だった。

 「おはようございます」

 花の声に、近くの店主たちが一斉に返事をした。

 賢人も返事をしようとして、一拍遅れた。

 花がこちらを見る。

 「寝坊しなかったんだ」

 「今日は、店が先に起きてました」

 「店のせいにしない」

 花はいつもの調子で言い、すぐに黒い傘の箱を確認した。

 「十二本?」

 「十二本。説明紙は二百。腕章十五。予備の留め具三つ。水は二箱。尚さんのおにぎりは、俺が一個減らした」

 「水、先に飲んで」

 「今?」

 「今」

 賢人は言われるままペットボトルを開けた。花はそれを見届けてから、傘の内側に手を入れた。指先が、細い反射線の上をなぞる。賢人の手ではなく、仕事の目で見る指だった。

 「昨日より浮きが少ない」

 「叶一さんが、夜に少し直してくれた」

 「叶一さんは?」

 「工場で、最後の留め具を削ってから来るって」

 「海太は、歩道橋の上を見に行ってる。晃煕さんは川沿いの屋台の配置確認。衣代さんは腕章。杏侑子さんは……」

 その名を出したところで、商店街の奥から杏侑子の声が飛んできた。

 「説明は三回まで! 配る人は、読んでから配ってください! 読まずに配ると、私が泣きます!」

 花は目を閉じた。

 「泣く人、多いな」

 「灯町の防災資源です」

 「それ、報告書に書かないで」

 短く笑ったあと、花は表情を戻した。

 「今日の黒い傘は、正式な試験導入。使う範囲は、商店街の入口から歩道橋手前、それから駅前地下道の西側まで。勝手に広げない。いい?」

 「はい」

 「人が怖がっても、傘を押しつけない。列をつくるために使うけど、紐で縛るためじゃない。強く引かれたら外れる。外れていい。外れたら、外れたことを声に出す」

 「外れたら、外れたと言う」

 「壊れたら?」

 「直す前に、渡さない。危ないと判断したら、予備に替える」

 「賢人が焦ったら?」

 「水を飲む」

 花は少しだけ口元をゆるめた。

 「よし」

 その一言で、賢人の背中にあった板みたいな緊張が、ほんの少しだけ外れた。

 昼に近づくにつれ、商店街は人で埋まり始めた。

 灯町夏祭りは、観光パンフレットに大きく載るような祭りではない。川沿いに屋台が並び、商店街のアーケードに提灯が揺れ、団地の子どもたちが小銭を握って走り、駅の反対側に住む高齢者が折りたたみ椅子を持ってくる。大きすぎず、小さすぎず、毎年ここに暮らす人たちが「今年もこの日が来た」と確かめるための一日だった。

 杏侑子は、浴衣の上に腕章を巻いていた。

 「今日の私は、防災説明係で、商店街連合会の臨時職員で、黒い傘の広報担当で、迷子案内の補助で、あと射的の景品数える係です」

 「絞ってください」

 賢人が言うと、杏侑子は胸を張った。

 「全部、今日のうちに必要なんです」

 「昨日、目標は全員無事って書いてましたよね」

 「あれが一番上です。あとは下にぶら下がってます」

 そう言って、杏侑子は説明紙を抱えたまま、子どもたちへ「黒い傘は遊具ではありません」と言いに行った。言われた子どもたちは、黒い傘より杏侑子の浴衣の帯に刺さった鉛筆を見て笑っていた。

