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黒い傘は、花嫁の手をひく。  作者: 乾為天女


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15/18

第15話 空にかかる前夜

 八月の終わりが近づいても、灯町の空気はまだ夏の底に沈んでいた。

 朝、黒瀬傘店の戸を開けると、湿った熱気がすぐに畳の奥へ入ってくる。店先の風鈴は鳴るほどの風ももらえず、ガラス戸の向こうで黙って揺れていた。賢人は額に浮いた汗を手の甲で拭い、開店札をひっくり返した。

 以前なら、それだけで一日の仕事をしたような顔になっていた。けれど、この数週間で、シャッターを上げることは始まりでしかないと体が覚えた。始まりなら、そのあとがある。掃き掃除、修理品の確認、電話の折り返し、試験導入用の黒い傘の最終確認、商店街へ渡す説明紙の束。やることを紙に書き出す前から、頭の中で順番が並ぶ。

 黒瀬傘店の作業台には、黒い傘が十二本、口を閉じた鳥のように横たわっていた。

 どれも同じに見える。外側は黒。派手な色も、大きな文字もない。通勤鞄の横にあっても、葬儀の列にあっても、誰かの仕事帰りの手にあっても浮かない黒だった。

 けれど、一本ずつ内側を開くと、細い線が違う角度で光を受けた。反射材の線は、懐中電灯を真正面から受けると眩しすぎる。だから、斜め下から見たときだけ、前へ流れるように浮かぶよう直した。蓄光する点は減らした。きれいに見せるためではなく、迷った人の視線を一方向へ集めるためだった。

 賢人は一本目を開き、店の奥から入口へ向けて傘を傾けた。

 「線、流れる。持ち手、滑らない。紐、外れる」

 声に出しながら、確認表へ丸をつける。

 昔の賢人なら、丸をつけるだけで満足したかもしれない。今は、丸の横に一言添える。持ち手、右手で握ると良好。左手で軍手、やや浅い。雨だれ、閉じたあと入口側へ落ちる。人が詰まる場所では向きを逆にする。

 書くたびに、花の声が頭に浮かんだ。

 使う人は、落ち着いているとは限らない。

 持つ人は、傘が得意とは限らない。

 賢人はペン先を止め、二本目の留め具を引いた。一定の力で、短い安全紐がぱちんと外れる。強すぎれば危ない。弱すぎれば列がばらける。叶一が夜遅くまで調整した小さな部品は、賢人の指先で乾いた音を立てた。

 「外れる。戻せる。絡まない」

 そこへ、商店街の奥から足音が近づいた。

 「おはようございます! 今日の目標は、配布説明紙を絶対に折り曲げない、です!」

 杏侑子が、両手に紙袋を抱えて店へ入ってきた。額に貼りついた前髪を気にする間もなく、紙袋を作業台の端に置く。

 「絶対にって言うと、だいたい折るよ」

 賢人が言うと、杏侑子は紙袋を見下ろした。

 「もう少し曲がってます」

 「早い」

 「でも読めます。読めたら勝ちです」

 「勝ち負けじゃないから」

 杏侑子は返事の代わりに、紙袋から説明紙を取り出した。晃煕が文面を整え、花と海太が言葉を削り、叶一が図の向きを直し、衣代が余白へ小さな傘の絵を入れた紙だ。

 黒い傘は、人を急がせる道具ではありません。

 進む向きを見失わないための補助具です。

 前の人を押さないでください。

 安全紐は、強く引かれると外れます。外れたら、つなぎ直さず、その場の係員の声を聞いてください。

 傘を高く上げすぎないでください。

 人の顔へ光を向けないでください。

 短い文が並ぶ紙を、賢人は何度も読み返した。最初に自分が書いた案は、もっと浮かれていた。「雨の夜を導く新発明」だの、「灯町発、未来の傘」だの、今思うと顔を覆いたくなる言葉ばかりだった。晃煕は怒らなかった。ただ、赤いペンでほとんどの文を消し、最後にこう書いた。