 衣代は、腕章を配りながら、一人ずつ結び目を直していた。

 「結び目がほどけたら、気持ちまでほどけるのよ」

 「腕章に気持ちってあります?」

 賢人が聞くと、衣代は即答した。

 「あるわよ。誰かの前に出る人の布には、全部あるの」

 その言葉を聞いた花が、少しだけ腕章に触れた。消防署のものではない、商店街の布。けれど今日は、それが黒い傘を持つ人を示す目印になる。

 叶一は昼過ぎにやって来た。白い作業着の袖をまくり、紙袋を賢人に渡す。

 「予備の留め具。三つじゃ足りない気がして、六つにした」

 「ありがとうございます」

 「礼は夜でいい。今は数えろ」

 賢人は紙袋の中を数えた。六つ。小さな部品なのに、手のひらへ置くと妙に重かった。

 海太は、歩道橋の手前から戻ってきた。

 「川沿いの曲がり角、屋台の列が想定より前に出ている。晃煕さんが移動を頼んでいるが、夕方までにまた膨らむ」

 「人が増えるから?」

 「花火を見る場所を探す人が、少しずつ前へ出る」

 花が頷いた。

 「黒い傘の配布位置、二か所目を少し後ろへ下げよう。混み始めてから前に出すと、余計に詰まる」

 「了解」

 海太は短く答え、賢人を見た。

 「修理道具は持ち歩ける形にしたか」

 「ここに」

 賢人は腰の小さな工具袋を叩いた。祖父の工具のうち、必要なものだけを選んだ。骨を押さえる小さな金具、替えの留め、布を一時的に押さえるクリップ。全部を持っていくことはできない。今日必要なものを選ぶ。それも、少し前の賢人には苦手なことだった。

 「多すぎると動けない」

 海太が言った。

 「少なすぎると直せない」

 賢人が返す。

 海太はそれ以上言わず、歩道橋のほうへ戻った。

 午後五時、提灯に灯が入った。

 空は、まだ青かった。川の向こうにだけ、薄い灰色の雲が重なっている。祭りの放送では、花火の開始予定時刻と、川沿いの混雑を避ける案内が繰り返されていた。子どもが走り、焼きそばの匂いが立ち、かき氷の機械が氷を削る音が鳴る。

 賢人は、黒い傘の一本を持って商店街の入口に立った。

 「黒い傘の説明紙です。雨が強いときや、案内があったときだけ開いてください。内側の線は、前へ進む方向を見るためのものです。紐は、強く引くと外れます。外れて大丈夫です」

 何度も同じことを言う。舌が少しもつれてくる。けれど、言うたびに、言葉が自分の中で固まっていく。

 小学生の男の子が、傘を見上げた。

 「黒いのに、光るの?」

 「光るっていうより、見えやすくなる」

 「変身?」

 賢人は少し笑った。

 「雨が降ったら、少しだけ」

 男の子は「かっこいい」と言って、母親に腕を引かれて行った。

 その後ろ姿を見て、賢人は祖父の伝票を思い出した。何月何日、誰が、どんな雨の日に、どんな傘を持ってきたか。傘は、ただ濡れないためだけのものではない。その人が外へ出るための道具だ。今日の黒い傘も、そうでなければならない。

 午後六時半、雲が厚くなった。

 最初に気づいたのは花だった。彼女は川沿いから戻り、商店街のアーケードの端で空を見上げた。祭りの音の中でも、風の向きが変わったことは分かった。湿った風ではない。川の水面を低くなでて、屋台の暖簾を裏返す風だった。

 「海太」

 花が無線に向かって呼ぶ。

 海太の声が返る。

 「歩道橋上、風が強くなっている」

 「屋台の固定確認。川沿いから商店街へ戻す案内、早めに入れて」

 「了解」

 晃煕が、役場の腕章をつけて走ってきた。普段は丁寧な言葉を崩さない人が、額に汗を浮かべている。

 「雨雲が急に強まりました。花火の開始を遅らせる方向で調整しています。川沿いの人を一度、商店街側へ寄せます」

 花は頷き、賢人へ向いた。

 「まだ黒い傘は配りきらない。入口と歩道橋手前に四本ずつ。残りは黒瀬傘店前で待機」

 「分かった」

 「焦らないで」

 「水を飲む」

 「今じゃなくて、あとで」

 こんなときにも、花は一瞬だけ目で笑った。

 放送が入った。

 花火の開始を見合わせます。川沿いにいる方は、係員の案内に従い、商店街側へゆっくり移動してください。押さないでください。足元にご注意ください。

 その声が終わる前に、最初の雨粒が落ちた。

 大粒だった。

 一つ、二つ、と数えられる間もなく、屋台のビニール屋根を叩く音が増えた。人々が一斉に空を見る。誰かが「あ、来た」と言う。子どもが笑う。すぐに、その笑いは雨音に飲まれた。