 使う人が迷わない文にしましょう。

 その一文が、賢人には一番効いた。

 「これ、何枚?」

 「二百枚です。足りなかったら商店街の印刷機で刷ります。足りすぎたら、私が来月の目標用紙の裏にします」

 「裏紙にする前提で刷らないで」

 「大丈夫です。晃煕さんに、そういうことを言うと役場の人の眉間に皺が寄るって学びました」

 「もう少し別のことを学んで」

 杏侑子は笑いながら、店先の細い机に紙を並べ始めた。風がないので、紙は飛ばない。その代わり、湿気で端が少し丸まっていく。賢人は古い文鎮を持ってきて置いた。祖父が使っていた、傘の骨を束ねる金具を重りにしたものだった。

 午前十時を過ぎると、衣代が腕章を持ってきた。

 白い布に、黒い傘の小さな印が縫いつけてある。目立ちすぎないが、係の人間だと分かる。衣代は腕章を作業台へ広げ、一枚ずつ糸の端を切った。

 「黒い傘を持つ人が分かればいいんでしょう。なら、着るものに大きな文字を入れなくてもいいわよ。ほら、年配の人は大きな字を見ると、読もうとして立ち止まることがあるから」

 「そこまで考えてたんですか」

 「衣装の仕事はね、見せたいところと、見せすぎちゃいけないところを分けるの」

 衣代はさらりと言い、一本の腕章を賢人の腕へ巻いた。

 「きつい?」

 「少し」

 「じゃあ本番は駄目。焦ると余計きつく感じるから」

 衣代はすぐに縫い目をほどいた。賢人はその手つきを見て、自分が傘を直すときの指に似ていると思った。布の声を聞く、という言葉は大げさかもしれない。それでも、衣代は布が人の体にどう当たるかを、目だけではなく指で見ていた。

 「花ちゃんの分も持ってきたわよ」

 衣代は別の腕章を取り出した。

 賢人は思わずそれを見る。

 「花の分は、消防署で支給されるものがあるんじゃ」

 「これは非番用じゃないわ。説明会で商店街側の確認に来たときの予備。花ちゃん、何でも自分で持ってきちゃうでしょう。でも、たまには誰かが用意してもいいのよ」

 衣代の声は、いつもより少しだけ低かった。

 賢人は頷いた。

 花は、いつも先に動く。先に見つけ、先にしゃがみ、先に支える。だから、花の分を誰かが用意して待っていることには、きっと意味がある。

 昼前、叶一が来た。

 作業服の胸ポケットには、細いドライバーと小さな袋が刺さっている。袋の中には、安全紐の留め具が三つ入っていた。

 「予備」

 それだけ言って、叶一は作業台の傘を一本ずつ開き始めた。

 「おはようございます、叶一さん。今日の目標は?」

 杏侑子が聞くと、叶一は少し考えた。

 「壊れないように作る。壊れるときは安全に壊れる」

 「かっこいいです。紙に書きます」

 「書かなくていい」

 杏侑子はもう付箋を出していた。叶一は止めなかった。止める時間が惜しいと思ったのかもしれない。

 叶一は賢人の確認表を読み、眉を少し動かした。

 「左手で軍手、やや浅い?」

 「うん。二本目と五本目。削りの角度が少し違う」

 「直す」

 「今日中に?」

 「今直す」

 叶一は工具箱を開け、店の隅で持ち手を削り始めた。削る音は小さい。だが、店の空気がその音を中心に整っていく。賢人は三本目を開き、内側の線を確認した。

 そこへ、晃煕が封筒を持って現れた。

 役場の白いシャツは、夏の湿気で背中に少し貼りついている。それでも、襟は乱れていなかった。

 「黒瀬さん。灯町夏祭り当日の黒い傘試験導入について、正式な確認書の写しです」

 「ありがとうございます」

 賢人は両手で受け取った。

 封筒は薄い。けれど、持つと重かった。紙の枚数ではなく、そこに関わった人の判断の重さだった。

 晃煕は眼鏡を直し、いつもの丁寧な声で続けた。

 「使用範囲は、商店街南口から歩道橋前まで。配布は係員のみ。一般の方へ手渡す場合は、花さんか海太さん、または商店街側の説明を受けた方の声かけを伴うこと。雨がない場合は通常案内のみ。落雷や強風が強い場合は傘を開かず、屋内誘導を優先。これで進めます」

 「はい」

 「黒瀬さん」

 晃煕は封筒から一枚だけ紙を抜き、賢人へ向けた。

 「採用ではありません。試験導入です」

 「分かってます」

 「成功発表でもありません。確認です」

 「分かってます」

 「ただし」

 晃煕はそこで少しだけ息を置いた。

 「確認する価値があると判断されました」

 店の中が、少し静かになった。

 杏侑子が口を開きかけ、衣代に袖をつままれて止まる。叶一の削る音も止まった。

 賢人は紙を見た。そこには、黒い傘の名前があった。ミチシルベ。最初は賢人が照れ隠しで書いた名だ。祖父の走り書きの端にあった「道しるべ」という言葉を、片仮名へ変えただけの名だった。

 けれど、役場の確認書にその名が載ると、急に自分だけのものではなくなった。

 「ありがとうございます」

 賢人はもう一度言った。

 声が少し震えた。杏侑子が両手で口を押さえる。泣くのかと思ったら、笑うのをこらえている顔だった。

 「賢人さん、今の顔、写真撮りたいです」

 「撮らないで」

 「泣きそうな顔です」

 「泣いてない」

 「尚さんに似てきました」

 「やめて」

 その尚は、午後になって大きな弁当箱を抱えて来た。

 「泣いてないよ」

 入口でいきなり言う。

 「まだ何も言ってないです」

 賢人が返すと、尚は店先の説明紙を見て、もう目を赤くした。

 「だって、黒瀬のじいさんが見たら、これ……」

 「泣いてるじゃないですか」

 「これは汗」

 「目から?」

 「夏だから」

 尚は弁当箱を作業台に置いた。中にはおにぎりがぎっしり詰まっていた。梅、鮭、昆布、卵焼き。海太なら栄養の配分に何か言いそうな内容だったが、賢人の腹は正直に鳴った。

 「食べながらやりな。手を洗ってからね」

 尚は言い、確認表の端へ自分の名前を書こうとした。

 「あ、係員名簿はそこじゃないです」

 杏侑子が止める。

 「どこ」

 「こっちです。あと、尚さんは当日、南口の屋台列の声かけです。泣かないでください」

 「泣かないよ」

 「泣くと思います」

 「泣くかもしれない」

 「認めるの早いですね」

 店の中に笑いが広がった。

 その笑いの中心で、賢人はおにぎりを一つ取った。手の中の米はまだ温かい。祖父の葬儀のあと、同じように尚が握ってくれたおにぎりを、賢人は味も分からないまま食べた。あのときは、町の人の優しさが少し重かった。逃げて戻った自分を、なぜこんなに見てくるのか分からなかった。

 今は違う。

 見られているのではない。見守られているのでもない。

 同じ机の周りで、同じ明日の準備をしている。

 午後三時、海太が来た。

 黒いTシャツに短い髪、手には水のペットボトルが二本。一本を花の分のように作業台の端へ置き、もう一本を自分で飲んだ。

 「花は?」

 賢人が聞くと、海太はペットボトルの蓋を閉めた。

 「署で説明中。あとで来る」

 「疲れてる?」

 「疲れている」

 隠さない答えだった。

 賢人は作業台の傘を見た。

 「俺、聞かないほうがいい?」

 「何を」

 「研修の返事」

 海太はすぐには答えなかった。店の前を自転車が通り、ベルの音が一つ鳴った。

 「聞いてもいい。だが、答えを急がせるな」

 「急がせない」

 「喜ぶ準備も、落ち込む準備も、顔に出すな」

 「難しいな」

 「難しいなら、黙って水を渡せ」

 海太はそう言って、作業台の端のペットボトルを指した。

 賢人は頷いた。

 海太は次に、黒い傘を一本開いた。店内の蛍光灯を受けて、内側の線が淡く浮かぶ。

 「前よりいい」

 その一言で、賢人の背中の力が少し抜けた。

 「海太さんにそう言われると、役場の判子より効く」

 「浮かれるな」

 「はい」

 「当日、雨が強ければ、傘は万能じゃない。風が強ければ閉じる。人が止まれば声を優先する。道具は、声の代わりにはならない」

 「分かってます」

 「分かっているなら、明日も言う。何度でも言う」

 海太は確認表へ自分の字で書き込んだ。

 雨天時、使用中止判断をためらわない。

 賢人はその文字を見て、胸の奥に少し苦いものが広がるのを感じた。八月上旬の雨天確認で、自分は止められることを失敗だと思った。今は、止められることも人を守る手順の一つだと分かる。分かるまでに、ずいぶん遠回りした。