 雨は、線になった。

 川沿いの提灯が揺れ、屋台の灯りが滲む。焼きそばの鉄板に雨が入らないよう、店主たちが慌ててシートを引く。駅へ向かおうとする人、商店街へ入ろうとする人、団地へ戻ろうとする人が、同じ曲がり角に重なった。

 花の声が低く響いた。

 「走らないでください。商店街の中へ進みます。右側を空けてください。小さいお子さんは手を離さないで」

 海太が歩道橋の手前で手を上げている。晃煕は屋台の列を一つずつ後ろへ下げ、杏侑子は説明紙を抱えたまま濡れていた。

 「黒い傘、開きます!」

 花が言った。

 賢人は一本目を開いた。

 黒い布が雨を受ける。内側の細い線に、商店街の灯りと懐中電灯の光が入った。昼には眠っていた線が、淡く浮かぶ。矢印のようにはっきり命令するのではない。ただ、視線を前へ送る。人の目が、濡れた足元から少し上がる。

 「こちらへ。傘の内側を見て、ゆっくり進んでください」

 賢人は、自分の声が思ったより出ることに驚いた。

 花は先頭で、子ども連れを商店街へ誘導していた。海太は歩道橋の階段下で、高齢者に手すり側を空けるよう声をかける。衣代は濡れた浴衣の裾を片手で押さえながら、腕章の人を見つけて配置を直していた。

 「こっちの黒い傘、もう一本!」

 杏侑子が叫ぶ。

 賢人は二本目を開いた。安全紐を、隣の傘へゆるくつなぐ。

 「引っぱらないでください。目印です。つなぐためじゃなくて、離れすぎないためです」

 説明した直後、列の中の高齢の男性が足を止めた。雨で眼鏡が曇り、前が見えにくいらしい。孫らしい女の子が不安そうに腕を引いている。

 花がすぐにしゃがんだ。

 「急がなくて大丈夫です。手すりまで、三歩です。傘の内側、見えますか」

 男性は瞬きをし、黒い傘の内側を見た。

 「……ああ、線がある」

 「その線の先へ、ゆっくりです」

 「じいちゃん、こっち」

 女の子の声が震えていた。花は女の子へ目線を合わせた。

 「手、上手につないでるね。そのまま」

 女の子は唇を噛み、頷いた。

 そのとき、雷が鳴った。

 音は近かった。空が白く裂け、川沿いの一部の街灯がふっと消えた。人のざわめきが一段大きくなる。誰かが走り出しかけた。海太の声が飛ぶ。

 「走らない!」

 短い声だった。

 けれど、その声だけでは足りなかった。暗くなった歩道橋の手前で、人の流れが止まりかけている。傘を持つ人、持たない人、濡れた荷物を抱えた人、屋台のシートを避けようとする人。進む先が見えないと、足は止まる。止まった足の後ろに、次の足が詰まる。

 賢人の胸が、強く鳴った。

 地下道の夜を思い出した。十年前に駅のホームで背を向けた自分も思い出した。黒瀬傘店の半分だけ開けたシャッターも、東京から持ち帰った小さな段ボールも、全部が一瞬で体の中を通り抜ける。

 逃げるな、と思う前に、足が動いた。

 「歩道橋へ、三本持っていきます!」

 花がこちらを見た。

 「賢人、足元!」

 「見てる!」

 「工具袋、落とさないで!」

 「そこまで見てるの!?」

 「見える!」

 怒られているのに、少しだけ笑いそうになった。けれど笑う暇はなかった。

 賢人は黒い傘を三本抱え、歩道橋の手前へ向かった。雨は横から叩きつける。黒い傘の外側に水が跳ね、腕を伝って袖の中へ入る。足元の水たまりに屋台の灯りが割れている。

 歩道橋の下で、一本の傘の骨が曲がっていた。持っていたのは、商店街の米屋の主人だった。突風であおられ、骨の一本が外側へ跳ねている。主人はそれでも傘を閉じようとせず、内側の線を前へ向けようとしていた。

 「無理に開かないで!」

 賢人は駆け寄った。

 「でも、これが目印だろ」

 「目印は替えます。これは俺が見ます」

 賢人は予備の一本を主人へ渡し、曲がった傘を受け取った。骨の根元を指で押さえる。どこが先に曲がったか、すぐに分かった。祖父の店で、何百本も触ってきた壊れ方。東京では役に立たないと思っていた指の記憶。

 工具袋から金具を出す。雨で指が滑る。息を止める。花の声、海太の声、放送、雷、子どもの泣き声、全部が遠くなる。

 折れてはいない。外れているだけだ。

 賢人は骨を戻し、仮の金具をかけた。完全ではない。けれど、閉じて運ぶには十分だった。

 「これはもう使いません。黒瀬傘店前へ下げてください」

 「分かった」

 米屋の主人は頷き、予備の傘を開いた。

 その内側に、光が浮かぶ。

 歩道橋の手前へ、黒い傘が三本、四本、五本と並んだ。傘同士の安全紐はゆるくつながり、人の肩と肩の間に、細い目印を作る。強く引かれれば外れる。外れてもいい。外れたら、つなぎ直すより先に、人が倒れていないかを見る。

 「外れました!」

 杏侑子の声がした。

 賢人は振り返った。

 団地へ帰る親子の荷物に、紐が引っかかったらしい。紐は設計どおり外れ、地面に落ちていた。母親が焦っている。

 花がすぐに近づいた。

 「大丈夫です。外れるための紐です。お子さん、足元は?」

 「大丈夫です」

 母親が答える。

 杏侑子は、濡れた髪を顔に貼りつかせながら、紐を拾った。

 「外れて、いい! 外れて、成功!」

 声が裏返っていた。

 賢人は、その言葉に救われた。失敗ではない。外れることまで決めた。壊れ方を決めた。叶一の言葉が、雨の中で形になっていた。

 歩道橋の上へ、最初の列が進み始めた。

 花が先頭に立つ。黒い傘を少し傾け、内側の線を階段の上へ向ける。海太が後方で列の幅を見る。晃煕が放送用の小型マイクで、商店街側へ向かう人を分ける。衣代は、濡れた子どもの帯を直しながら、その子の母親を列へ戻す。

 尚は、小料理屋の前でおにぎりの箱を雨から守っていた。泣いているのか、雨なのか、もう分からない顔をしている。

 「賢人!」

 花の声がした。

 「こっち、一本!」

 賢人は、最後の予備を持って走った。

 歩道橋の中ほどで、風が強く吹き抜けた。黒い傘の列が一瞬揺れる。人の体も揺れる。賢人は手すりをつかみ、傘の柄を握り直した。

 内側の線が、濡れた空気の中で淡く伸びる。

 雨粒が、懐中電灯の光を受けて散った。黒い傘の内側に、白だけではない色が見えた。薄い青、黄色、赤、緑。祭りの提灯と屋台の灯りと、消防のライトと、駅前の明かりが、水滴の中で重なっている。

 歩道橋へ続く列の上に、その光が細く渡った。

 「……虹みたい」

 誰かが言った。

 杏侑子だった。

 彼女は泣きながら、笑っていた。

 「空にかかる虹の橋みたい」

 賢人は、顔を上げた。

 橋の先に、花がいた。

 作業服は雨を吸い、髪の端から水が落ちている。けれど花の声は乱れていなかった。

 「ゆっくり進みます。止まらないで。前の人の背中ではなく、足元と傘の内側を見てください。大丈夫です。進めます」

 その言葉に、人が動く。

 賢人は、胸の奥が熱くなるのを感じた。発明が認められたからではない。自分の傘が人を従わせているからでもない。

 花の声があり、海太の目があり、晃煕の手続きがあり、叶一の留め具があり、衣代の腕章があり、杏侑子の説明紙があり、尚のおにぎりがあり、商店街の人たちの足があった。その全部が重なって、雨の中で人を前へ送っている。

 黒い傘は、その真ん中に一本ずつ開いているだけだった。

 それで十分だった。

 最後の大きな列が、歩道橋を渡りきった。

 駅前地下道の西側へ向かう人は、晃煕の案内で別の道へ回された。川沿いに残っていた屋台の人たちも、荷物をまとめて商店街へ入った。迷子の子どもは、衣代の店の前で母親に抱きしめられた。高齢の男性は、女の子と手をつないだまま、黒い傘の内側をもう一度見上げていた。