 夕方、花が来た。

 消防署の作業服のまま、髪を後ろでまとめ、額に薄い汗をにじませていた。店に入る前に、入口で靴底を軽くこする。その何気ない動作が、花らしかった。

 「遅くなった」

 「お疲れ」

 賢人は用意していた水を差し出した。

 花は少しだけ目を細めた。

 「海太に言われた?」

 「はい」

 「素直でよろしい」

 花は水を受け取り、半分ほど飲んだ。喉が動くのを見て、賢人はすぐに視線を傘へ戻した。海太の言う通り、顔に出すな。喜ぶ準備も落ち込む準備も、顔に出すな。そう思うほど、顔に出そうになる。

 花は確認書の写しを読み、説明紙を一枚取り、腕章を手に取った。

 「これ、衣代さん?」

 「うん。予備だって」

 花は腕章の縫い目を見た。

 「ちょうどいい」

 「分かるの?」

 「分かる。きついと、いざというとき外したくなるから」

 花は腕章を丁寧に畳み、作業台へ戻した。

 その手が、確認表の上で止まる。

 研修の話を聞くなら今かもしれない。聞かないほうがいいかもしれない。賢人の中で、言葉が何度も立ち上がっては座った。

 花が先に言った。

 「まだ返事は出してない」

 賢人は、息を止めた。

 「うん」

 「明日の試験導入が終わってから、署長に話す。灯町で一年やりたいことがある。避難導線の見直しと、黒い傘の運用確認。それを終えてから、短期研修を希望できないか相談する」

 「それは」

 俺のため、という言葉が喉元まで来た。

 賢人は飲み込んだ。

 花はそれを見ていたように、少し笑った。

 「仕事のため」

 「うん」

 「私のため」

 「うん」

 「灯町のため」

 「うん」

 「賢人のため、だけじゃない」

 「分かってる」

 花は水の蓋を閉めた。

 「だけ、じゃない」

 最後の一言だけ、少し声が柔らかかった。

 賢人は確認表の端を指で押さえた。紙が湿気で丸まるのを止めるためではなかった。手を置いていないと、何か余計なことを言いそうだった。

 店の外では、商店街の放送が流れ始めた。

 明日の灯町夏祭りについて、屋台の開始時間、花火の予定、川沿いの通行止め、熱中症への注意を告げている。声は少し古いスピーカーで割れ、アーケードの天井に反響した。

 花はその声を聞きながら、黒い傘を一本開いた。

 内側の線が、夕方の光を拾って細く浮かぶ。

 「明日、雨が降るかもしれない」

 「予報、午後から不安定って言ってた」

 「降らなければ、それが一番いい」

 「うん」

 「降ったら、使うかどうかを決める。使わない判断もある」

 「うん」

 「それでも、準備はする」

 賢人は頷いた。

 準備は、雨を呼ぶためではない。雨が来なくても、やったことは無駄にならない。来たときに、誰かが迷わないようにしておく。それだけのことを、こんなにもたくさんの人が一日かけて積んでいる。

 夕方六時、黒瀬傘店の前に、黒い傘を持つ係員が集まった。

 尚、衣代、杏侑子、叶一、商店街の和菓子屋の主人、団地の自治会から来た二人、花と海太、晃煕。賢人は店先に立ち、説明紙を配った。

 「ええと、明日は、黒い傘を持つ人が先に走ったり、勝手に列を作ったりしないでください。消防署と役場の指示を聞いてから動きます。傘の内側の線は、進む向きを分かりやすくするものです。人を押したり、急がせたりするためではありません」

 声が少し上ずった。

 杏侑子が小さく拍手しそうになり、海太に見られて手を下ろす。

 賢人は続けた。

 「安全紐は、外れます。外れたら失敗じゃありません。外れることで危ない動きを止めます。つなぎ直すより、まず声を聞いてください。傘が壊れたら、俺に渡してください。俺が直します。直せないときは、使いません」

 言いながら、賢人は自分の声が少しずつ落ち着いていくのを感じた。

 誰かの前で責任を言葉にするのは怖い。けれど、怖いからこそ、口に出す必要がある。

 尚が手を上げた。

 「泣きそうになったら?」

 「泣いてもいいですけど、列の前ではなく横でお願いします」

 店先に笑いが起きた。

 花も笑っていた。海太は笑わなかったが、尚へ水の場所を指で示した。晃煕は説明紙の予備を揃え、衣代は腕章の緩みを見て回る。叶一は黒い傘の留め具を最後にもう一度引いた。

 その光景を見て、賢人は胸の奥が熱くなるのを感じた。

 祖父が使っていた店の前に、こんなに人が立っている。閉めるか開けるか、付箋一枚で決められそうだった場所に、今は明日の役割を持った人たちがいる。

 説明が終わると、花が賢人へ目で合図した。

 「歩道橋、見に行こう」

 「今から?」

 「今から。明日の夕方は人が多い。暗くなる前に、最後に見る」

 賢人は黒い傘を一本持った。

 店を出ると、空は濃い青から紫へ変わり始めていた。夏祭り前夜の商店街は、いつもより落ち着かない。屋台の骨組みが組まれ、提灯がまだ灯っていない列のまま揺れている。焼きそばの鉄板は明日を待って伏せられ、金魚すくいの水槽は空で、射的の的は箱に入ったまま積まれていた。

 花と賢人は、川沿いへ向かって歩いた。

 途中、団地へ続く坂道で、花は足を止める。

 「ここ、濡れると滑る」

 「明日は係を一人置く?」

 「置けるなら。無理なら、声かけの紙を貼るより、足元の水を先に掃く」

 「紙より、水」

 「そう」

 賢人は覚えた。

 紙より、水。宣伝より、足元。発明より、目の前の危なさ。

 歩道橋へ上がるころには、商店街の灯りが背後で点き始めていた。駅前のビルの窓も、川面に細く映っている。花火の打ち上げ場所は、まだ暗い河川敷の向こうにあった。明日の夜、そこに人が集まる。楽しみに来る人、仕事帰りに寄る人、子どもの手を引く人、屋台の片づけを気にする人、早めに帰ろうとする人。

 その人たちの足が、雨で止まるかもしれない。

 賢人は歩道橋の手すりを握った。

 「怖いな」

 花が横に立った。

 「怖いよ」

 すぐに返ってきた声に、賢人は少し驚いた。

 花は川のほうを見ている。

 「怖くない人が前に立つんじゃない。怖いから、先に見る。怖いから、何度も確認する」

 「花も?」

 「するよ。毎回」

 「そう見えない」

 「見せる場所を選んでるだけ」

 花はそう言って、手すりから手を離した。

 「高校のころは、賢人にだけ言ってた」

 賢人は息を詰めた。

 「私、怖いって。進路も、訓練も、家のことも、町を出る人を見送ることも。賢人は、聞いてるんだか聞いてないんだか分からない顔で聞いてた」

 「聞いてた」

 「返事は少なかった」

 「すみません」

 「でも、聞いてたのは分かってた。だから、あの日も聞いてほしかった」

 あの日。

 花火の日。駅のホーム。戻ってくるかと聞かれて、答えなかった日。

 賢人は、歩道橋の向こうにある駅の明かりを見た。十年前の自分が、そこへ逃げていく背中が見える気がした。軽い鞄を持ち、重いものは全部置いていくつもりでいた背中だった。