 「線、まだ見えるな」

 男性が言った。

 女の子が頷く。

 「じいちゃん、さっきより歩くの早かった」

 「うるさい」

 そのやり取りに、近くの人が少し笑った。

 雨はまだ強い。花火は中止になるだろう。屋台の売り上げも、準備した飾りも、濡れてしまったものがたくさんある。完全な夜ではない。誰も困らなかったわけではない。

 けれど、人は大きく崩れなかった。

 誰も、暗い場所で取り残されなかった。

 賢人は、曲がった傘を抱えて、歩道橋の下に立った。息が切れている。手は震えていた。工具袋は泥水で汚れている。おにぎりのことを思い出したが、もう原形を保っている気がしなかった。

 花が戻ってきた。

 「怪我は?」

 「俺はない」

 「傘は?」

 「一本、仮止め。使用中止。紐は二回外れた。外れて、誰も倒れてない」

 「よし」

 花は短く言った。

 その声が、朝の「よし」と重なった。

 賢人は、何か返そうとした。好きだとか、怖かったとか、ありがとうとか、十年前の駅のホームでは言えなかった言葉が、喉の奥で渋滞する。

 けれど花は先に、賢人の肩越しへ視線を向けた。

 「まだ終わってない。黒瀬傘店前に戻って、濡れた傘を分けて。使えるものと、使えないもの。説明紙も濡れて読めないものは下げる」

 「了解」

 賢人は頷いた。

 今は、それでよかった。

 花が隣を通り過ぎる。ほんの一瞬、花の手袋が賢人の手の甲に触れた。握る時間はない。立ち止まる時間もない。触れたことを確かめる暇さえ、雨が奪っていく。

 それでも、賢人は分かった。

 置いていかれたのではない。

 同じ雨の中で、それぞれの場所へ進んでいる。

 黒瀬傘店前に戻ると、尚が本当に泣いていた。

 「賢人、生きてる」

 「生きてます」

 「花ちゃんも生きてる」

 「仕事してます」

 「黒い傘も生きてる」

 「何本かは入院です」

 尚は声を上げて泣きながら笑った。杏侑子も隣で泣いていた。衣代は二人に手ぬぐいを投げ、叶一は濡れた傘の骨を一本ずつ見ていた。

 「この仮止め、よく雨の中でやったな」

 叶一が言った。

 「祖父の店で、よく似た壊れ方を見ました」

 「じゃあ、祖父さんも今日の担当だ」

 賢人は返事をしなかった。

 できなかった。

 店の奥で、祖父の壁時計が鳴った気がした。雨音のせいで、本当かどうかは分からない。けれど、半分だけ開けていたシャッターの向こうにいた自分は、もうここにはいなかった。

 商店街の放送が、花火の中止を告げた。

 残念がる声が上がった。子どもたちは肩を落とし、大人たちは濡れた荷物を抱え直す。けれど、その声の下には、どこかほっとした空気もあった。帰れる。歩ける。家へ戻れる。誰かと手をつないだまま、明かりのあるほうへ進める。

 賢人は、黒い傘を一本開いた。

 内側の水滴が、提灯の光を受けて淡く光る。花火は上がらなかった。けれど、雨の夜の歩道橋には、たしかに光がかかった。

 花が商店街の入口で、人の流れを最後まで見送っている。

 賢人はその背中を見ながら、傘を閉じた。

 自己暗示は、いらなかった。

 進める、と誰かに言う前に、自分の足がもう動いていた。

 雨の音は、まだ止まない。

 けれど灯町の人たちは、濡れながら、笑いながら、文句を言いながら、ひとつずつ店の明かりの中へ戻っていく。

 黒い傘は、泥水を払われ、使えるものと使えないものに分けられ、黒瀬傘店の作業台へ並べられた。

 賢人は確認表に、濡れた鉛筆で書いた。

 八月末、灯町夏祭り。豪雨。歩道橋手前で使用。紐は二回外れた。外れてよかった。傘一本、使用中止。仮止めで回収。大きな怪我の報告なし。

 最後に、少し迷ってから、もう一行だけ足した。

 人は、進んだ。



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