 「明日は、聞く」

 賢人は言った。

 「花の声も、海太さんの声も、晃煕さんの止める声も、商店街の人の声も。聞いてから動く」

 花は賢人を見る。

 「自分の直感は?」

 「捨てない。でも、直感だけで走らない」

 「うん」

 「傘が折れたら直す。使わないほうがいいと思ったら、使わないって言う。成功したいからじゃなくて、無事に終わらせたいから」

 花は黙って頷いた。

 川から風が上がってきた。湿った風だった。明日の雨を含んでいるようにも、ただの夜風のようにも思えた。

 賢人は黒い傘を開いた。

 雨は降っていない。それでも、歩道橋の上で傘を開くと、内側の線が商店街の灯りを拾った。淡い光は、傘の中心から縁へ、そして賢人と花の足元へ落ちる。

 花が傘の下へ入った。

 肩が触れるほど近いわけではない。けれど、同じ傘の影にいた。

 「明日、終わったら」

 賢人は言いかけた。

 花が横目で見る。

 「何?」

 「いや、終わってから言う」

 「また置いていく?」

 「置いていかない。言う場所を間違えたくないだけ」

 花は少し笑った。

 「十年前より、慎重になった」

 「周りに慎重な人が多すぎる」

 「いいことだね」

 「うん」

 二人はしばらく黙って、歩道橋から灯町を見た。

 商店街には、まだ準備をする人の姿がある。尚の店の暖簾が揺れ、衣代の店の明かりが消え、町工場のほうには叶一が戻っていく影が見えた。役場の窓には一つだけ明かりが残っている。晃煕が、明日の書類をまだ見ているのかもしれない。

 消防署の赤いランプは、静かに灯っていた。

 賢人は、黒い傘の持ち手を握り直した。

 この町に戻ったとき、自分は何も持っていないと思っていた。東京で続けられなかった自分、祖父の店をどうするか決められない自分、昔の返事もできない自分。持っていたのは、壊れた傘を見抜く指先くらいだった。

 けれど、その指先から、こんな夜へつながった。

 花が隣にいる。明日のために、町の人たちが動いている。黒瀬傘店のシャッターは下りていない。黒い傘は、まだ本当の答えを出していない。それでも、答えの前まで来ている。

 花が傘の内側を見上げた。

 「空にかかる前の橋みたい」

 「まだ空にはかかってないよ」

 「だから、前夜」

 その言葉が、賢人の胸に残った。

 空にかかる前夜。

 明日が晴れれば、この傘はただの備えで終わる。雨が降れば、使うかもしれない。風が強ければ、閉じるかもしれない。どれが正解かは、明日にならなければ分からない。

 けれど、今日できることは終わっていない。

 賢人は傘を閉じた。

 「店に戻る。あと三本、確認してない」

 花が頷く。

 「私も署に戻る。明日の配置をもう一回見る」

 「休んで」

 「賢人も」

 「寝坊しない」

 「それは最低限」

 二人は歩道橋を下りた。

 商店街へ戻る道で、花は消防署のほうへ、賢人は黒瀬傘店のほうへ分かれる。角を曲がる前に、花が振り返った。

 「賢人」

 「何?」

 「明日、怖くなったら、声を出して」

 賢人は頷いた。

 「花も」

 花は少しだけ目を丸くしたあと、笑った。

 「出すよ。仕事だから」

 「仕事じゃないときも」

 花は返事をしなかった。

 代わりに、持っていた説明紙を軽く掲げた。紙の端が夕風で揺れる。

 「終わってから」

 それだけ言って、花は消防署の角を曲がった。

 賢人は黒瀬傘店へ戻った。

 店内には、杏侑子が貼った付箋が一枚、作業台の端に残っていた。

 明日の目標。全員、無事に帰る。

 字は少し曲がっている。最後の丸は力が入りすぎて、紙の繊維がへこんでいた。

 賢人はそれを剥がさなかった。

 黒い傘を一本開き、内側の線を確認する。持ち手を握り、安全紐を引き、外れる音を聞く。確認表に丸をつけ、気づいたことを書く。

 外では、祭り前夜の提灯に明かりが入った。

 赤、白、薄い黄色。黒い傘の内側に、その色が少しだけ映った。虹ではない。まだ橋でもない。ただ、雨が来る前の小さな光だった。

 賢人は最後の一本を作業台に置き、深く息を吐いた。

 明日は、逃げない。

 そう唱えようとして、やめた。

 自己暗示ではなく、確認でいい。

 傘は十二本。説明紙は二百枚。腕章は十五枚。予備の留め具は三つ。水は箱で二つ。尚のおにぎりは、残り五個。花の分の水は、飲み終わって空になったペットボトルが作業台の端にある。

 そして、黒瀬傘店の鍵は、賢人のポケットにある。

 閉めるための鍵ではない。

 明日の朝、もう一度開けるための鍵だった。



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